揺らぐ結界の痕跡
夏の終わりの朝は、妙に静かだった。
王宮の庭園にはまだ濃い緑が残っているが、空気の奥にはわずかな涼しさが混じり始めている。
噴水の水音が少し澄んで聞こえるのも、季節が少しずつ動いている証拠だった。
私は温室へ続く石畳の道を歩いていた。
理由は一つ。
数日前に起きた──王宮結界の揺らぎ。
その調査のためだった。
温室の管理をしている宮廷学者から、奇妙な報告が上がっている。
私は扉を押し開けた。
温室の中には湿った空気が満ちている。珍しい植物が並び、外の季節とは別の世界のようだった。
「マルール様」
低く落ち着いた声が聞こえる。
振り向くと、赤髪の巨躯の騎士が立っていた。
護衛騎士、ベルナール。彼は丁寧に一礼する。
「本日は温室の調査でございましたね」
「ええ」
「私も同行させていただきます」
穏やかな声だが、視線は周囲を警戒している。
彼は皇太子の命で私の護衛についている。
つまり──
クリストフ・ポルディネ。
彼の判断で。
「そんなに危険かしら?」
私が聞くと、ベルナールは少し考えたあと答えた。
「可能性の問題でございます」
そして続ける。
「結界の揺らぎは、まだ原因が判明しておりません」
「内部の可能性が高いのよね」
「はい」
彼は静かに頷く。
「だからこそ、マルール様の周囲には注意が必要でございます」
私は苦笑する。
「悪役令嬢に護衛がつくなんて、皮肉ね」
ベルナールは真面目な顔のまま言った。
「その呼び名を、私は好ましく思っておりません」
思わず少し笑ってしまう。
「ありがとう」
その時だった。
奥から声がした。
「おや」
乾いた、知的な声。
「マルール嬢ではありませんか」
振り向くと、細身の男が植物の棚の間から現れた。
鋭い観察眼。
宮廷学者、ジョルジュ・ルモワールだ。
彼は軽く頭を下げる。
「温室にいらっしゃるとは珍しい」
「あなたから報告を受けたのよ」
「結界の痕跡の件ですね」
彼の目が、興味深そうに細くなる。
私は頷いた。
「ここで何か起きたの?」
ジョルジュはゆっくり歩きながら言う。
「“起きた”というより」
植物の一つを指差した。
「残っていた、と言うべきでしょう」
そこには白い花が咲いていた。
見たことのない植物だ。
「これは?」
「幻惑の花です」
私は息を止める。
その名前は知っている。
触れた者の意識を混濁させる植物。
「……王宮にある植物ではないわ」
「その通りです」
ジョルジュは静かに笑った。
「つまり」
彼は続ける。
「誰かが持ち込んだ」
空気が一瞬、冷えた。
ベルナールの視線が鋭くなる。
「危険な植物では?」
「ええ」
ジョルジュは頷く。
「触れると意識が曖昧になります」
「記憶も?」
「はい」
私はゆっくり息を吐く。
つまり──
犯人が分からなくなる。
「……便利な花ね」
思わず呟いた。
ジョルジュは微笑む。
「犯罪には向いています」
その時だった。
温室の扉が開く音がした。
ゆっくり振り向く。
そこに立っていたのは。
金髪の男。
琥珀の瞳。
敵国王のアルベルト・ラナグローク。
「面白い話をしているな」
彼は笑っていた。
ベルナールが一歩前に出る。
「陛下」
声は丁寧だが、警戒は明らかだった。
「ここは王宮の研究区域でございます」
「知っている」
アルベルトは気にした様子もなく歩いてくる。
そして、幻惑の花を見る。
「ほう」
興味深そうに言う。
「幻惑の花か」
私は彼を見る。
「知っているの?」
「戦場では珍しくない」
さらりと言った。
ぞくり、と背筋が冷える。
アルベルトは続ける。
「記憶が曖昧になる」
そして私を見る。
「便利だろう?」
その言葉の意味が、分からないはずがない。
だがその時。
別の声が響いた。
「ここにいらっしゃいましたか」
冷たい声。
白銀の髪。
蒼い瞳。
クリストフだ。
彼は温室に入るなり、アルベルトを見る。
「陛下」
「また会ったな」
「研究区域です」
クリストフは淡々と言う。
「見学はご遠慮いただきたい」
アルベルトは笑う。
「怖い顔だな」
そして私を見た。
「だが」
彼の瞳が光る。
「面白い事件が起きている」
その瞬間。
ジョルジュがぽつりと言った。
「ええ」
彼は花を見つめながら続ける。
「非常に興味深い事件です」
そして──
ゆっくり私を見る。
「なぜなら」
彼の目は、完全に研究者の目だった。
「この花が置かれていた場所」
一瞬の沈黙。
ジョルジュは言った。
「マルール嬢の通る道だったのですから」
空気が凍りついた。
ベルナールがすぐ前に出る。
「それは本当でございますか」
「ええ」
ジョルジュは淡々と言う。
「つまり」
彼は静かに結論を出した。
「誰かが」
私を見る。
「あなたを狙った可能性が高い」
温室の空気が、急に重くなる。
クリストフの蒼い瞳が冷たく光る。
アルベルトは楽しそうに笑った。
そして言った。
「なるほど」
琥珀の瞳が私を見つめる。
「やはり」
低く、愉快そうに。
「お前の周りは面白い」
私は静かに息を吐いた。
どうやら──
厄介な事件に終わりは見えないらしい。




