沈黙の距離、差し出された手
王宮は、妙に静まり返っていた。
廊下を行き交う足音は控えめで、交わされる言葉は小さく、そして短い。
だが沈黙の奥にあるものを、マルール・ディジュワールは理解していた。
──疑念。
視線が触れた瞬間、相手は微かに目を逸らす。
挨拶は返ってくる。
礼節も保たれている。
それでもそこには、目に見えない一歩の距離があった。
(社交界は、あの夜の出来事を忘れない)
毒見騒動は表向き「事故」と処理された。
だが人々の記憶から消えることはない。
噂は形を変えながら広がっていく。
不吉。
異端。
近づいてはならない存在。
胸の奥が静かに重くなる。
それでも足は止めない。
回廊を曲がったその先で、マルールは足を止めた。
窓辺に立つ人物。
朝の光を背に受け、蒼い瞳が静かに揺れている。
クリストフだった。
彼は振り返らない。
だが、気配で気づいている。
沈黙が流れる。
以前なら、彼の方から声をかけていただろう。
穏やかな声音で。
何事もないように。
だが今日は違う。
彼の背中には、ためらいがあった。
「……殿下」
マルールが静かに呼ぶ。
わずかな間のあと、クリストフは振り向いた。
「体調は」
短い言葉。
形式的な問い。
「問題ございません」
「そうか」
それだけだった。
沈黙が戻る。
言葉にできないものが、二人の間に横たわっている。
彼は疑っているのだろうか。
それとも──守るために距離を置いているのか。
答えは分からない。
蒼い瞳が揺れる。
何か言おうとして、飲み込むように。
「あの夜の件は、調査中だ」
「はい」
「軽率な憶測に惑わされる必要はない」
それは慰めではなく、命令に近い響きだった。
だが彼の声の奥に、迷いが混じっている。
マルールは気づく。
彼は板挟みにされている。
王族としての立場。
社交界の視線。
そして──個人としての感情。
そのすべてが、彼を沈黙させている。
「殿下」
呼び止める。
彼が視線を向ける。
「私は、何もしておりません」
静かな言葉。
訴えではない。
事実の提示。
クリストフの瞳が揺れた。
わずかに。
ほんの一瞬。
だが確かに。
彼は何かを言いかけ──
足音が近づいてきた。
「ここにおられましたか」
軽やかな声。
振り向くと、アルベルトが歩み寄ってくる。
柔らかな笑みを浮かべ、どこか楽しげな目をしていた。
「あの夜は実に騒がしい夜会でしたね」
空気が変わる。
彼はマルールへ視線を向ける。
「ご無事で何よりです、ディジュワール嬢」
その言葉は自然だった。
だが。
周囲に控える侍従たちの空気が、わずかに張り詰める。
アルベルトは続ける。
「毒物混入などという愚かな企て、王宮の威信に関わります」
そして、わざとらしいほど穏やかな声で言った。
「まさか、彼女が関与しているなどと考える者はおりませんよ」
沈黙。
それは擁護だった。
しかし同時に──
その話題を“ここで口にする”ことで、疑念の存在を明確にする行為でもあった。
クリストフの表情が硬くなる。
「アルベルト……」
「殿下、誤解は早期に払拭すべきです」
彼の笑みは崩れない。
だがその瞳は冷静に周囲を観察している。
味方なのか。
それとも別の意図があるのか。
マルールには判断できない。
「私は彼女の冷静な対応を高く評価しております」
さらりと言う。
「感情的に取り乱していれば、事態はさらに混乱していたでしょう」
それは事実だった。
だが同時に、彼は彼女の行動を公の評価の場へ引き上げている。
称賛は、盾にも矢にもなる。
「殿下も同意見でしょう?」
静かな問い。
逃げ場のない問い。
クリストフの瞳が揺れる。
一瞬の沈黙。
そして。
「ああ」
短い肯定。
それだけだった。
だがその一言が、周囲の空気を確かに変えた。
アルベルトは満足げに微笑む。
「安心いたしました」
彼は軽く一礼し、去っていく。
足音が遠ざかる。
残された沈黙。
クリストフは視線を逸らし、低く言った。
「……気をつけろ」
「はい」
「王宮は、思っている以上に脆い」
それは警告だった。
そして──心配でもあった。
彼はそれ以上何も言わず、踵を返す。
遠ざかる背中。
以前よりも遠く感じる。
だが。
完全に失われたわけではない。
マルールは静かに息を吐いた。
孤立は深まっている。
疑念は消えていない。
それでも。
完全な闇ではない。
差し出された手。
揺らぐ距離。
見えない思惑。
この宮廷で生き残るためには──
すべてを見極めなければならない。
窓の外では、冬の光が静かに庭園を照らしていた。
その光の中で。
新たな駆け引きが、確かに始まっていた。




