神に拒まれた少女
王都中央にそびえる大聖堂は、静寂そのものだった。
白い大理石の柱。
天を貫く尖塔。
色彩豊かなステンドグラスから差し込む光は、まるで神の祝福のように床を染めている。
本来なら、ここは人々の安らぎの場所だった。
だが──
今日の空気は、どこか張り詰めていた。
社交期の祈祷式。
王都の貴族令嬢たちが一堂に会する場でもある。
ディジュワール家の代表として、マルールは静かに祈りの列へ並んでいた。
胸元で組んだ手。
伏せた瞳。
外から見れば、模範的な貴族令嬢そのもの。
だが胸の奥では、言い知れぬ不安が揺れていた。
(どうして……こんなに落ち着かないの)
背後にはノエルが控えている。
彼の存在は確かに心強いはずなのに、胸の奥のざわめきは消えなかった。
神官の祈祷が始まる。
低く響く聖句。
燭台に灯る神聖な火。
香の煙がゆるやかに空へ昇る。
静寂が満ちる。だれもが祈りを捧げる、その時だった。
──ぱちり。
小さな音が響いた。
聖火が、揺れた。
誰かが息を呑む。
揺らぎは一つでは終わらなかった。
燭台の火が次々と震え始める。
まるで見えない風が通り抜けたかのように。
「……え?」
令嬢の一人が声を漏らす。
次の瞬間。
空気が、凍りついた。
暖かな聖堂の中で、あり得ない冷気が流れた。
マルールの指先が震える。
(寒い……?)
ノエルの手が、彼女の袖を強く掴んだ。
ほんの一瞬だった。だが彼の指は、微かに震えていた。
彼の視線は聖火に向けられている。
そして、低く息を呑んだ。
「また、始まってしまいましたか……」
「……え?」
(どうしたの……?)
呟きは音にならず、胸の奥へ沈んだ。
そのとき──
ステンドグラスの光が、歪んだ。
赤い光の中を、黒い影が走る。
ほんの一瞬。
だが確かに、そこに「何か」があった。
「きゃあっ!」
悲鳴が上がる。
神官の声が止まり、聖堂が静まり返る。
そして。
すべての視線が──マルールへ向けられた。
理由は誰にもわからない。
けれど。
そこに立つ彼女だけが、異物のように浮いて見えた。
周囲の人々は一歩後ろへ後退り、彼女から距離を取る。
「……不吉だわ」
誰かの囁き。
「聖火が揺らいだ瞬間……」
「彼女の前だった」
「神に拒まれたのでは……」
言葉は小さく、囁きが波紋のように広がっていく。
マルールの呼吸が浅くなる。
(違う……私じゃない)
否定したいのに、声が出ない。
空気が、重い。
逃げ場がない。
そのとき。
「失礼します。お嬢様」
背後で、静かに衣擦れの音がした。
ノエルだった。
彼は一歩前へ出ると、静かにマルールを守るように彼女の前に立ちはだかった。
その瞬間。
彼の周囲だけ、空気が澄んだ。凍りついていた冷気が、わずかに緩む。
マルールは息を取り戻す。
ノエルがただ、守るようにそこにいる。
とたん、神官が震える声で告げた。
「……祈祷を中断する」
ざわめきが広がる。
令嬢たちは互いに囁き合いながら再び距離を取る。
その中心に残されたのは──
マルールだけだった。
彼女は動けない。
足元で、何かが揺らめいた気がした。けれど、視線を落としたときには何もない。
(いま……何か……)
確かめる勇気が持てない。
遠くで囁き声が続く。
「不吉を呼ぶ方よ……」
「近づかないほうがいいわ」
「神が拒絶したのよ」
胸が締め付けられる。
「……っ」
ここにいるのが、怖い。
そのとき。低く、確かな声が耳に届いた。
「屋敷に戻りましょう」
ノエルだった。
周囲の視線を遮るように。突き刺さる視線から私を守ってくれた。
「本日はお疲れでございます」
ただの形式的な言葉。
だがその声音には、揺るぎない意志があった。
マルールは小さく頷いて、ノエルの手を取った。
聖堂の外へ出た瞬間、冷たい空気が肺に流れ込む。
ようやく息ができた。
だが胸の奥のざわめきは消えない。握ったノエルの手がわずかに震えている。
「お嬢様……」
ノエルは知っている。この兆しの先にある結末を。
(だが告げることはできないのです。もし真実を知れば、お嬢様はもう、笑えなくなってしまうから……)
ノエルはぐっと堪えるように手を握り返した。
私は空を見上げる。青空は変わらず広がっていた。
世界は、何も変わっていないように見える。
けれど──
確かに何かが変わった。
「……ノエル」
「はい」
「私……」
言葉が続かない。そんな私を気遣うように、彼は静かに答えた。
「お側におります」
それだけだった。
否定も、説明も、問いもいらない。ノエルなら私の側に居続けてくれる。そんな確信があった。
マルールは目を閉じた。
聖堂の中で感じた冷気。
黒い影。
向けられた視線。
そして胸に残る、消えないざわめき。
──世界が、私を拒んでいる。
そんな錯覚が、離れなかった。
だが同時に。守ってくれる人がいる。
だから、彼女は一人ではなかった。
そしてその日から。
社交界の片隅で、こんな噂が囁かれ始める。
聖堂が揺らいだ日。
祈りを乱した令嬢がいた。
神に拒まれた、不吉の象徴。
──悪役令嬢。
その呼び名は、静かに芽吹き始めていた。




