黄金の入れ歯と百円の奇跡
初夏の太陽が、古びたアパートのトタン屋根をじりじりと焼いていた。昼前だというのに室温は三十度を超えている。七十二歳の茂雄は、壁にぶら下がった黄ばんだリモコンを手に取ったが、ため息をついて置いた。電気代の請求書が頭をよぎる。
台所の蛇口をひねると、生ぬい水が勢いなく流れた。鉄臭い匂いが鼻につく。コップ一杯を飲み干しても、喉の渇きは消えなかった。
「おい茂雄、今日も干からびずに生きとるか」
開け放した玄関から、隣室の作蔵が顔を覗かせた。首に巻いたタオルは汗で湿り、酸っぱい臭いが風に乗って漂う。二人は同い年の独り身で、年金だけでは足りない生活を「低級老人暮らし」と笑い合っていた。
「空財布」
茂雄はポケットから百円玉を三枚出した。擦り減って光沢もない硬貨が、ちゃぶ台の上で寂しく鳴る。
「今月はこれで終わり」
「三百円あればパチンコで増やせる」
「馬鹿言え。明日の食パン代命綱」
茂雄はそう言って、ちゃぶ台の端に置かれた黄金色の入れ歯を見た。昔、見栄を張って作った金歯だった。だが実際は金メッキで、今は歯茎が痩せて痛くて使えない。
「なあ作蔵、人間、金がなくなると鼻だけは良くなるな。スーパーの唐揚げの匂いが外から流れてくる」
「お前の腹が鳴っとるだけだ」
作蔵が笑った拍子に、懐から何かがころころと転がり落ちた。
床に転がっていたのは、新品みたいに光る百円玉だった。
茂雄は素早く飛びつき、その百円玉を握りしめた。汗ばんだ掌に、金属の冷たさが気持ちいい。
「これは俺の部屋に落ちた。つまり俺のだ」
「返せ! 今夜の発泡酒代なんだ!」
七十二歳の老人二人が、たった百円を巡って畳の上でもみ合う。作蔵の肘が茂雄の顔に当たり、その拍子にちゃぶ台の黄金の入れ歯が落ちた。
パカッ。
情けない音を立て、入れ歯は真っ二つに割れた。
二人は同時に動きを止める。
「割れたな」
「ああ」
割れた断面から覗いていたのは、安っぽい灰色のプラスチックだった。
茂雄は呆然としたが、やがて腹の底から笑いが込み上げてきた。
「あっははは! なんだよ、俺の財産、本物は百円玉四枚だけか!」
「見栄張って金歯なんか作るからだ!」
笑いすぎて涙が滲んだ。けれど不思議と惨めではなかった。
作蔵が手を差し出す。
「よし、その四百円で一番安い酒を一本買おうや。半分こ」
ゴツゴツした温かい手を、茂雄はしっかり握り返した。
夕方の涼しい風がようやく部屋へ吹き込み、汗臭い二人のシャツを静かに揺らした。




