06.新たな朝が来た
緩やかに意識が覚醒していく。それを感じながら宗久は微睡の中で身を横たえる。
寝返りを打つ。それからたっぷり時間を置いて、宗久はようやく目を開いた。
朝日が窓から差し込んでいる。ゆっくりと上体を起こす。寝ぼけた頭で見渡すと、そこには当然のようにソルテオの姿はなかった。
結局、あの後いつの間にか眠りについたらしく、一体いつ眠りに落ちたのか覚えていない。
気づいたら眠っていて、今目が覚めたのだ。
昨晩を思い出す。客観的に見ても非常に恥ずかしい出来事だった。
恩人に借りた部屋で、夜遅くに初めて出会った美女の胸の上で号泣したの後、泣き疲れて眠るとか。我ながら非常にアレである。
とはいえ。
とはいえ、だ。
今朝の目覚めは久方ぶりに爽快だった。まるで生まれ変わったような――いや、虚ろだった骸に新たな命の息吹を吹き込んでもらえたような、そんな感じだ。
ソルテオにはそのうちお詫びとお礼をしなきゃな。……ついでに、思惑はどうあれ、ソルテオと引き合わせてくれたヤーシャにも。
二人の顔を思い出して、宗久は知らず笑みを零した。作り笑いではない笑みなど、いつ以来か、もう思い出せない。
何はともあれ、そろそろ起きよう。そして、情けないがヤーシャにまたお願いし、仕事先を斡旋してもらう。でも、できるのならばヤーシャに恩返しの意味も込めて、資金源となるビジネスでも起こしたい。まぁ、こちら前者よりも難しいだろうけども。
ささっと簡易に身支度を整え、宗久は借りていた一室のドアを開けた。
「意外と早く目覚めたみたいだね」
そこには、目も覚める赤髪の美少女がいた。
「やあ、おはよう、ダンナ。よく眠れた?」
力強い美を放ちながら、ヤーシャはにやりと笑っていた。
その姿は昨日再会した時と同じ、扇情的なネグリジェだった。平時なら思わず生唾を飲込んでしまうが、生まれ変わったような目覚めに合わせて、彼女から放たれるパワフルな覇気が、その艶やかさを圧倒していた。朝陽が指す中、スケスケのネグリジェを着て、仁王立ちで腕を組み、こちらをからかう気満々のにやりとした笑みを浮かべながら覇気を纏っている姿がちぐはぐしすぎる、というのも色っぽさを殺している大きな要因だろう。
そんな朝から目にするエネルギーの塊に、思わず目を見開いて固まってしまっていた宗久は、眩しさに目を細めた。
それから右手を胸に、深く頭を下げた。
「おはようございます、ヤーシャお嬢様。おかげさまで、久方ぶりにぐっすりと眠ることが出来ました」
慇懃な態度を示す宗久に、ヤーシャはわずかに眉をひそめた。
「そう、それは良かった。ソルテオとは仲良くできたみたいね」
仲良く、をわずかに強調しながらヤーシャは告げる。にやりとした笑みは、どちらかというとニタニタとした笑みになっていた。
顔をあげた宗久は、もちろんそれらに込められていた笑みを正確に理解していた。
「はい、お嬢様の計らいで、寂しい夜を慰めて頂きました」
理解した上で、またソルテオとの間にヤーシャの揶揄するようなことは何もなかったことを、そしてヤーシャもまたそれを把握しているであろうことを承知で返答する。
悪いが、今さら恥ずかしがることはない。もうすべて知られているのだから、取り繕っても仕方がない。なによりソルテオのおかげで色々と吹っ切れているのだ。
ヤーシャは求めていたものと違ったのだろう。眉をひそめて、わずかに不満そうな顔をした。
