アイドルを辞めた私が殺し屋に出会った話
「今日でアイドルは辞めます。今までありがとうございました」
私は深々と一礼して部屋を出た。誰も私を追いかけて来る人はいなかった。あぁ、やっぱりなと思いながらも、内心では誰かが引き留めてくれる事を期待した。そんな私が何だか馬鹿らしかった。私は階段を降りて事務所を出ると、ビルに向かって一礼した。私はもうここに来ることはない。
ありがとうございました。さようなら、アイドルだった私。
気が付くと私は泣いていた。私は指で雫を押し潰すように消して、駅へ歩を進めた。駅構内は人で溢れていて、少しうんざりしてしまう。今は見ず知らずの他人であれど、私の顔を見てほしくはなかった。改札を通り抜けて、電車の中へ。車内は学生で溢れていて、私は静かに視線を下に向けた。私は空いている席を見つけて、腰掛けた。普通の人だったら座れないような小さな隙間の様なところにも、私の細い体は難なく収まった。
アイドル時代は必死でダイエットをしていた。太らないようにしようと必要最低限の食事だけしているうちに、拒食症になってしまった。今ではどんなに美味しそうな料理が目の前に並べられても、食べる事ができない。食事をする事が、怖いのだ。
「あれ、もしかして柚木さんですか」
顔を隠すように下を向いていると、隣に座っている男の子に話しかけられた。「柚木」それは私がアイドル活動の際に使っていた芸名だった。私は反射的に顔を上げてしまって、男の子に顔を見られてしまった。
「ええっと……」
「あぁ、やっぱり柚木さんだ」
男の子は嬉しそうに手をぱんと合わせた。私はどうすることも出来ずに視線をさまよわせた。ごめんね、私もう柚木じゃないの。本当はそう言いたかった。
車内は人口密度が高くて暑苦しかった。寒い季節でもないのに、皆でおしくらまんじゅうをしている様な感じで、私は気分が悪くなった。やっぱり私、電車は苦手だ。
「ツイッター見ました。本当に、引退するんですか」
男の子は携帯を握りしめながら肩を落とした。私は少年の姿を見て、申し訳ない事に少し喜びを感じていた。目の前に私のファンがいること、そのファンが私の引退を知って悲しんでくれていること、それは私がアイドルとして活動していた事、そしてファンがいた事の証明に感じられた。
私の所属していたアイドルグループははっきりいってあまり売れていなかった。『地下アイドル』私達はそうよばれていた。お客さんだって、学校の一クラス分にも満たなかった。一人ファンが増えた、それでだけで私は飛び上がる位に嬉しかった
「俺、ずっと、柚木さん推しだったんです。初めてライブに行った時からずっと」
「……ありがとう」
男の子の熱意のこもった瞳が眩しく見えて、私は視線を下げた。
「あの、殺し屋やりませんか」
「……へ?」
男の子の口から放たれた突拍子のない言葉は、私を驚きで停止させた。殺し屋……? この子何を言っているんだろう。じんわりと浮かんだ手汗で湿っていく両手に力を込める。肉のない薄っぺらいお尻が、ずっと座っているせいで痛んだ。
「今、人が少なくて困ってるんですよ。うちの事務所」
男の子がはーっと長い溜息をつく。
「俺、友達にライブ連れて行ってもらった時に、柚木さんを見てマジですげぇって思って、感動したんですよ。あそこ男の人ばっかりで、女の人や小さい子って、どうしても真ん中に行きづらくて、端っこにいくことになっちゃうんですよね。そんな時に柚木さんが、端っこにいる人達の所まで行って、もっと真ん中の方に来なよって手を引っ張ってあげてて、本当にすげぇと思いました」
じわりとと涙が浮かんだ。鼻の奥がツンとなる。この子は、そんな所まで見てくれていたんだ。そう思うと、身体の芯がどんどん熱くなった。人前で泣きたくない、そう思った私は必死に涙を流さないよう堪えた。
「ネットでは、女性ファンと男性ファンの態度が違うとか書かれていましたけど、柚木さんのやっていた事、俺は凄い良いことだったと思います。」
男の子はやや間をあけてから言った。
「だから俺、柚木さんみたいな人と仕事がしたいと思って」
男の子が名刺を差し出す。私はそれを震える手で受け取った。
「上司が山に籠って侍になるとか言って事務所出て行ってから、音信不通になっちゃって。今は俺が上司の分の仕事をやってるんです。同僚は竹刀が喋っただのなんだのって変な事言う奴ですけど、悪い奴ではないですよ」
何だかめちゃくちゃな事務所だった。少し面白そうだな、なんて思ってしまった。
「事務所……行ってもいいですか」
気が付くと私はそんな事を言っていた。自分でも驚いた。
私に残るものなんて、もう何もないと思っていた。私と一緒に仕事がしたいと、そう言ってくれる人の為に生きるのもいいかもしれないと思った。
「ありがとうございます」
男の人はにっと笑った。
「事務所は次の駅下りたとこにありますんで」
男の子はそう言うと足を組んだ。男の子のズボンのポケットから、見たことがあるキーホルダーが見えた。柚木と書かれた黄色いリボン。私のグッズだった。
私はぎゅっと服の裾を握り締めた。ただただ、嬉しかった。アイドルとして生きた証が、彼のポケットの中に潜んでいる。それは、本当に幸せな事だった。