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均衡は一点から揺らぐ




 初夏の夜気は柔らかく、王宮の大広間へ続く回廊には無数の燭台の光が揺れ、磨き上げられた大理石の床に黄金の反射が幾重にも重なっていた。


 本日の晩餐会は、隣国ラナグローク王国の国王、アルベルトの一時帰国を前に開かれた正式な送別の宴である。


 ──とはいっても、これは表向きは帰国とされているが、条約を結ぶことができていない今、帰国時期は未定となっていた。


 外交儀礼としては穏やかな節目に過ぎないはずであったが、王宮内の空気はそれ以上の意味を帯び、貴族たちは衣擦れの音さえ慎重に抑えながら互いの視線を探り合っている。


 ここ数か月、この王宮では説明のつかぬ変化が静かに積み重なっていた。


 対立するはずだった家門の争いが起こらず、破談になるはずの縁談が自然に消え、衝突が避けられるはずのなかった場面で言葉が飲み込まれる。


 小さな逸脱。


 だが重なれば、流れは変わる。 


 広間の高窓から差し込む月光が床に長い影を落とす頃、皇太子 クリストフが入場すると、場のざわめきは波が引くように静まり返り、彼の纏う冷静な威厳が空気を整えるかのように広がった。


 その後に続いて現れたアルベルトは、夜のように深い外套を翻しながら悠然と歩み、金髪に灯りを受けて琥珀の瞳をわずかに細め、周囲を観察するその姿には、王としての威厳と狩人の静かな鋭さが同居している。


「短き滞在ではあったが、実りある時を過ごせたことに感謝する」


 低く落ち着いた声音が広間に響く。


 形式的な挨拶。


 だが、その言葉の余韻は不思議な重みを帯びていた。 


 乾杯の後、楽の音が流れ、貴族たちは慎ましく会話を交わし始める。


 その囁きは、いつしか一つの名へと収束していく。


「最近、殿下のご様子が変わられたと思いませんこと?」


「ええ……以前よりも柔らかく」


「ディジュワール嬢に対して、特に」


 声は自然に落ちる。


 かつて嘲りと共に囁かれた“悪役令嬢”という呼び名は、今や別の響きを帯びていた。


「近くにいると運命が変わる、と聞きましたわ」


「縁談が消えた家があるとか」


「不吉というより……」


「触れてはならぬ存在のような」


 恐れと畏れが混じり合う。


 その時、皇太子の視線が静かに動いた。


「ディジュワール嬢」


 広間の空気がわずかに止まる。


 名を呼ばれ、私は一礼する。


「本日の宴は長丁場になる、無理はするな」


 それは公的な配慮の範囲を越えぬ言葉でありながら、確かに個人的な温度を帯びていた。


 周囲の視線が揺れる。


 彼はそれ以上何も言わず、自然な動作で隣席へと着く。


 それだけで十分だった。


 皇太子の態度は、王宮の空気そのものを決定する。


 その光景を、少し離れた位置から観察する男がいた。


 宮廷学者 ジョルジュ・ルモワール は、紫の瞳を細め、会話の流れ、視線の移動、空気の緊張度を静かに読み取っている。


 選択が変わる。


 視線が変わる。


 噂が変わる。


 外交の空気さえ微妙に変化する。


「均衡は一点を中心に揺らぐ」


 誰にも聞こえぬ声で呟く。


 そして彼は、その中心をすでに見定めていた。


 宴の終盤、アルベルトは広間のバルコニーへと歩み出る。


 夜風が外套を揺らす。


 彼の隣に並んだクリストフへ、低く言葉を落とした。


「この王宮の空気は、来た時とは違うな」


「何を意味する」


「中心が揺らげば、世界は形を変える」


 皇太子は答えない。


 ただ静かに夜の庭園を見下ろしている。


「我が国でも、似た現象を見たことがある」


 アルベルトの唇に、わずかな笑みが浮かぶ。


「興味深い変数だ」


 その時、夜風がふと止んだ。


 柱の影が揺れる。


 月白の残像が、ほんの一瞬、空間の綻びのように揺らいだ。


 誰も気づかない。


 ただ世界だけが、静かに測っている。


 均衡はまだ崩れてはいない。


 だが確実に揺れている。


 そしてその中心に立つ少女は、まだ知らない。


 世界が、自分を軸に回り始めていることを。


 夜の静寂の中で、運命の歯車は音もなく角度を変え続けていた。












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