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静かなる嵐の前に




 夏の終わりの空気は、どこか重かった。


 王宮の庭園ではまだ花々が咲き誇っているが、季節は確実に移ろうとしている。昼の陽射しは強いままだというのに、夕刻になるとわずかに秋の気配が混じるようになっていた。


 その静かな変化を、マルール・ディジュワールは回廊の窓辺からぼんやりと眺めていた。


 社交界では相変わらず彼女の噂が絶えない。


 温室で起きた令嬢の失神事件──。


 あの出来事は「事故」として処理されたが、社交界の人々は決してそうは思っていない。


 むしろ、噂はさらに奇妙な方向へと広がっていた。


 ──悪役令嬢。


 いつからか、そんな呼び名が定着するようになってきたのに慣れてきてしまっている。


 マルールは小さく息を吐いた。


 自分が何かしたわけではない。


 だが、なぜか事件の中心にいるのはいつも自分だった。


「お嬢様」


 背後から柔らかな声がかかる。


 振り向くと、そこには従者のノエルが立っていた。


 いつも通り穏やかな表情だが、その視線はどこか警戒を含んでいる。


「ノエル」


「本日の夜会ですが……どうやら参加者がかなり増えるようです」


「増える?」


「はい。どうやら各家の令嬢方が……」


 ノエルは言葉を選ぶように少し間を置いた。


「お嬢様を見に来るようで」


 マルールは思わず苦笑した。


「見世物みたいね」


「そのようなことはございません」


 ノエルは即座に否定した。


 しかしその声にはわずかな怒気が混じっている。


「皆、噂に興味があるだけです」


「……噂」


 呪われた悪役令嬢。


 皇太子に近づく危険な女。


 不可解な事件を呼び寄せる存在。


 どれも好き勝手に作られたものだ。


 それでも。


 完全な嘘とも言い切れない気がして、マルールは黙り込んだ。


 その沈黙を破ったのは、重い足音だった。


「失礼いたします」


 回廊の入口に現れたのは、赤髪の騎士。


 守護騎士団のベルナールだった。


 巨体に重厚な鎧を纏いながらも、その動きは驚くほど静かだ。


「ベルナール」


「お嬢様。本日は警備が強化されております」


 彼は丁寧に頭を下げた。


「皇太子殿下の命令です」


 マルールは眉をひそめた。


「……また?」


 ベルナールは静かに頷く。


「最近の事件を受けて、殿下は警戒を強めておられます」


 その名を聞いた瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。


 皇太子。


 白銀の髪に蒼い瞳を持つ男。


 クリストフ・ポルディネ


 あの夜会以来、彼の視線は明らかに変わった。


 冷たい氷のようだった視線が、今はどこか鋭く、そして深い。


 まるで──


 何かを見極めようとしているような。


「殿下は?」


 マルールが尋ねると、ベルナールは一瞬だけ言葉を選んだ。


「現在、宮廷学者との会談中です」


 その名前を聞いた瞬間、マルールの脳裏に一人の人物が浮かぶ。


 濃紺の髪に紫の瞳。


 冷静な視線を持つ男。


 ジョルジュ・ルモワールのことだろう。


 彼は温室事件の後から、明らかにマルールを観察していた。


 研究者の目。


 人ではなく、現象を見るような視線。


「また私のことを話しているのかしら」


 半ば冗談のつもりで言ったが。


 ベルナールは否定しなかった。


 代わりに言う。


「殿下は……」


 そこで彼は言葉を止めた。


 まるで言うべきか迷っているように。


「ベルナール?」


「……いえ」


 騎士は軽く頭を振った。


「夜会の警備を強化するよう命じられております」


 それだけ言うと、彼は一歩下がった。


 しかしその表情はわずかに硬い。


 マルールはそれを見逃さなかった。


「何かあるの?」


 ベルナールは少しだけ黙り込んだ。


 そして静かに言った。


「……どうやら、敵国の使節団がまだ王宮に滞在しているようです」


 その瞬間。


 マルールの胸が強く跳ねた。


 敵国の王。


 金髪に琥珀の瞳。


 圧倒的な存在感を持つ男。


 アルベルト・ラナグローク。


 彼は本来、すでに帰国しているはずだった。


「まだいるの?」


「ええ」


 ベルナールは低く答えた。


「どうやら、何かを探しているようで」


「何を?」


 その問いに。


 騎士はわずかに視線を伏せた。


 そして言った。


「……それは、分かりません」


 だが。


 その瞬間、マルールはなぜか理解してしまった。


 理由は分からない。


 ただ、直感が告げている。


 ──自分だ。


 そのときだった。


 遠くから足音が響く。


 ゆっくりと近づくその足音は、どこか規則正しく冷たい。


 ベルナールが即座に振り向いた。


 ノエルも一歩前に出る。


 回廊の奥から現れたのは──


 白銀の髪の男だった。


 蒼い瞳がまっすぐにマルールを捉える。


 クリストフはしばらく何も言わなかった。


 ただ静かに彼女を見ている。


 その視線は以前よりもずっと強く、逃げ場がない。


「……殿下?」


 マルールが声をかけると、ようやく彼は口を開いた。


「夜会に出るのか」


「はい」


 短いやり取り。


 だが皇太子はすぐには頷かなかった。


 まるで何かを考えているように沈黙する。


 そして、低い声で言った。


「今夜は私の近くにいろ」


 突然の言葉だった。


 ノエルが驚いたように顔を上げる。


 ベルナールもわずかに目を細めた。


 マルールは瞬きをする。


「どうしてですか?」


 皇太子はほんの一瞬だけ視線を逸らした。


 だがすぐに戻す。


「……危険だからだ」


 その言葉は短かった。


 しかし、その声音には確かな緊張があった。


 まるで。


 すでに何かが起きると分かっているかのように。


 マルールの胸に、小さな不安が広がる。


 夜会。


 そして王宮。


 静かな夏の終わり。


 その裏で。


 確実に何かが動き始めていた。


 まだ誰も知らない。


 だがこの夜が──


 帝国の運命を大きく変える最初の夜になることを。












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