冬桜
冬
彼女は死神に勝った。
しかしそれは一時的なもので、次にこのようなことがあれば、命はないと言う。
それでも彼女は集中治療室から出て、一般の病室に戻っていた。
死神に勝った代償は視力だった。
彼女はもう何も見ることが出来ない。
それでも彼女は気丈に振舞っていた。
「ねえ、桜はまだ咲いていないのかしら?」
彼女は冗談と諦め交じりでそう言った。
「あともうちょっとだから、頑張ろうよ」
僕は彼女の手を取り、温もりを与える。
すると彼女も少し安心したような吐息を吐く。
それからほどなくして、最悪の事態が起こった。
死神がまたやってきたのだ。
詩織の主治医はもうダメだと言った。
ここで安らかに眠ってもらうしかないと。
僕は混乱する頭で考え、そして僕にできることを探した。
すると昏睡状態の彼女の口から「……さくら」とこぼれた。
僕は彼女を抱きかかえ、病院を出た。
主治医も誰も僕を止めることはしなかった。
雪が降っていた。
僕は街灯がある道ではなく、光も何もない路地裏を走った。こっちが近道なのだ。
何度も雪に足を取られながらも、詩織を落とさないように離さないように大事に、必死に抱いて走った。
そして僕は桜の前に辿りついた。
「詩織っ、詩織、着いたよ。桜の前だ」
詩織はかろうじて頭を上げ桜の場所を探した。
僕は彼女の顔を桜の方に向けた。
「ねえ、桜は綺麗に咲いてる? さっきから……私の身体に…………何かパラパラと当たってるんだけど……」
「ああ、満開だよ。とっても綺麗だ。わかるだろ」
彼女は目を閉じて
「ええ、わかるわ。……とっても綺麗ね」
僕の目からは涙か雪がポロポロと落ちていく。
「うぇ……ぅ……あぁ」
「泣い……てるの?」
詩織はそっと僕の顔を撫でる。
「泣くことないよ。……私とはここで…………お別れかもしれない。でも私は桜の木になるの。……そして冬樹くんをずっと見守ってるわ……覚えてる? 昔、『この木はわたしみたい』って……言ったこと」
「もっ……もちろん、覚えて……いるよ」
声はかすれかすれで、それでも詩織に返事をかえす。
「だから、泣かないで……私はいつも…………いつでも……そばにいるから、ここにいるから」
「ん……うぁ…………う」
もう涙で彼女が見えない。
それでも彼女の瞳が僕を見つめていることがわかった。
「二十八年間、言えなかっ……たことを、いうね
――好き、愛してる」
「ぼっ……僕も詩織のっ……ことがっ……好きだ!」
「…………うれしい。ねえ、この木に……私……たちが、愛し合った……シルシを残さない?」
「……そうだね」
僕は彼女に車のカギを持たせ、手を重ねる。
木に印した二つの名前。
冬樹
詩織
「これで……私たち、ずっと……一緒ね。
昔も、今も……未来も…………」
「詩織っ、しっかりしろっ、詩織っ」
彼女の目がそっと閉じられていく。
「私、あなたがいてくれて、幸せだった
ありがとう、私を見守ってくれて……
今度は私が見守る番。…………だから安心……して……
また……ね…………」
詩織の中から生気が失われていく。
天に昇っていくのがわかった。
僕は必死で天に手を伸ばすが、その手がなにかを掴むことはなかった。
その桜には二つの名前が刻まれていた。
それは永遠のシルシ。
二人の愛のシルシ。
お読みくださりありがとうございました。




