タイムトライアル
俺は未だにあの夢を見る。大学4年の箱根駅伝予選会でのことだ。
10月の昭和記念公園。秋口とは思えない好天のなかで迎えた結果発表。
落選を知らされ、立っていた明英大学の選手は全員その場に泣き崩れた。
崩れ落ちるとはまさにこのことだと思った。チームの誰しもが、力強く走っていたはずの両膝の力が抜けていつの間にか地に手をついていた。
その中でも俺は人一倍声をあげて泣いていた。落選の最大の原因は俺の大失速にあったから、と思っていた。
周囲を取り巻く仲間やスタッフ、駅伝ファンの姿も気にせず泣いた。
そんな俺をあいつは慰めてくれた。後輩の河田だ。
「栃岡先輩、泣かないでくださいって」
「…………ごめん………………でも……………………」
「俺がもう少し速くゴールしてれば良かったんです。先輩は病み上がりなのに大健闘ですよ」
「……………………河田……………………ごめん………………」
――――――――ごめん
謝り続けて、気づいたときには朝だった。カーテンから差し込む穏やかな春の日差しが俺を起こしてくれた。
「またあの夢か―――――――――――」
一息つくと、外の青空を見るのだった。
京子との約束通りに陸上競技場へとやってきた。ここは学校に付設された全天候型の陸上競技場であり、駅伝部の活動拠点だ。
陸上部やサッカー部との併用であるものの合成ゴムのトラックは少しの雨でも練習できるので重宝する。
ちなみに今日は他の部活がおらず駅伝部の貸しきり状態だ。思いっきりタイムトライアルができる。
9時きっかりに俺たちは集合をした。ちゃんと京子も漣もいる。一昨日、京子はオドオドしてたし漣はああだから不安だったが今日はちゃんと来てくれたので安心した。
「おはよう」
「「……………………」」
「元気がないな。おはよう」
「お、おはようございます………………」
「京子、ビビり過ぎだぞ!」
「申しわけございません………………」
京子は初めて会ったときに激しい人見知りと極度の緊張症だと自己紹介したが、本当にその通りだと思う。タイムトライアルの日に顧問を目の前にして声が出ないくらいビビってるとは異常だ。
これからインターハイ路線の試合が続くっていうのに、これはかなりの不安要素になる。
「今まで顧問がいなかったから、あいさつなんてしないのが普通でしたよねー。京子先輩」
漣も問題だ。他人をナメた態度、キレると手がつけられなくなる小学生みたいな性格、そして毒舌ときた。
京子は大人しい性格だから駅伝部内で衝突は起こらなかっただろうが、これが団体競技の部活だったら話は別だ。絶対に何かやらかしていただろう。
俺はもうすでに京子のその……着替えを見てしまっている。漣は散々人をおちょくったが結局通報しないでくれたので助かった。
ま、頼むからこれからも不祥事は起こさないでくれよ。
それはそうと、タイムトライアルの確認をする。
「今日は1500mをやろう。二人がやってる種目だし、距離的にもちょうどいい。スタートは10時で、それまで各自アップだ」
さっと指示を出すとすぐにウォーミングアップを始めさせた。俺が来る前に顧問が不在だったのに、意外にも彼女たちは高いらしくすぐに自分のウォーミングアップメニューを開始した。
彼女達がアップを終わらせた頃にはちょうど10時になっていた。
それを確認すると大きく伸びをした。いよいよスタートだ。
スタート……の前に一度彼女達を集合させた。本番前の最後の確認のためだ。
「今回はまだ良いタイムは出ないと思うが、試合のように全力でやってくれ」
「誰も観客がいない試合なんてマジないわ」
漣はケラケラと笑いながら冷たい一言を発した。確かにグラウンドには駅伝部以外いないけど……ちょっと言い過ぎじゃない?
