表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/26

神に拒まれた少女




 王都中央にそびえる大聖堂は、静寂そのものだった。


 白い大理石の柱。

 天を貫く尖塔。

 色彩豊かなステンドグラスから差し込む光は、まるで神の祝福のように床を染めている。


 本来なら、ここは人々の安らぎの場所だった。


 だが──


 今日の空気は、どこか張り詰めていた。


 社交期の祈祷式。


 王都の貴族令嬢たちが一堂に会する場でもある。


 ディジュワール家の代表として、マルールは静かに祈りの列へ並んでいた。


 胸元で組んだ手。

 伏せた瞳。

 外から見れば、模範的な貴族令嬢そのもの。


 だが胸の奥では、言い知れぬ不安が揺れていた。


(どうして……こんなに落ち着かないの)


 背後にはノエルが控えている。

 彼の存在は確かに心強いはずなのに、胸の奥のざわめきは消えなかった。


 神官の祈祷が始まる。


 低く響く聖句。

 燭台に灯る神聖な火。

 香の煙がゆるやかに空へ昇る。


 静寂が満ちる。だれもが祈りを捧げる、その時だった。


 ──ぱちり。


 小さな音が響いた。


 聖火が、揺れた。


 誰かが息を呑む。


 揺らぎは一つでは終わらなかった。


 燭台の火が次々と震え始める。


 まるで見えない風が通り抜けたかのように。


「……え?」


 令嬢の一人が声を漏らす。


 次の瞬間。


 空気が、凍りついた。


 暖かな聖堂の中で、あり得ない冷気が流れた。


 マルールの指先が震える。


(寒い……?)


 ノエルの手が、彼女の袖を強く掴んだ。


 ほんの一瞬だった。だが彼の指は、微かに震えていた。


 彼の視線は聖火に向けられている。


 そして、低く息を呑んだ。


「また、始まってしまいましたか……」


「……え?」


(どうしたの……?)


 呟きは音にならず、胸の奥へ沈んだ。


 そのとき──


 ステンドグラスの光が、歪んだ。


 赤い光の中を、黒い影が走る。


 ほんの一瞬。


 だが確かに、そこに「何か」があった。


「きゃあっ!」


 悲鳴が上がる。


 神官の声が止まり、聖堂が静まり返る。


 そして。


 すべての視線が──マルールへ向けられた。


 理由は誰にもわからない。


 けれど。


 そこに立つ彼女だけが、異物のように浮いて見えた。


 周囲の人々は一歩後ろへ後退り、彼女から距離を取る。


「……不吉だわ」


 誰かの囁き。


「聖火が揺らいだ瞬間……」


「彼女の前だった」


「神に拒まれたのでは……」


 言葉は小さく、囁きが波紋のように広がっていく。


 マルールの呼吸が浅くなる。


(違う……私じゃない)


 否定したいのに、声が出ない。

 空気が、重い。

 逃げ場がない。


 そのとき。


「失礼します。お嬢様」


 背後で、静かに衣擦れの音がした。


 ノエルだった。


 彼は一歩前へ出ると、静かにマルールを守るように彼女の前に立ちはだかった。


 その瞬間。


 彼の周囲だけ、空気が澄んだ。凍りついていた冷気が、わずかに緩む。


 マルールは息を取り戻す。


 ノエルがただ、守るようにそこにいる。


 とたん、神官が震える声で告げた。


「……祈祷を中断する」


 ざわめきが広がる。


 令嬢たちは互いに囁き合いながら再び距離を取る。


 その中心に残されたのは──


 マルールだけだった。


 彼女は動けない。


 足元で、何かが揺らめいた気がした。けれど、視線を落としたときには何もない。


(いま……何か……)


 確かめる勇気が持てない。


 遠くで囁き声が続く。


「不吉を呼ぶ方よ……」


「近づかないほうがいいわ」


「神が拒絶したのよ」


 胸が締め付けられる。


「……っ」


 ここにいるのが、怖い。


 そのとき。低く、確かな声が耳に届いた。


「屋敷に戻りましょう」


 ノエルだった。


 周囲の視線を遮るように。突き刺さる視線から私を守ってくれた。


「本日はお疲れでございます」


 ただの形式的な言葉。


 だがその声音には、揺るぎない意志があった。


 マルールは小さく頷いて、ノエルの手を取った。



 聖堂の外へ出た瞬間、冷たい空気が肺に流れ込む。


 ようやく息ができた。


 だが胸の奥のざわめきは消えない。握ったノエルの手がわずかに震えている。


「お嬢様……」


 ノエルは知っている。この兆しの先にある結末を。


(だが告げることはできないのです。もし真実を知れば、お嬢様はもう、笑えなくなってしまうから……)


 ノエルはぐっと堪えるように手を握り返した。


 私は空を見上げる。青空は変わらず広がっていた。


 世界は、何も変わっていないように見える。


 けれど──


 確かに何かが変わった。


「……ノエル」


「はい」


「私……」


 言葉が続かない。そんな私を気遣うように、彼は静かに答えた。


「お側におります」


 それだけだった。


 否定も、説明も、問いもいらない。ノエルなら私の側に居続けてくれる。そんな確信があった。


 マルールは目を閉じた。


 聖堂の中で感じた冷気。

 黒い影。

 向けられた視線。

 そして胸に残る、消えないざわめき。


 ──世界が、私を拒んでいる。


 そんな錯覚が、離れなかった。


 だが同時に。守ってくれる人がいる。


 だから、彼女は一人ではなかった。


 そしてその日から。


 社交界の片隅で、こんな噂が囁かれ始める。


 聖堂が揺らいだ日。

 祈りを乱した令嬢がいた。

 神に拒まれた、不吉の象徴。


 ──悪役令嬢。


 その呼び名は、静かに芽吹き始めていた。












評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