氷と炎の二人の王
大広間の空気が、明らかに変わった。
ざわめきはある。
しかしそれは先ほどまでの社交のざわめきではない。
緊張。
警戒。
そして、息を潜めるような沈黙。
すべての視線が、ひとりの男へ向けられていた。
広間の入口に立つのは、堂々とした体格の金髪の男。
琥珀色の瞳。
その存在は、まるで猛獣のような威圧感を放っていた。
アルベルト・ラナグローク
敵国ラナグロークの王。
本来ならば、この国の夜会に現れるはずのない人物だった。
貴族たちは困惑していた。
「なぜ敵国の王が……」
「外交使節の一行だとは聞いていたが」
「まさか夜会に」
囁き声が広がる。
だが当の本人は、そんな空気など気にもしていないようだった。
ゆっくりと歩き出す。
広間の中央へ。
その足取りは迷いがない。
まっすぐ。
ただ一人の人物へ向かっている。
マルール・ディジュワール。
その瞬間。
彼女の前に立つ男の気配が変わった。
白銀の髪が燭台の光を反射する。
蒼い瞳が鋭く細められた。
皇太子クリストフが、一歩前に出た。
自然な動きだった。
だがその位置は、完全にマルールを背後に庇う形になっている。
アルベルトはその様子を見て、低く笑った。
「……なるほど」
ゆっくりと立ち止まる。
皇太子の数歩手前。
「随分と分かりやすいな」
その言葉に、周囲の空気がさらに冷えた。
クリストフは表情を変えない。
ただ静かに言った。
「ここは帝国だ」
「そうだな」
アルベルトは肩をすくめる。
「だから挨拶に来た」
貴族たちがざわめく。
敵国の王が。
皇太子の前で。
まるで旧友のような口調で話している。
「外交使節として来ている以上、夜会に参加するのは不自然ではないだろう?」
「問題はない」
クリストフは短く答えた。
「ただし」
蒼い瞳が鋭く光る。
「貴様の目的が別にあるなら話は違う」
沈黙。
アルベルトの琥珀の瞳が細くなる。
そして。
彼は視線を動かした。
クリストフの肩越し。
そこに立つ少女へ。
マルール。
その瞬間だった。
「──やはりお前か」
低い声が落ちる。
その言葉に、マルールはわずかに目を瞬いた。
「……私をご存知ですか?」
アルベルトは答えない。
代わりに、まじまじと彼女を見つめた。
まるで何かを確かめるように。
そして。
「驚いた」
ゆっくりと言う。
「本当に生きている」
その言葉に。
クリストフの眉がわずかに動いた。
「どういう意味だ」
皇太子の声は低い。
アルベルトは笑う。
「気にするな」
軽く手を振る。
「ただの独り言だ」
だがその視線は、まだマルールから離れていない。
次の瞬間。
クリストフが言った。
「マルール」
その声は低く、はっきりしていた。
「私の隣へ」
周囲の貴族たちが息を呑む。
マルールは一瞬だけ迷ったが、静かに頷いた。
「はい、殿下」
そして一歩前へ出る。
皇太子の隣へ。
その距離は近い。
あまりにも近い。
アルベルトが小さく笑った。
「なるほど」
再び呟く。
「そういう関係か」
「違う」
クリストフは即座に否定した。
だがその声にはわずかな苛立ちが混じっている。
アルベルトは肩をすくめた。
「まあいい」
そして。
もう一度、マルールを見る。
その視線は、先ほどよりも深い。
観察するような。
確信するような。
「面白い」
彼は静かに言った。
「帝国の夜会も、退屈ではなさそうだ」
その瞬間。
遠くで音楽が鳴り始めた。
夜会の正式な開幕を告げる合図だった。
しかし誰も踊ろうとはしない。
すべての貴族が理解していた。
今、この広間の中心にいる三人。
皇太子。
敵国の王。
そして。
マルール・ディジュワール。
その関係が──
この夜のすべてを左右することを。
そしてその時。
広間の隅で、ひとりの男が静かに観察していた。
興味深そうに呟く。
「……なるほど」
研究者のような声。
ジョルジュ・ルモワール
「やはり中心はあの令嬢ですか」
彼の視線はマルールに固定されていた。
まるで。
珍しい実験対象を見るように。




