炎の王の接触
夏の名残が、夜の空気にまだ残っていた。
昼間ほどの熱はないが、石造りの王宮の壁はほんのりと温もりを帯びている。
庭園の噴水の水音だけが静かに響き、晩餐会の喧騒が遠い出来事のように感じられた。
私は回廊の柱に軽く寄りかかり、庭園を見下ろしていた。
あの魅惑の花の事件から数日しか経っていないのに晩餐会が開かれたこともあり、よくない噂が私にまとわりつき、疲れていた。
そして、先ほどまで続いていた晩餐会の出来事が、頭から離れない。
理由は明白だった。
敵国の王──
アルベルト・ラナグローク。
あの男は、外交の席で平然と私を自国へ誘った。
あまりにも大胆で、あまりにも無遠慮な言葉。
普通ならば即座に外交問題になるはずだ。
だが彼は、そんな空気をものともせず笑っていた。
まるで世界そのものが、自分の遊び場であるかのように。
「……本当に困った人ね」
思わず小さく呟く。
ただでさえ社交界では“悪役令嬢”などという妙な呼び名が広まり始めているのに、これ以上噂が増えたら面倒なことになる。
敵国王に気に入られた女。
そんな話が流れれば、余計な注目を集めるだけだ。
私は小さく息を吐いた。
その時だった。
「お嬢様」
穏やかな声が背後から聞こえた。
振り返ると、そこには金茶の髪の青年が立っている。
「ノエル」
彼は丁寧に頭を下げた。
幼い頃から私に寄り添ってくれている従者。
「このような場所にお一人でいらっしゃるとは。少々探しましたよ」
「少し風に当たっていただけよ」
言うと、彼は柔らかく微笑んだ。
「晩餐会はお疲れになったでしょう」
「ええ」
私は苦笑する。
「敵国の王に誘われるなんて、想像していなかったもの」
ノエルは一瞬だけ視線を落とした。
だがすぐに、穏やかな声で言う。
「……あのお方は、非常に危険なお方です」
「分かっているわ」
「ですが」
彼は静かに続けた。
「お嬢様が望まない限り、誰もあなたを連れて行くことはできません」
その言葉には、静かな決意がこもっていた。
私は少し肩の力を抜く。
「ありがとう、ノエル」
その時だった。
回廊の奥から、重い足音が近づいてきた。
規則正しく、迷いのない歩み。
騎士の足音だ。
やがて姿を現したのは、赤髪の巨躯の男だった。
守護騎士──
ベルナール・シュヴァリエ。
彼は私を見ると、すぐに丁寧に一礼した。
「マルール様。こちらにいらっしゃいましたか」
「ベルナール」
彼は真面目な表情で続ける。
「晩餐会の後でお一人になるのは危険でございます」
「少し庭を見ていただけよ」
「それでもでございます」
ベルナールは穏やかながらも、はっきりと言った。
「現在の王宮は、あまり落ち着いた状況とは言えません」
私は視線を上げる。
「……結界の件?」
「はい」
彼の濃い銀色の瞳が、わずかに鋭くなる。
「修復作業は進んでおりますが、原因はまだ判明しておりません」
王宮結界崩壊事件。
帝都を守る巨大な結界が突如として揺らぎ、王宮の一部が混乱に陥った。
幸い被害は最小限だったが、犯人はまだ分かっていない。
「内部の可能性が高いと聞いたわ」
「その通りでございます」
ベルナールは低く答える。
「しかし、証拠がございません」
内部。
つまり王宮の人間。
背筋に冷たいものが走った。
その時だった。
「面白い話をしているな」
低く愉快そうな声が響いた。
私は振り向く。
そこに立っていたのは──
金髪の男。
琥珀色の瞳。
アルベルトだった。
彼は回廊の柱に寄りかかりながら笑っている。
「結界崩壊の犯人探しか」
ベルナールの表情がわずかに厳しくなる。
「陛下」
だが声はあくまで丁寧だった。
「夜の王宮は危険でございます。客室へお戻りいただいた方がよろしいかと」
アルベルトは肩をすくめた。
「散歩くらい許されるだろう?」
そして、ゆっくり私を見る。
「それとも」
琥珀の瞳が細くなる。
「この女と話すのが問題なのか?」
ベルナールは静かに答える。
「マルール様の安全を守るのが、私の役目でございます」
その言葉には、揺るぎない意志があった。
アルベルトは楽しそうに笑う。
「なるほど」
その瞬間。
「そこまでです」
冷たい声が響いた。
空気が変わる。
振り向くと、そこには白銀の髪の男が立っていた。
クリストフだった。
彼は静かにこちらへ歩いてくる。
その存在だけで、場の空気が張り詰めた。
「陛下」
クリストフは淡々と言った。
「夜の王宮は迷いやすい。客室へ案内させます」
アルベルトは笑った。
「迷ってはいない」
そして私を見る。
「むしろ」
彼の声は愉快そうだった。
「面白いものを見つけたところだ」
クリストフの蒼い瞳がわずかに細くなる。
数秒の沈黙。
そして彼は静かに言った。
「マルール嬢はこちらの帝国の貴族です」
その声は落ち着いている。
だが、冷たい。
「過度な接触は控えていただきたい」
アルベルトは少し黙り、そして笑った。
「なるほど」
彼は肩をすくめる。
「やはり気に入っているのか」
クリストフは答えない。
ただ私を見た。
蒼い瞳。
その奥にある感情は、まだ読み取れない。
アルベルトは軽く手を振る。
「まあいい」
彼は背を向けた。
「だが覚えておけ」
足を止め、振り返る。
琥珀の瞳が私を見た。
「太陽は諦めない」
そう言い残し、彼は去っていった。
回廊に静寂が戻る。
ベルナールが静かに息を吐いた。
「……厄介なお方でございます」
ノエルも小さく頷く。
その時、私は気づいた。
クリストフがまだこちらを見ていることに。
「皇太子殿下?」
呼ぶと、彼はわずかに視線を逸らした。
そして低く言った。
「……あの男には近づくな」
それは命令のようだった。
だがその声の奥には──
わずかな、焦りのようなものが混じっていた。




