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黄金の入れ歯と百円の奇跡

作者: かおるこ
掲載日:2026/05/19

 初夏の太陽が、古びたアパートのトタン屋根をじりじりと焼いていた。昼前だというのに室温は三十度を超えている。七十二歳の茂雄は、壁にぶら下がった黄ばんだリモコンを手に取ったが、ため息をついて置いた。電気代の請求書が頭をよぎる。


台所の蛇口をひねると、生ぬい水が勢いなく流れた。鉄臭い匂いが鼻につく。コップ一杯を飲み干しても、喉の渇きは消えなかった。


「おい茂雄、今日も干からびずに生きとるか」


開け放した玄関から、隣室の作蔵が顔を覗かせた。首に巻いたタオルは汗で湿り、酸っぱい臭いが風に乗って漂う。二人は同い年の独り身で、年金だけでは足りない生活を「低級老人暮らし」と笑い合っていた。


「空財布」


茂雄はポケットから百円玉を三枚出した。擦り減って光沢もない硬貨が、ちゃぶ台の上で寂しく鳴る。


「今月はこれで終わり」


「三百円あればパチンコで増やせる」


「馬鹿言え。明日の食パン代命綱」


茂雄はそう言って、ちゃぶ台の端に置かれた黄金色の入れ歯を見た。昔、見栄を張って作った金歯だった。だが実際は金メッキで、今は歯茎が痩せて痛くて使えない。


「なあ作蔵、人間、金がなくなると鼻だけは良くなるな。スーパーの唐揚げの匂いが外から流れてくる」


「お前の腹が鳴っとるだけだ」


作蔵が笑った拍子に、懐から何かがころころと転がり落ちた。


床に転がっていたのは、新品みたいに光る百円玉だった。


茂雄は素早く飛びつき、その百円玉を握りしめた。汗ばんだ掌に、金属の冷たさが気持ちいい。


「これは俺の部屋に落ちた。つまり俺のだ」


「返せ! 今夜の発泡酒代なんだ!」


七十二歳の老人二人が、たった百円を巡って畳の上でもみ合う。作蔵の肘が茂雄の顔に当たり、その拍子にちゃぶ台の黄金の入れ歯が落ちた。


パカッ。


情けない音を立て、入れ歯は真っ二つに割れた。


二人は同時に動きを止める。


「割れたな」


「ああ」


割れた断面から覗いていたのは、安っぽい灰色のプラスチックだった。


茂雄は呆然としたが、やがて腹の底から笑いが込み上げてきた。


「あっははは! なんだよ、俺の財産、本物は百円玉四枚だけか!」


「見栄張って金歯なんか作るからだ!」


笑いすぎて涙が滲んだ。けれど不思議と惨めではなかった。


作蔵が手を差し出す。


「よし、その四百円で一番安い酒を一本買おうや。半分こ」


ゴツゴツした温かい手を、茂雄はしっかり握り返した。


夕方の涼しい風がようやく部屋へ吹き込み、汗臭い二人のシャツを静かに揺らした。


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