「何でそんなやる気をそぐようなことを言うんだよ」
「そうやってマイナスなモチベーションと見せかけて実は速かったらかっこいいじゃん!」
は? 意味わかんな。
「かっこよくねーよ! いいからちゃんとやれ」
「ま、私は全力でやるけどね。よろしくね、京子先輩」
「え、えぇ、はい。よ、よろしくお願いします」
えぇぇえ……すごく萎縮してるし。
「ビビリッぱなしじゃねーか! 試合前なんだから、もっとなんかこう、やる気を出さないと!」
「そう………………ですね」
京子は大きく深呼吸をした。次の瞬間、彼女の目が鋭くなったかのように感じた。
なんだ今の変化は? 自分の心から何を取り払った、そんな感じだ。
2人に流しを1本やらせると、ジャージを脱いでスタート位置についた。
2人ともTシャツにランニングパンツという服装だ。ランニンパンツでは、視線を下ろすと彼女達の生足がどうしても目に入ってしまう。
ダメだダメだ。二人は生徒なのだから気を付けなくては。視線がうんたら、だけで生徒の不信感を煽るって教育の雑誌に書いてあったし。
とにかく今はタイムトライアルの時間だ。雑念は捨てよう。
俺は紙雷管をセットした。
「それじゃあ始めるぞ。位置について―――――スタート!」
合図と共に二人は勢いよくスタートした。スタートダッシュはまるでダッシュで、ちょっと早すぎないか不安になった。
1周目の通過は76秒。女子の高校生にしてはちょっとハイペース過ぎないかと思ったが、2人とも表情ひとつ変えずに淡々と走っている。
京子と漣の走り方は対照的だ。京子は小柄な体のせいか小さいストライドで走る。そのためピッチは速く、マラソンみたいな長距離向けの選手だと言えるだろう。
反対に背が高い漣は大きなストライドでダイナミックに走る。彼女は中距離を専門にしていると言っていたが、まさに天職だと思った。
2周目の通過は80秒。ペースは落ち着いてきたようだがハイペースを維持している。漣は若干先行しながらも二人はほぼ並走のままだ。
3周目の通過は82秒。まだまだ踏みとどまる、すばらしいラップだ。京子がややリードしてラスト300mに入る。
ラスト300mのラインを越えたときすぐだった。京子は一度肩の力を抜いたと思ったら、一気に「切れる」ようなラストスパートに入った。
ミドルスパートが決まった。漣も必死に食らいつくが、京子は差をぐんぐん広げてゴール。
時計を押した俺は思わず目を疑った。
「4分51秒34だと…………!」
春休み中でこのタイムは、なかなか速い。しかも専門的な練習は一切やっていない、平凡な選手のはずだ。
京子から離れてしまった漣も4分53秒67の好タイムだった。このタイムも十分に評価できるだろう。
2人とも、インターバルトレーニングのような練習を一切やっていないと聞いた。じゃあジョグと坂ダッシュくらいでこのタイム……ということか?ちょっと信じられないな。
トライアル前はちょっと俺もやる気なかったと思うけど、少し面白いことになるかもな彼女たちは。
息が上がった彼女達にはすぐにクーリングダウンを行わせた。そして、ミーティング。
「2人ともすごいじゃないか。こんな好タイムで走れて」
「いやぁ、たまたまです」
京子は照れくさそうにしていた。謙虚でいい子だ。しかし漣は対照的だ。
「ふん、途中まで私に引っ張らせておいてラストで抜くなんて卑怯だよね」
すげー毒舌。せっかくいい雰囲気になっていたのに。
「ま、まぁ本当の試合では何が起こるかわからないんだし、そんなこと言うなって」
「うっせー、変態。あ! そうやって京子先輩をかばってポイントを上げようと!」
「してねーよ! 大体ポイントってなんだよ!」
まったく、可愛げのない教え子だなあ。もう少し素直に笑顔になってほしい。
その後は無理やり終わりのあいさつをして解散した。練習とはいえ本番の試合くらい追い込んだので、疲労回復に当ててもらいたかったからだ。
でも彼女達は帰らない。
漣は解散後すぐにトラックを走り始めた。あいつ疲れてないのかよ。ペースランニングしてるみたいだが……
ってか京子も京子で腹筋を始めたし。
さすがに二人とも、練習をやりすぎじゃないのか?
