仮面の奥で揺れるもの
初夏の夜風は静かだった。
貴族院での糾弾が終わった後、王宮は不気味なほど穏やかだった。
だが、その静けさは嵐の前触れのようでもあった。
回廊の奥、人気のない中庭へ続く扉を開く。
夜の庭園は白い月光に満たされ、昼間の喧騒が嘘のように遠い。
噴水の水音だけが響いている。
「……ここにいらしたのですね」
背後から声がした。
振り返らなくても分かる。
「殿下」
白銀の髪が月光を受けて淡く光る。
蒼い瞳は、昼間よりもずっと近く、そして逃げ場のない距離にあった。
「なぜ、一人でここへ来た」
「静かに考えたかったのです」
「今日のことを?」
「はい」
沈黙が落ちる。
噴水の水音が、やけに大きく響く。
「……なぜ弁明しない」
低い声。
「誤解されたままで良いのか」
「誤解ではありません」
クリストフの眉がわずかに動く。
「私は確かに秩序を乱しました」
「乱してなどいない」
声が強くなる。
抑えきれない苛立ちが滲む。
「殿下」
「なぜ受け入れる」
彼の声は低く、鋭い。
「なぜ一人で背負おうとする」
胸が締め付けられる。
だが目を逸らさない。
「必要だからです」
「必要?」
彼の声が震える。
「君が孤立することがか?」
「私が悪者であれば、均衡は保たれます」
その言葉が落ちた瞬間、
空気が凍りついた。
「均衡だと……?」
彼の瞳が揺れる。
初めて見る揺らぎ。
「君は」
低い声が夜気に溶ける。
「自分がどれほど傷ついているか、分かっているのか」
息が詰まる。
「殿下こそ」
声がわずかに震える。
「なぜ、あの場で私を庇われたのです」
沈黙。
逃げ場のない沈黙。
「……放っておけなかった」
その声は低く、押し殺されていた。
「秩序など関係ない」
心臓が大きく鳴る。
「君が」
彼の言葉が途切れる。
まるで自制しているかのように。
だが次の瞬間──
「君が傷つくのを、これ以上見ていられない」
夜の空気が止まった。
噴水の水音さえ遠くなる。
それは皇太子の言葉ではなかった。
一人の男の声だった。
「……殿下、それは」
言葉が続かない。
言ってしまえば、すべてが変わる。
均衡が崩れる。
運命が動く。
「分かっている」
彼は目を閉じる。
「言うべきではないことも」
そして再び目を開く。
蒼い瞳は、もう揺れていなかった。
「それでも」
静かな声。
「私は、君を守る」
胸の奥が、強く軋む。
嬉しさではない。
救われたわけでもない。
もっと重い何か。
「……守られてはいけません」
やっと絞り出した声。
「私は器です」
「違う」
即座に否定される。
「君は人だ」
息が止まる。
世界が静まり返る。
夜風さえ息を潜めている。
その時、遠くで足音が響いた。
誰かが回廊を通り過ぎる気配。
現実が戻ってくる。
クリストフは一歩下がった。
皇太子としての距離。
仮面が戻る。
「……今夜のことは忘れろ」
低い声。
「殿下」
「命令ではない」
彼は背を向ける。
「願いだ」
白銀の背が夜の闇へ溶けていく。
マルールはその場に立ち尽くした。
胸の奥で何かが静かに崩れている。
均衡が揺らいでいる。
守られてはいけない。
近づいてはいけない。
それでも──
彼の言葉が離れない。
『君は人だ』
噴水の水音が、再び静かに響き始めた。
初夏の夜は、何事もなかったかのように更けていく。
だが確かに。
何かが変わり始めていた。




