深まる疑惑
王宮の空気は、確実に変わっていた。
回廊を歩くだけで分かる。
視線が集まり、そしてすぐ逸らされる。
囁き声。
沈黙。
それらが波のように広がっていく。
温室事件から一日。
だが王宮の噂はすでに形を持ち始めていた。
「……ディジュワール令嬢」
「やはり、呪われている」
「皇太子妃争いでしょう」
聞こえないふりをするしかない。
私の横を、数人の令嬢が足早に通り過ぎていく。
まるで触れてはいけないもののように。
「お気になさらないでください」
静かな声が後ろから聞こえた。
振り向くまでもない。
護衛騎士のベルナールだった。
彼はいつもの穏やかな表情で言う。
「このような噂は王宮では珍しいものではございません」
「……そうね」
「それに」
彼は続ける。
「マルール様が温室にいらした時間は、私が把握しております」
つまり。
私の行動はすべて見ている。
それは護衛として当然のことだ。
だが同時に、それは確かな証明でもあった。
「殿下もご理解されています」
殿下。
つまり皇太子。
私は何も言わず、回廊の窓へ視線を向けた。
外では夏の光が庭園を照らしている。
春から三か月。
季節は確実に進んでいる。
だが王宮の空気は、どこか歪んでいた。
「ディジュワール様」
突然、背後から声がした。
振り向く。
一人の令嬢が立っていた。
名前は知っている。
温室にもいたはずだ。
だが表情はどこか怯えている。
「少し、お話が……」
彼女は周囲を見回し、小さく言った。
「昨日の温室のことです」
私は眉をわずかに動かした。
「何か思い出したの?」
「はい……」
彼女は声を落とす。
「私、見たんです」
その瞬間、背筋が冷えた。
「花が……」
彼女は震える声で続ける。
「動いていたんです」
「動いていた?」
「ええ」
彼女は頷く。
「本来の場所じゃありませんでした」
つまり。
ジョルジュが言っていたことと同じ。
幻惑の花は、誰かが動かした。
事故ではない。
「誰が?」
私は静かに聞く。
だが彼女は首を振った。
「そこまでは……」
その時だった。
彼女の体が、ふらついた。
「……え?」
彼女の手が壁を探す。
呼吸が乱れる。
「どうしました」
ベルナールがすぐ前に出る。
令嬢は目を見開いた。
「視界が……」
言葉が途切れる。
次の瞬間。
彼女の体が崩れ落ちた。
石床に倒れる音が響く。
「きゃあっ!」
周囲の令嬢たちが悲鳴を上げる。
「また事件よ!」
「毒だ!」
「マルール嬢のまわりは危ない!」
空気が一瞬で騒然となった。
ベルナールはマルールを周りから隠すように守る。
「マルール様、下がってください」
彼の声は落ち着いていた。
だが周囲の視線は違う。
全てが、こちらを見ている。
「ディジュワールが……」
「また?」
「やはり……」
その時だった。
「静まれ」
低い声が回廊に響いた。
人々が振り向く。
皇太子、クリストフ・ポルディネだった。
彼は倒れた令嬢を一瞥し、言った。
「医師を呼べ」
騎士が走る。
クリストフの視線が、私に向く。
蒼い瞳。
冷たいほど澄んだ視線。
そして彼は言った。
「ディジュワール嬢は犯人ではない」
回廊がざわめいた。
「殿下……?」
クリストフは続ける。
「彼女は今ここにいた」
つまり。
アリバイ。
疑いが一瞬揺らぐ。
その時、別の声がした。
「興味深い」
黒い外套の男が近づいてくる。
琥珀色の瞳。
敵国の王、アルベルトだった。
彼は倒れた令嬢を見て言う。
「昨日と同じ症状だな」
そこへもう一人が現れる。
宮廷学者、ジョルジュ・ルモワール。
彼は令嬢の手首を軽く確認し、言った。
「……ええ」
「ほぼ同じです」
周囲がざわめく。
ジョルジュは続ける。
「意識混濁」
「記憶障害」
「そして視界の歪み」
彼は静かに結論を言った。
「幻惑の花です」
沈黙。
アルベルトが小さく笑う。
「つまり」
「温室だけの事件ではない」
その瞬間。
倒れた令嬢の手が動いた。
小さなものが床へ落ちる。
花弁だった。
銀色の花弁。
温室の花。
だが。
この令嬢は温室に行っていない。
回廊に重い沈黙が落ちた。
誰かが、花を持ち込んだ。
つまり、この事件はまだ終わっていない。
そして、クリストフの蒼い瞳は、静かに私を見ていた。
まるで、何かを確かめるように。
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