まだ壊れていない世界
目覚めてから、どれほど時間が経ったのか分からない。
窓の外では、朝の光が穏やかに庭園を照らしている。鳥のさえずりが聞こえ、噴水の水音が静かに響く。
あまりにも、平穏だった。
昨日、世界は崩れたはずなのに。
私はゆっくりと寝台から足を下ろす。冷たい床の感触に、喉の奥がひくりと震えた。
処刑台の石の冷たさが、まだ足裏に残っている。
夢ではない。
あの刃の重さも、歓声も、空の亀裂も、すべて覚えている。
鏡の前に立つ。
映っているのは、まだ幼さを残す自分の姿。処刑台に立っていた女より、数年は若い。
頬に触れる。傷はない。血の匂いもしない。
けれど胸の奥には、確かに“死んだ記憶”がある。
──私は、処刑された。
そして世界は、それを拒んだ。
扉が叩かれた。
「お嬢様。お目覚めでいらっしゃいますか?」
柔らかな声に胸が締め付けられる。
私の大切な従者、ノエル。
一周目で、最後まで私の味方でいてくれた人。
処刑場の群衆の奥で、静かに立っていた彼の姿が脳裏に蘇る。
どうか、そのままでいて。何も知らないままで。
「……入ってちょうだい」
声が震えないように、息を整える。
扉が開く。
柔らかい金茶の髪、翡翠の瞳。穏やかな微笑み。
変わらない。まだ、何も失っていない顔だ。
「お加減はいかがですか? 昨夜は眠りが浅いご様子でした」
昨夜──昨夜など私には存在しない。
私は処刑台で死んだのだから。
「少し夢見が悪かっただけよ」
感情を殺す。悟られてはいけない。
ノエルは一瞬だけ私を見つめ、それから静かに微笑んだ。
「左様でございますか」
その声音に、ほんのわずかな違和感があった。
気のせいだろうか。いや、彼はいつも通りだ。
けれど──
私の胸の奥に、説明のつかないざわめきが残る。
未来は、完全には同じではない。そう直感していた。
「本日は皇宮から使者が参ります。皇太子殿下との面会日程についてとのことです」
その言葉に、心臓が強く打つ。
来る。
一周目と同じ流れなら、ここから歯車が狂い始める。
王太子妃候補としての教育。宮廷内の対立。そして、私に向けられる疑念。
「……分かったわ」
短く答える。私は未来を知っている。ならば、変えられるはずだ。
ノエルが部屋を出た後、私は机に向かう。
羊皮紙を広げ、ペンを握る。震えが止まらない。けれど、書く。
一周目で起きた出来事を、思い出せる限りすべて。
誰が何を言い、どこで疑念が生まれたか。
どの夜に、禁忌の文書が発見されたか。
どの瞬間、私は“怪物”になったのか。
紙の上に未来が並ぶ。それは、処刑までの道筋だった。
不意に、寒気が走る。
窓の外。
庭園の奥に、人影が立っていた。
月白の髪。淡い瞳。
距離があるはずなのに、はっきりと視線が絡んだ。
背筋が凍る。
あの目。
処刑台の群衆の奥で見た目と同じ。
時間の外側に立つ者の視線。
瞬きをした瞬間、姿は消えていた。
息が荒くなる。
偶然ではない。
あれは──
「……やはり、そうなのね」
逆行は、奇跡ではない。
誰かの意思が働いている。
そして世界は、まだ壊れていない。壊れていないからこそ、危うい。
私はゆっくりと目を閉じる。
一周目では、すべてを受け入れた。運命だからと、諦めた。
でも今は違う。
私は死にたくない。
誰にも、もう石を投げさせない。
世界も、壊させない。
机の上の未来の記録を握り潰す。インクが滲み、文字が歪む。
未来は決定ではない。まだ、選び直せる。
窓の外から、鐘の音が響く。
新しい一日が始まる。
まだ誰も、私が一度死んだことを知らない。
そして私は、知っている。処刑の未来は、確かに存在している。
けれど──
今回は、同じ結末にはしない。
そう誓った瞬間、胸の奥で何かが静かに軋んだ。
まるで世界が、私の決意を測るように。
──まだ、壊れていない。
だが、壊れない保証もない。




