魅惑の温室
王宮の温室庭園は、外の庭園とはまるで別世界のようだった。
分厚い硝子に覆われた空間には、夏の柔らかな光が降り注ぎ、外では見られない南方の花々が静かに咲き誇っている。甘く濃い香りが空気に満ち、葉の擦れる音さえどこか柔らかい。
「今日は風が強いですから、こちらの方が過ごしやすいですね」
隣を歩くノエルがそう言って、静かに硝子扉を閉めた。
「ええ。ここは落ち着くわ」
王宮の中でも、この温室は特別な場所だった。
社交の喧騒から離れ、誰にも邪魔されずに花を眺められる。
だからこそ、私は時折ここへ足を運ぶ。
「この花は、南方から取り寄せたものだそうですよ」
ノエルが指差した先には、淡く銀色に輝く花弁を持つ花が咲いていた。
花弁は薄く、光を受けると透けるように揺れる。
「……珍しい色ね」
「ええ。宮廷学者のルモワール先生が管理されている花だとか」
私は少し身を屈め、その花を眺めた。
どこか不思議な光沢を帯びている。
そのときだった。
「──きゃあっ!」
鋭い悲鳴が温室の奥から響いた。
私とノエルは同時に顔を上げた。
「お嬢様、下がってください」
ノエルの声はすでに警戒を帯びている。
だが悲鳴は続いた。
「誰か! 誰か来てください!」
私たちは急いで声の方へ向かった。
温室の奥、小さな休憩用のベンチが置かれている場所に、人だかりができていた。
王宮の侍女が青ざめた顔でこちらを見た。
「ディジュワール様……!」
そして、私はその光景を目にする。
ベンチの横、白いドレスの令嬢が床に倒れていた。
長い赤髪が床に広がり、顔は青白い。
「……意識がないの?」
私の問いに、侍女は震える声で答えた。
「突然……突然倒れたのです……!」
私は令嬢の顔を見た瞬間、胸の奥で小さく息を呑んだ。
この令嬢を、私は知っている。
最近、王宮でよく噂になっていた人物。
皇太子の婚約候補の一人。
その場の空気が、一瞬で凍りついた。
ざわめきが広がる。
「どうしてこんな場所で……」
「毒かしら……?」
囁きが増える。
そして、誰かが言った。
「最後にお話されていたのは……」
視線が、ゆっくりと私へ向いた。
侍女が怯えたように言う。
「ディジュワール様です……」
温室の空気が重くなる。
私の背後で、ノエルが一歩前へ出た。
「それは違います」
声は低く、はっきりしていた。
「マルール様はつい先ほどここへ来られたばかりです」
だが疑いの空気は消えない。
そのとき。
「……ほう」
低く、ゆったりした声が背後から聞こえた。
私は振り返る。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
黒に近い濃紺の外套を纏い、長身の体をゆるく壁に預けている。
鋭い琥珀色の瞳。
その顔を見て、周囲が息を呑んだ。
敵国の王。
アルベルト・ラナグローク。
彼は腕を組みながら、床に倒れた令嬢を見下ろしていた。
「これはまた、面白い場面だな」
周囲の空気がさらに凍る。
敵国の王が、この場を目撃している。
外交問題になりかねない。
アルベルトの視線がゆっくりと私に向いた。
「君が最後に話していたらしいな」
問いかけというより、興味に近い声音だった。
私は静かに答える。
「少し言葉を交わしただけです」
「そうか」
アルベルトは微かに笑った。
そのとき、温室の扉が勢いよく開いた。
騎士たちが入ってくる。
その中央に立っていたのは、皇太子。
クリストフ・ポルディネ。
彼は状況を一瞬で把握した。
倒れた令嬢。
集まる貴族。
そして──私。
「……どういう状況だ」
低く落ち着いた声。
侍女が慌てて説明する。
「突然倒れられて……ディジュワール様が近くに……」
クリストフの視線が私へ向いた。
私はただ静かに立っている。
弁解もしない。
涙も見せない。
ただ、倒れた令嬢を見ていた。
そして、小さく呟く。
「……この花は」
言葉が途中で止まる。
クリストフの眉がわずかに動いた。
だが私はそれ以上何も言わなかった。
沈黙。
そのとき、アルベルトが軽く肩をすくめる。
「妙だな」
全員が彼を見る。
「この娘が犯人とは思えん」
ざわめきが広がる。
敵国の王が、私を庇った。
クリストフは黙ってその様子を見ている。
やがて騎士団長が前に出た。
「ディジュワール嬢」
低い声。
「事情をお聞きしたい」
視線が集まる。
完全に、容疑者を見る目だった。
私は静かに頷く。
「構いません」
温室の中で、誰かが小さく息を呑んだ。
その様子を、クリストフは黙って見ていた。
この状況で取り乱さない令嬢。
そして、何かに気づきながら黙っている。
理解できない。
だからこそ、視線が離れなかった。