「……そう。ソルテオは……どうだった?」
しかし、宗久をからかうことを諦めたわけではないらしい。わざと誤解を招く言い方をする。
「はい、まるで一皮むけて生まれ変わったようです。これが……自信に満ちる感覚、なのでしょうか」
なので宗久も別の意味で聞こえる言い回しで返答する。無論、別の意味で聞こえる言い回しであるのと同時に、これは紛れもない宗久の本音だった。
笑みを浮かべて真っ直ぐ見つめていくる宗久に、ヤーシャはついに口を尖らせた。
「……ダンナ、昨日の今日で変わりすぎ」
「そう取り計らってくれたのはお嬢様だと聞きましたが?」
「ああハイハイ、そーだよ。落ち込んだ男を立ち上げるのは女に限るとソルテオを向かわせました」
「……ありがとうございます。深く感謝申し上げます」
再び宗久はヤーシャに向かって深く頭を下げる。そんな宗久のように、面白くなさそうにヤーシャは鼻を鳴らした。
「男が年下の小娘に頭を何度も下げるのはどうかと思うけど?」
「感謝の意を示すのに、年下だとか女性だからとか、そんなのは関係ありません。私にとってあなたはそれだけのことをしてくださったのです」
「……はぁ」
顔の半分を手で覆いながらヤーシャは深くため息を吐いた。
そしてくるりと踵を返すと、顔だけ宗久に向ける。
「ほら、いつまでもそうしてないで行くわよ。朝飯に呼んだんだから」
そして、宗久の返答も待たずに歩き出した。
その歩き方は心なしか、ずんずんと進んでいて、ヤーシャの内心が見えるようだった。
昨日散々からかわれた相手に一矢報えたと、宗久はわずかに頬を緩め、黙ってヤーシャの後を追った。
◆
面白くない。まったくもって、面白くない。
内心で苦々しく思いながら、ヤーシャは後ろに宗久を従えてずんずんと進んでいく。
確かに、宗久に何かを見出せそうだと期待した。他とは違う雰囲気を纏っているのも興味がそそられた。なにより、このご時世に『あの言葉』を告げられるだけ、そして実際に行動に起こしていたであろうだけで、十分に大したものだと思っている。また奮起しようと決意が滲む瞳に大いに関心を持った。
だからこそ、姉と慕うソルテオを向かわせた。あの貴族の婦女を何人も誑し込んでいる、強者の覇気を纏ったディックですら袖にするソルテオなら、仮に二人っきりで会わせてもおそらく万が一はないだろうと踏んで。それは<スラム街の聖女>と呼ばれるソルテオなら『オンナ』を使わずに立ち直させることができると信頼していたからであるし、別にあの二人が男女の仲になるならなるで問題はないと思ったのだ。
何故なら、ヤーシャにはあの青年とソルテオを引きあわせた方が良い、という『勘』がささやいていたからだ。
ヤーシャは自身の直感からくる気まぐれを疑わない。そういったモノに助けられてきたことは数限りなくあるし、大抵そういったモノは後に大きなものになって返ってきている。
だからソルテオを向かわせた。そして現にこうして、ヤーシャの後ろを歩く青年はがらりと変わった。
纏う空気が変わった。顔つきが変わった。その瞳に光が差し、強い意志が明確に感じられるようになった。芽生えた炎は、確かに燃え始めたのだ。
もう絶望のベールも死相も悲壮な決意も感じられない。事態はヤーシャの思った通りに、否、思った以上に進んでいる。
けれども、面白くない。まったくもって、ぜんっぜん面白くない!
