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皇太子の選択




 温室の空気は、妙に重かった。


 湿った熱気の中で、白い花が静かに揺れている。


 幻惑の花。


 触れた者の意識を混濁させ、記憶を曖昧にする植物。


 その花が──


 私の通る道に置かれていた。


 つまり。


 狙われた可能性があるのは、私。


 誰も言葉を発しなかった。


 最初に動いたのは、ベルナールだった。


 彼は一歩前に出て、私の前に立つ。


「マルール様」


 声はいつも通り丁寧だ。


 だが、その背中からは明確な警戒が伝わってくる。


「少し後ろへ」


 私は素直に従い、半歩下がった。


 その様子を見て、アルベルトが笑った。


「大げさだな」


 彼は白い花を見下ろしながら言う。


「ただの植物だ」


 その言葉に、宮廷学者が静かに口を開いた。


 彼の紫の瞳が、冷たい光を帯びている。


「“ただの植物”ではありません」


 彼は淡々と言う。


「幻惑の花は、王宮では栽培されていない種類です」


「つまり?」


 アルベルトが楽しそうに聞く。


「誰かが持ち込んだ可能性が高い」


 ジョルジュは続けた。


「そして」


 彼は私を見る。


「この花が置かれていた場所は、マルール嬢の通る道でした」


 沈黙。


 その静寂を破ったのは──


 低い声だった。


「犯人を探せ」


 振り向く。


 クリストフの白銀の髪が揺れた。


 彼の声は、氷のように冷たい。


「この温室に出入りした者を全て調べろ」


 ベルナールがすぐに頭を下げる。


「承知いたしました」


 だが私は言った。


「待ってください」


 全員の視線が私に向いた。


「もし幻惑の花を触った人がいたとしても」


 私はゆっくり言う。


「記憶が曖昧になるのよ」


 ジョルジュが頷く。


「その通りです」


「つまり」


 私は花を見る。


「犯人は、覚えていない可能性がある」


 アルベルトが笑った。


「面白い」


 彼は腕を組む。


「完璧な犯罪だ」


 その時だった。


 クリストフが静かに言った。


「違う」


 全員の視線が彼に向く。


 蒼い瞳が、冷たく光る。


「これは犯罪ではない」


 彼はゆっくり言った。


「宣戦だ」


 温室の空気が凍りついた。


 クリストフは続ける。


「マルール嬢を狙った」


 その声は低い。


「つまり帝国の貴族を狙った」


 彼の視線が花に落ちる。


「王宮内で」


 そして言った。


「許されるはずがない」


 その瞬間だった。


 アルベルトが小さく笑った。


「皇太子」


 琥珀の瞳が細くなる。


「随分熱くなるじゃないか」


 クリストフは答えない。


 ただ、私を見る。


 その視線は静かだった。


 だが──


 強い。


 アルベルトは肩をすくめた。


「ただの令嬢だろう?」


 その言葉の意味は明白だった。


 社交界では私の評価は低い。


 “悪役令嬢”。


 孤立した貴族令嬢。


 守る価値などない存在。


 だが。


 次の瞬間。


 クリストフが言った。


「違う」


 温室の空気が凍る。


 彼はゆっくり言った。


「彼女は」


 一瞬の沈黙。


 そして──


「私が守る」


 誰も動かなかった。


 ベルナールでさえ、驚いた顔をしている。


 アルベルトが目を細めた。


「ほう」


 楽しそうに言う。


「そう来るか」


 私は言葉を失っていた。


 クリストフは淡々と続ける。


「マルール嬢」


 蒼い瞳が私を見た。


「あなたは今日から」


 静かな声。


「私の庇護下に入る」


 温室の空気が一変した。


 それはつまり。


 皇太子の保護。


 帝国最高権力者の後継者が、私を守るという意味。


 社交界がひっくり返る。


 アルベルトが笑った。


「面白い」


 そして私を見る。


「ますます欲しくなった」


 ベルナールが一歩前に出る。


「陛下」


 声は丁寧だが鋭い。


「これ以上の発言は控えていただけますか」


 アルベルトは笑った。


「怖い騎士だ」


 そして背を向ける。


「だが覚えておけ」


 振り返る。


 琥珀の瞳が私を見る。


「太陽は諦めない」


 いつの日か聞いたことのある台詞を言い、彼は去った。


 温室に静寂が戻る。


 私はゆっくりクリストフを見る。


「皇太子殿下」


 言葉を選びながら言う。


「どういう意味ですか」


 クリストフは少し黙った。


 そして言った。


「そのままの意味だ」


 蒼い瞳が私を見つめる。


「君は危険だ」


「……私が?」


「違う」


 彼は低く言った。


「君の周りが」


 その言葉に、背筋が冷えた。


 クリストフは続ける。


「だから」


 ほんのわずか、声が柔らぐ。


「私が守る」


 その言葉を聞いた瞬間。


 私は気づいた。


 これは──


 ただの政治ではない。


 もっと、厄介なものだ。












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