起
ぐぎゅるる。
本日10回目の腹の虫が鳴いた。
もう三日は何も食べてないんじゃないかと思う。
最後に食べたのはなんだったか……もはや思い出す事すら難しい。
……なんて大袈裟な妄想をしながら母の帰りを待っているのが僕、タカヒロだ。
ちなみに昨日の夕食は味噌汁とふりかけご飯。
現在はちょうど正午を回った頃だから、本日の朝ごはんと昼ごはんを抜いたという事になる。
食べ盛りの僕にとっては由々しき事態なのだ。
──タカヒロと母が二人で暮らすこの家は、山間の小さな田舎村の中にある。
過疎化の進んだ村ではあるが、食料品店が無いわけではない。
しかし、タカヒロ達は訳あって店を利用出来ずにいた。
村の外から食料を調達するには、かなりの距離を移動しなければならず、日に数本のバスを乗り継ぐ必要がある。
そして、タカヒロの母は前日に買い出しの為に外出したきり、家に戻ってきていなかった──
どこかで物音がするたび、母が荷物を大量に抱えて帰ってくる事を予想しては打ち砕かれる。
何故こんなにも帰りが遅いのか。
もういくら考えても仕方がないので、僕は意識を外すためにネット小説を読むことにした。
引き篭もりの主人公が生まれ変わり、伝説の勇者として悪党を退治していくファンタジー小説だ。
平和のために戦い、まわりの人々に好かれて、認められて、たくさんの女の子に囲まれて……。
何度読んでも楽しい、幸せなストーリー。
もし、生まれ変わる事が出来るのなら、こんな風に――
ぐぎゅるるるる。
本日30回目の腹の虫が鳴る。
うん。もうダメだ。わりと本気でお腹がすいた。
転生するにしても前世が餓死なんてのはまっぴらごめんだ。
家の中にはもう食べ物の気配が無かったので、少し離れたところにある蔵に向かうことにする。
確か蔵の中には、超絶臭いニシンの缶詰とかが封印されていたはずだ。アレが役目を果たすのは、何でも食べられそうなこのタイミングしか考えられない。
玄関の施錠をしっかり確認して、徒歩五十メートルの蔵に向かう。
たったこれだけの外出でも心臓がどきどきする。
僕は誰にも見つからないよう祈りながら、慎重に蔵へと進んだ。
古ぼけた蔵は、ところどころが土埃や苔で汚れていて、人工物というよりも自然に出来上がった構造物を思わせる。
そして、入り口に到着すると扉に違和感を覚えた。
――鍵がかかっていない。
僕は妙な胸騒ぎを覚えて、一息に扉を開いた。
むっとした埃っぽい臭いと、ほんの少しの嗅ぎなれた臭いと……あと、ひどく嫌な臭いが室内に充満していた。
ニシンの臭いとも違う。もっと場違いな、生理的な嫌悪感をおぼえるような臭いだ。
僕は慌てて、壁にある照明のスイッチをオンに切り替えた。
部屋全体が明かりで照らされる。
埃の被った古い箪笥。ぐるぐる巻きに畳まれた布束。よく分からないモノ。鉈や鋤などの農具。年季の入った柱時計。
見たところ、蔵の中は以前と特に変わらないようだった。
だというのに、どういうわけか動悸がおさまらない。
本当に、いつもとおなじか?
箪笥。これは母の着物などが入っている。
布束。用途はよく分からない。
よく分からないモノ。よく分からない。
農具。父がいた頃は僕も作業を手伝っていた。
古時計。まだ動いていて、現在は午後の四時を指している。
……よく分からないモノ?
これは何なんだ?