「ちょっと着替えてくるから、ちょっとそこで待ってて」
「はい」
自室に入り、バタンとドアを閉じる。そして無造作にネグリジェを脱ぎ捨ててベッドに放ると、何も身に纏っていない裸体を晒しながら腕を組んだ。その表情は激しくしかめられており、また怒りで頬が赤くなっていた。
ヤーシャは昨晩、<紅流>の頭目であり自らの父親に散々からかわれ、同時にもう一人の姉にもからかわれていたのだ。
なんてことはない。ディックがソルテオを呼び行く前に、ヤーシャがスケスケのエロエロなネグリジェを着て誘惑をしようとしたのに、それをあろうことか初物である男に一顧だにされなかったと父親と姉に告げ口されていたのだ。
『ガッハッハッ! 小娘が色づきよって、しかもあっさりと無視されるとか! ヒッヒー! 腹ぁ痛てぇ! なあなあ天国の愛しの妻よ! オレはこの事実を悲しめばいいのか喜べばいいのか教えてくれよ! ぶわっはははははは!!』
『確かにヤーシャちゃんのあの姿は私も太鼓判を押したけどね。でもね、ちゃんと見測らないとダメよ? 今度は誘惑の仕方もちゃんと教えてあげるから、あとでいらっしゃい』
脳裏に昨晩の二人の声が蘇る。まったくもって苦々しい。
そして『見てなさい! 今からあいつの鼻血で部屋を真っ赤に染めてやるから!』と啖呵を切って飛び出し、宗久を泊めてやってる部屋に行ったのだ。
しかし、そこで待っていたのは、
『――今までよくがんばったね、ムネヒサ』
という慈しむようなソルテオと、そのソルテオの胸で声を押し殺して号泣する宗久の姿だった。
目論見通り、ソルテオは<スラム街の聖女>と呼ばれるその手腕で宗久を確かに立ち直らせてたし、男女の仲になることもなかった。
そして今朝、再び会った宗久は別人のようになっていたし、このスケエロなネグリジェを着たヤーシャの言動を軽くあしらわれてしまった。しかもこれまで受けたこともないような感謝まで示してくれたのだ。
胸がムカムカした。なんだかソルテオには『オンナ』以上に『女性』として負けた完敗した気分だし、初物の宗久には背伸びしている小娘を大人として嗜められつつ一人の人間として感謝までされてしまった。
ひとりの女性として、ひとりの人間として、自分の幼さを指摘された気分で非常に悔しかった。
とはいえ、いつまでもここで腕を組んでしかめっ面をしていても仕方ない。外では宗久を待たせているし、あんまり朝食の場に遅れてさらなる煽りを受けたくはない。敗者には敗者なりの矜持があるのだ。
なんとか区切りをつけ、ヤーシャはタンスを開いて着替えを探し始める。
「おやおや、朝から荒れてるな、お嬢」
ふと後ろから今もっとも苦々しく感じている男の声が聞こえた。
ちらりと後ろを見やると、ディックがムカつくニヤニヤした笑みを浮かべていた。
「フンッ」
鼻を鳴らしてヤーシャはディックを黙殺する。何も纏っていない裸体を晒しているのに、そこには一切の恥じらいを感じられなかった。
このムカつく伊達男は、ヤーシャ直下の護衛にして兄貴分、父親を除く男の中では唯一と言っていい心許せる相手なのだ。
「その様子だと、またあいつに見向きもされなかったみてぇだな」
……影から全部見ていたくせによく言う。
「うるさい。あと、着替えているんだからこっち見るな」
ヤーシャはディックを無視してテキパキと私服を纏っていく。そんなヤーシャをディックをニヤニヤとした笑みを崩すことなく黙って見ていた。
そして着替え終わったヤーシャは、ささっと乱れた髪を整えて自室から出ようとする。
「――あ、そうだ」
パンッ! という渇いた大きな音が響いた。
「よくも告げ口してくれたわね」
ヤーシャは体重の乗った渾身の膝蹴りをディックの鳩尾に見舞っていた。しかし、不意を突いた一撃だったのにもかかわらず、その一撃はディックの手のひらで受け止められていた。
その状態のままヤーシャは思いっきり力を込めるも、ディックは相変わらずニヤニヤとした笑みを崩さずぴくりと動かなかった。
そのまましばらく無言のままギリギリと攻防が続いたが、やがてヤーシャは諦めて脚を下ろした。
「……次こそ当ててやる」
「当たるといいなぁ、次こそは」
「フン」
最後に鼻を鳴らして、今度こそヤーシャは自室から出ていった。
部屋に残されたディックは、静かにくつくつと笑うとふっと影に消えた。