静かな波紋
朝の光が、薄いレース越しに差し込んでいた。
目を開けた瞬間、胸の奥に重たいものが沈んでいるのを感じた。
夢ではない。
私は確かに処刑された。
世界は崩れ落ち、すべてが終わった。
——それなのに、私はここにいる。
生きている。
もう何度も繰り返し確認した現実だった。
だが、名前のない焦りが彼女の胸の中に広がる。あの死の記憶とは別の種類の不安だった。
「私は普通じゃないってこと……?」
人々の冷たい視線には慣れているはずなのに、あの大聖堂で起こったことが頭の中を支配した。
「お嬢様、おはようございます。今日のご予定を確認いたします。10時から──」
開けた窓から、春の心地よい風が吹き抜けて、頬を撫でていった。
うつむいたままの私を心配したのだろう。ノエルは私に向けてとびきりの笑顔をみせて
「お嬢様、私はいつまでもお嬢様のお味方でございます!」
春の朗らかな太陽を思わせる表情で言ったのだ。そんな彼をみて思い出す。
そう、あの時も──。
それは私とノエルが出会って最初に出席した、社交界の若者たちが顔を合わせる、春の集まりだった。
季節は春というのに凍えてしまいそうな、凍てつく数々の視線が私を刺していた。
そしてこの日から、少しずつ周囲の視線が変わり始めたのだ。
「あれが、例の……」
「ああ、貧民街の──」
「まあ、なんてこと」
皆が遠巻きに冷ややかな視線を向ける中、勇敢にも噂好きのある1人の令嬢が声をかけてきた。
「あなた、犬を飼ったんですってね!」
「今……なんて?」
蔑むような視線。どこか探るように、こちらの反応を伺っている。
「貧民街から犬を拾ったそうね! それもあろうことか、サンソン家の養子にまでして手厚く保護をしているとか。まったくディジュワール家も落魄れたものね!」
私を、ディジュワール家を、そして何よりノエルを侮辱されて悔しい。何か言わなければいけないのに、私は保身に走ってしまいそうになる私がいることに気がついてしまった。
冷静にと頭の中では思っているはずなのに、この場で正しい選択肢が浮かばなかった。言い返したくても言い返せない自分が嫌になる。
これから与えられる屈辱的な言葉を予想して、身構えたその時──。
「お嬢様を侮辱するおつもりですか!」
そんなのノエルの声が背後から聞こえた。
「まあ! いくら名家の養子になって、いいお洋服で着飾っても、貧民は貧民ね! しっかり首輪をつけて躾をしておくことね!」
そんな捨て台詞を置いて去って行った。
それを合図に私たちを興味深そうに遠巻きに見ていた外野も、蜘蛛の子を散らすように散り散りになっていく。
誰1人として目が合わない。何かを言いたそうにしていても、何も文句を言われることはなかった。
ノエルの怒号が響いたのか、それから誰にも声をかけられずにその日の茶会は終了した。
「お嬢様、申し訳ありません……」
「いいのよ。私も精々した」
私が言えなかったことを言ってのけたノエルが誇らしかった。
ただ──。
あの噂好きの令嬢に逆恨みされ、ありもしない噂を作られて、肩身がまた狭くなってしまったのはノエルに秘密だ。
「ディジュワール家の令嬢は人買いをしたらしい」
「いや、村を燃やして人攫いをしたらしい」
とか
「逆らうと、呪われる」
そんな噂が、いつの間にか私を包囲していた。
だが私は、何もしていない。
ただ、無駄な社交辞令を省き、形式的な会話を好まなかっただけだ。
そして、それがさらに「傲慢」と呼ばれた。
貴族社会とは、そういうものだった。
そんなことを思い出しながら、身支度をするために鏡の前に座る。
前の人生では、私は完璧な令嬢として振る舞った。
波風を立てぬよう、微笑み続けた。
——それでも未来は破滅した。
ならば。
私は、別の選択をする。だが今は違うのだ。自分の信じる選択をした。
それが、孤立に繋がろうともしても、私には味方がいる。私の髪を櫛で整えているノエルを盗み見た。
「ノエル。これからもよろしくね」
「……はい!」
孤立は、確実に近づいている。
庭園は春の香りに満ちている。
色とりどりの花々と、柔らかな陽光。
鳥たちの美しい呟き。
「ああ、そういえばこちらがお嬢様宛に届いておりました。しかし差出人の名がございません」
「どうしてかしら、中を見てみましょう」
胸の奥が、微かに軋む。
封を切る。
中には、短い一文。
『あなたは既に、選ばれている。』
一瞬、息が止まる。誰が。何のために。
手紙を握る指先が冷たくなる。
心配したノエルが私の手元をのぞいて、息を呑む音が聞こえた。
「……これは?」
世界は静かだ。あまりにも静かすぎる。
だが私は知っている。
この静寂の下で、運命は確実に軋み始めている。
そして。
未来は、もう一度同じ形で訪れるとは限らない。
私はゆっくりと目を閉じた。
恐怖はある。孤独もある。
それでも。
今度こそ。
私は、この運命に抗う。