「京子、ちょっと練習やりすぎじゃないのか? 体壊すぞ」
「いえ、このくらいの筋トレは毎日続けていますし、電車まで結構余裕があるんです」
え? けっこう時間かけてやってるよね? しかもランジとかバウンディングも……
「そ、そうか。まぁ無理して怪我するなよ。気温も高くなって、体も動きすぎちゃう時期だ」
「はい。分かりました。ところで先生―――――――――」
急に京子は不安そうな顔をして尋ねてきた。
「私達、インターハイ路線は大丈夫ですか?」
インターハイ路線とは、高校生の陸上競技の全国大会インターハイに続く大会のことだろう。地区大会、県大会、北信越大会を勝ち抜いてインターハイに出られる。
「そうだな。スピード練習をやらないでこのタイムはすごいし、これからの練習次第では北信越も狙えるぞ」
「本当ですか?」
「あぁ。ちゃんと指導するから大丈夫だ」
「そうですか。ありがとうございます。じゃあ………………私、インターハイには行けますか?」
「インターハイ、か」
インターハイには俺も出たことがある。高3のときには決勝まで進出したが、本番ではそれまで無理をしていた疲労骨折が限界に達し棄権となった。
あのときは大森にすごく怒られたが、要するに俺はインターハイの苦しさをよく知っている。
京子にはかなりの素質があると思う。漣と2人の(ていうか実質1人の)練習で昨秋からこれほどタイムを伸ばしたのは普通じゃ考えられないことだ。
でも実際、今年インターハイに行けるかって言われたら正直微妙だと思う。タイム的にもそうだが、最大の問題はメンタルだろう。これからの短い期間で果たしてなんとかなるのかな。
「先生、やっぱり無理ですか」
「そんなことないよ。京子にはちゃんとした実力があるんだから。それを生かせれば絶対に行けるって」
「本当ですか! 」
「だから、緊張症も治さないとだよな」
当り障りがないながらも核心にはしっかりと触れておいた。
「緊張症ですか……」
京子は急にシュンとしてしまう。
「小さいときから走るとき、陸上競技や駅伝のときは私すごく緊張しちゃうんです。練習ではそんなことないんですが試合とかは上がっちゃって」
だからトライアルの前もあんなに緊張してたのか。
「初対面の陸上選手に会うときもそうで………………だから先生が着替えをご覧になったときも声が出なくて」
丁寧語で言われると、思い出してちょっと傷つく。
「で、でも今はちゃんと話せてるだろ? 慣れれば問題ないって」
「だといいんですが………………」
初めて見る、とても不安そうな京子の顔だった。京子の幼い顔では、悲しい気持ちや嬉しい気持ち、それがダイレクトに伝わるのが分かった。
「なんかごめんなさい」
「いや、いいんだ。むしろこういう話は積極的にした方がお互いのためだろ?」
「そうですね。漣さんにも、アドバイスよろしくお願いします」
小さな体をかがませてペコリとお辞儀をした京子。小さい体はさらに小さくなってしまった。
「あぁ、でもまたあいつペーランに行っちまったぞ?」
「多分変化走をしに行ったんでしょう」
ただ長距離を走るのではなく、1周や数km単位でペースを変えて走る練習だ。
「やっぱり分かるもんなのか」
「ずっと2人だけでしたから、この1年間」
「そりゃそうなるか。新入生がたくさん入ってくるといいな。そしたら京子も駅伝まで部活やれるのに」
彼女はハッとすると、重い口をゆっくりと開いた。
「実は…………メンバーが足りても、駅伝まで残るつもりはないんです」
耳を疑った。え?
「な、ちょ、どうして。お前だって駅伝がやりたくてこの部活に入ったんだろう? 駅伝部だし」
「そうです。去年も、一昨年も、メンバーが足りなくて悔しい思いをしました。でも受験があって」
忘れてた。二ノ丸高校は県内屈指の進学校なのだ。県高校駅伝があるのは10月なので、普通に都大路を目指していたら受験どころではなくなる。
「私、国公立大学を目指してるので、受験はかなり厳しいものになってしまうんです」
「うぐぐ……大変だな」
京子は大学の名前を伏せていたが、話し方からして難しいところなんだろうと思った。
「またごめんなさい。期待をそぐようなこと言ってしまって」
「仕方ないよな。俺も所詮はスポーツ推薦だったし、京子の苦労も少し分かった気がする。だけど――――――――――」
俺は1回大きく息を吸った。
「絶対にインターハイに行こうな。都大路に行けない代わりに、トラックで全国大会に出よう。一緒に」
「先生………はい! 絶対に行きましょう!」
京子は笑顔だった。俺も初めて、本当の意味でのやる気が出てきた気がした。
春風が頬をかすめる。京子の赤みがかった髪がなびいた。もうすぐ新学期だ。




