春風の裏側
春の風が回廊を抜け、柔らかな花の香りを運んでいた。
王宮の庭園では白い花々が咲き始め、季節が確かに変わったことを告げている。
だが、その穏やかさとは裏腹に、宮廷の空気には目に見えぬ棘が潜んでいた。
マルール・ディジュワールは、講義室の机の上に置かれた封筒を見つめていた。
白い封。
差出人はない。
胸の奥が、静かに波打つ。
ゆっくりと封を切る。
中に入っていたのは、たった一枚の紙だった。
『春は、散るものです』
短い一文。
意味はあまりにも明白だった。
指先が冷える。
だが震えはない。
代わりに、静かな理解が胸に落ちていた。
(次は、偶然では済まない)
窓の外では若葉が揺れている。
こんなにも穏やかな季節に、悪意は芽吹くのだ。
その日の午後。
中庭へ続く回廊を歩いていたマルールは、ふと視界が歪むのを感じた。
甘い香り。
花壇の近くに、不自然な白い粉が散っている。
それが春風に舞い上がった瞬間、呼吸が浅くなった。
足元が揺らぐ。
その刹那──
背後から外套が被せられた。
「お下がりください、マルール様」
低く落ち着いた声。
ベルナールだった。
彼は素早く彼女の口元を布で覆い、周囲を鋭く見渡す。
「吸い込まれませぬよう、浅く呼吸なさってください」
丁寧ながら緊迫した声音。
「……ありがとうございます」
「当然の務めにございます」
ベルナールは地面に散った粉末を慎重に確認した。
「致死性ではございません。ですが継続すれば衰弱を招く類かと」
春風が花びらを舞わせる。
その中に紛れる毒。
あまりにも悪質だった。
遠くで足音が止まる気配がした。
──誰かが、見ている。
マルールが危機に瀕していた同時刻、回廊ではクリストフがアルベルトとすれ違っていた。
春の光を背に、アルベルトは穏やかに微笑む。
「また騒がしいようですね」
「和平交渉の最中に宮廷が乱れるのは、双方にとって不利益です」
彼の滞在はすでに三か月。
国境紛争終結後の恒久条約締結。
交易再建。
軍縮監視体制の整備。
名目はいくつもある。
だが実際は、互いの王が相手国に滞在することで均衡を保つ“人質外交”に近い。
和平が崩れれば即座に戦争。
だから帰れない。
「殿下」
アルベルトはクリストフを見つめる。
「内側から崩れれば、平和は砂の城です」
意味深な一言。
「忠告か」
「ええ。敵国の王としての」
微笑みは崩れない。
だがその瞳は、何かを見透かしているようだった。
そしてクリストフが入室した王宮の会議室には重い空気が満ちていた。
緊張が高まる中、クリストフは静かに口を開いた。
「彼女への不当な糾弾は許さない」
重鎮の視線が一斉に集まる。
それは明確な立場表明だった。
一線を越えた言葉。
「……彼女への攻撃は三度目だ」
ベルナールから報告を受けていた。
窓の外では、花が咲き誇る庭園が広がっている。
そのどこかで、彼女は狙われている。
「護衛を増やす」
「公には?」
「不要だ」
短い沈黙。
「私の名において動かせ」
それは政治的に危うい決断だった。
王族は中立であるべき存在。
だが──
(守らねばならない)
マルールは一人、窓辺に立っていた。
(怖い……)
初めて、はっきりとそう思った。
処刑の記憶とは違う。
ゆっくりと削られていく孤立。
春の光の中で、自分だけが影に取り残されているような感覚。
背後で足音が止まった。
「警護を強化いたしました」
ベルナールだった。
「殿下のご命令にございます」
胸の奥が、わずかに温かくなる。
「……そうですか」
「どうかご安心を。必ずお守り申し上げます」
その声は静かで、揺るがない。
その夜。王宮の廊下を歩いていたマルールはついに、その言葉を真正面から聞くことになる。
「聖堂でも夜会でも……あの方が関わると何かが起きる」
「──悪役令嬢!!」
「彼女は呪われているのよ」
言葉は面白がられ、誇張され、拡散していく。
春の花粉のように。止めることはできない。
はっきりと耳に届いた呼び名。
胸が軋む。
逃げたい。
だが逃げれば、その物語は固定される。
マルールはゆっくり振り返り、噂をしていた婦人たちをまっすぐ見つめる。
「ご不満がおありなら、直接お聞かせくださいませ」
静かな声。
春の夜気の中、空気が張り詰める。
誰も何も言えない。
その姿を遠くから見つめる影。
アルベルト。
そして、別の回廊から見守るクリストフ。
均衡は、まだ保たれている。
だが春は芽吹きの季節。
同時に──
嵐の前触れでもあった。