なんだがうまく視点が合わせられないというか、焦点がズレるというか……。
僕はそれが何なのかしっかり確認するために近づこうとして――
突然、全身から力が抜けて目の前が真っ暗になった。
「……もし」
何だろう。だれかの声が聞こえる。
「もしもーし」
気がつくと、女の人がこちらを覗き込んでいた。顔がくっつきそうなくらいの距離で。
「う、うわ! なんだ!?」
「よかった。まだ元気そうね」
女の人はくすくすと笑い、すっと顔を引いて立ち上がった。
光を受けて輝く金髪に、端正な顔立ちは笑顔でもなお上品な崩れ方をしている。真っ白なワンピースのような衣装は強く発光していて、それでも眩しさは感じなかった。
なんというか、端的に言うとすごい人感が滲み出ている。
「さあ、立てるかしら?」
すごい人の手を借りて立ち上がる。
周りを見ると、真っ白な景色がどこまでも広がっていて……なんだか不思議な世界にいるようだ。
まさかとは思うけど……。
「ここはどこ? あなたは?」
「あなたが住んでいた世界とは違う世界よ。そして私は女神様」
なんてこった! 異世界転生ってやつだ。
という事は……。
「あの、やっぱり僕、死んだんです……?」
「あら。話の早い子って好きよ。あなたはそうね……餓死したわ」
「ええー……」
餓死で転生は嫌だっていったのに。
「あなたにはこれから、世界平和のために魔物と戦ってもらうわ」
「戦うって……僕、喧嘩もまともにしたことないよ?」
ともあれ、きっとここは強力な能力を貰う重要な場面だ。上手く誘導できるなかな。
「前世でもへっぽこのいじめられっ子だったんだ! 引きこもりだったし、ご飯も一人で買いに行けないくらいで、何をするにもお母さんがいて――」
一瞬、テレビ画面に流れる砂嵐のようなものが、びりっと視界全体を覆った。
「おわっ、なんだ?」
「レベル99とスキル【餓狼】・【獅子吼】をあげるわ。私が渡せる限りで最強で最高のプレゼント」
女神はぱちっとウィンクをした。
確かになんだか強そうな感じがする。でも気は抜けない。
「スキル名が微妙に不穏だし、レベル99は実はそこまで高くなかったり……」
「もう、信用ないわねー。ステータス画面を開いて見てみるといいわ」
おお。アレがあるのか。それなら予習済みだ。
「ちなみに開き方は」
「ステータス・オープンッッ」
「念じるだけでいいわよ……」
「ええっ」
名前:餓狼の勇者【タカヒロ】
・レベル99/∞
・筋力999/∞
・体力999/∞
・素早さ999/∞
・魔力999/∞
スキル【餓狼】:戦闘に飢えた闘争心が貪欲に成長を促進する。レベル及び各パラメータの上限が無くなる。元の上限値はレベル99及びパラメータ999。
スキル【獅子吼】:湧き上がる怒りをコントロールし、純粋な力として振るう事が出来る。攻撃に一切のためらいが無くなり、全ての攻撃が致命的な一撃となる。
「どうかしら? 大罪スキル二つなんてすごいことなのよ」
「す、すごい……強そう」
目の前に表れたステータスウィンドウを見ても、デメリットらしい記述は見当たらない。それどころか、これは完全にチートというやつなのでは。
「本当に強いのよ。まだ心配? そうねぇ……最後に武器を選んでいくといいわ」
女神がパチンと指を鳴らすと、二つの武器が現れた。
「剣と……槍?」
「ええそうよ。ノーグウェポンといって、先代の勇者もこれを使っていたわ」
かなり年季が入っているけど、どちらも頑丈な作りだ。
剣は分厚い刄がついていて、槍と比べると全体的にかなり短い。持ち手が広く作られているので両手で振り回す事ができそうだ。
槍は長い棒の先端に四角い鉄の刄がついていて、もう一方は握りやすいように、三角形のグリップになっている。
「じゃあ槍をもらうよ」
僕は即答した。
「あら、どうして? 剣の方が勇者っぽくないかしら?」
「剣道三倍段というのがあってね。素手で剣を持った人と戦うには三倍の腕前が必要、というやつなんだ。色々な要素があるんだけど、リーチの差が一番大きいといわれてるよ」
「まあ、博識。そのノーグウェポンは【スペード】といって、先代勇者が一番使い込んでいた武器なのよ。一目で強い武器が分かるなんて、さすがは私の見込んだ転生者ね!」
絶賛する女神。僕の世界ではわりと常識なんだけど……。
「さあ勇者タカヒロ、行きなさい。その扉を出れば魔物がうろつく危険な世界が待っているわ。でも大丈夫、あなたは最強なのだから」
女神が指をさした方向に真っ赤な扉が現れた。
「うん。いってきます」
時刻は0時。魔物達も眠る深夜帯。
僕は湧き上がる妙な高揚感に戸惑いを覚えながらも、その扉に手をかけた。