氷の秩序のひび
朝の空気は冷たく澄んでいた。
王城の回廊を歩きながら、私は胸の奥の違和感を拭えずにいた。
昨日の式典での、アルベルト王との接触。
確実に、何かが変わり始めている。
だが、それ以上に私の心を落ち着かなくさせているものがあった。
一周目との違いは何か。
それはまだ、はっきりと形になっていない。だが確実に存在している。
回廊の先に、白銀の光が見えたその瞬間、自然と歩みが遅くなる。
窓辺に立つその人物は、朝の光を受けて静かに佇んでいた。
白銀の髪。蒼の瞳。触れれば凍てつきそうな静謐な空気。
ポルディネ帝国皇太子。私の婚約者。
クリストフ・ポルディネ。
彼は私に最初から気づいていたのだろう、私がそばに行くとゆっくりと振り返った。
「マルール……ルル」
低く落ち着いた声。
名を呼ばれただけなのに、胸が強く打つ。そして何より子どもの頃呼ばれていた愛称を彼が再び使うとは思っても見なかった。
一周目では——
彼が私の名を呼ぶことは、ほとんどなかった。ましてや愛称など、子供の頃ぶりだ。
「陛下」
「その呼び方はやめろ。ここは公の場ではない」
わずかに眉を寄せる。それだけの仕草なのに、胸がざわめく。
こんなやり取りも、一周目にはなかった。
「……失礼いたしました」
距離を測りながら答える。未来を変えるには慎重さが必要だ。不用意な言葉は命取りになる。
彼はしばらく私を見つめていた。
観察するような視線。
氷のように冷たいはずの瞳の奥に、わずかな揺らぎがある。
「昨日の式典」
静かに口を開く。
「ラナグローク王と話したそうだな」
心臓が一瞬止まった。
情報が早い。いや、皇太子なら当然だ。
「向こうからお声がけをしていただきました」
「何を話した」
詰問ではない。
だが、わずかな緊張が含まれている。彼と話すといつもヒリヒリとした雰囲気が辺りを漂う。
「噂と違う、と」
クリストフの瞳が、わずかに細められた。
「……そうか」
短い返答。それだけのはずなのに。
空気が微かに変わった。
沈黙が落ちる。
朝の光が静かに差し込む回廊で、私たちは向かい合ったまま動かない。
やがて彼は窓の外へ視線を戻した。
「軽率な接触は避けろ」
命令のようでいて、どこか硬さを欠いている。
「敵国の王だ」
「承知しております」
そう答えながら、私は彼の横顔を見つめた。
氷の秩序。
感情を排した完璧な統治者。
一周目の彼は、常に揺るぎなかった。
私が処刑された時もそうだった。彼は冷酷にも私を──。
だが今、どこか違う。
わずかな、ひびのようなものを感じる。
「……マルール」
再び名を呼ばれる。胸が跳ねる。
「お前は」
言いかけて、彼は言葉を止めた。
蒼の瞳が揺れる。
迷い。
躊躇。
そんなものが、この人の中に存在するはずがないのに。
簡単に私なんか、彼の未来から切り離してしまうことができるのに。
「……いや、何でもない」
静かに言葉を切り捨てる。
そして歩き去ろうとした。
その瞬間。
「殿下」
気づけば、私は呼び止めていた。彼の足が止まる。
「昨日は、お疲れではありませんか」
無難な言葉。
それ以上踏み込んではいけない。
だが彼は振り返らずに答えた。
「問題ない」
短い返答。だがほんのわずかに、声が柔らいだ気がした。
彼の足音が遠ざかる。
回廊に静寂が戻る。
私はその場に立ち尽くした。
胸の奥がざわめいている。
一周目では。
彼はもっと遠かった。
手の届かない氷の存在。
それなのに。
今の彼は——
何かを言いかけた。
迷った。
揺らいだ。
(どうして……)
未来は変わり始めている。
確実に。静かに。
だが、それは希望なのか。
それとも。
さらに残酷な結末への分岐なのか。
窓の外では朝日が王都を照らしている。
世界は何も変わらない顔で回り続ける。
けれど私は知っている。そうしなければならない。
運命の歯車は、もう同じ軌道を辿らない。
そして。
氷の皇太子の瞳に生まれたわずかな揺らぎが——
その証だった。




