魅惑の花に魅せられて
悲鳴が広間に響いた瞬間、音楽は途切れた。
楽団の演奏者たちは弓を止め、戸惑うように互いの顔を見合わせている。
広間の入口付近。
そこに一人の令嬢が倒れていた。
周囲の貴族たちが慌てて距離を取る。
「だ、誰か医師を!」
「何が起きたのですの?」
ざわめきが広がる。
マルールも思わず一歩踏み出した。
その瞬間だった。
「お待ちください」
低く、しかし落ち着いた声が止めた。
護衛騎士ベルナールが、静かに手を差し出していた。
「お嬢様が近づくのは危険です」
丁寧な口調。
しかしその視線は鋭く周囲を警戒している。
マルールは頷いた。
「分かりました」
その間に、数人の騎士が倒れた令嬢の元へ駆け寄る。
ひとりが彼女の手を持ち上げた。
「……花?」
その声に、広間の視線が集中する。
令嬢の手の中に握られていたのは、一輪の花だった。
淡い紫色。
細い花弁。
どこか幻想的な形をしている。
それを見た瞬間。
ジョルジュがゆっくりと歩み寄った。
彼は花を見下ろし、小さく息を吐いた。
「……やはり」
静かな声。
しかし、その言葉には確信があった。
「幻惑の花です」
ざわめきが広がる。
「幻惑の花?」
「温室の植物では?」
ジョルジュは頷いた。
「ええ」
眼鏡を押し上げる。
「触れると意識混濁を引き起こす植物です」
貴族たちの顔色が変わった。
「毒なのか?」
誰かが問う。
「いいえ」
ジョルジュは首を振る。
「毒ではありません」
「ではなぜ倒れたのだ?」
「幻惑作用です」
彼は静かに説明する。
「この花に触れた人間は、一時的に意識が混濁します」
周囲の貴族たちが息を呑む。
「つまり」
ジョルジュは続ける。
「記憶が曖昧になる」
その言葉に。
マルールの胸が小さくざわめいた。
犯人が分からなくなる。
それは──
あまりにも都合のいい現象だった。
そのとき。
「面白いな」
低い声が聞こえた。
振り向くと、そこには腕を組んだ男が立っている。
アルベルト・ラナグローク
敵国の王。
彼は楽しそうに状況を眺めていた。
「帝国の夜会は、こんなに刺激的なのか」
クリストフの蒼い瞳が鋭く光る。
「ふざけるな」
短く言った。
アルベルトは肩をすくめる。
「怒るな」
「貴様が関わっている可能性もある」
「疑うのは自由だ」
アルベルトは笑った。
「だが」
その視線がゆっくりと動く。
そして。
マルールで止まった。
「今回も中心にいるな」
その言葉に、周囲の視線が一斉にマルールへ向いた。
空気がわずかに変わる。
クリストフが一歩前へ出た。
マルールを庇うように。
「彼女は関係ない」
はっきり言った。
アルベルトは少し驚いたように眉を上げる。
「ずいぶん守る」
「当然だ」
「理由は?」
その問いに、クリストフは一瞬黙った。
しかしすぐに言った。
「必要だからだ」
その言葉は短い。
だが迷いはなかった。
アルベルトは小さく笑った。
「なるほど」
そして呟く。
「やはりそうか」
マルールはその言葉が気になった。
「何がですか」
問いかける。
アルベルトは答えない。
ただ彼女を見つめている。
その視線は、どこか確信を帯びていた。
まるで。
何かを知っているような。
そのときだった。
「殿下」
ベルナールが静かに声をかけた。
「令嬢が目を覚ましました」
全員の視線が倒れていた令嬢へ向く。
彼女はゆっくりと目を開けていた。
「わ、私……」
混乱した声。
騎士が尋ねる。
「何が起きたか覚えているか」
令嬢は眉を寄せる。
「花を……」
そこまで言って、首を振った。
「……分からない」
目を閉じる。
「どうして持っていたのか……思い出せない」
広間に重い沈黙が落ちた。
犯人は分からない。
誰が花を渡したのか。
なぜ持っていたのか。
すべてが曖昧になっている。
ジョルジュが静かに言った。
「典型的な症状ですね」
そして。
彼はゆっくりとマルールを見た。
「しかし不思議です」
「何がですか」
マルールが尋ねる。
ジョルジュは少し微笑んだ。
「なぜあなたの周囲だけ」
眼鏡の奥の瞳が鋭く光る。
「こんなに事件が起きるのでしょう」
その瞬間。
クリストフが言った。
「やめろ」
低い声だった。
ジョルジュは肩をすくめる。
「失礼しました」
だがその目はまだマルールを観察している。
研究者の目。
そして。
アルベルトもまた。
同じように彼女を見ていた。
その二人の視線に気づきながら。
マルールは胸の奥で、奇妙な予感を感じていた。
この事件は。
まだ終わっていない。




