いわくつきの少女
夜会の広間は、眩い光に満ちていた。
無数の燭台が揺れ、磨き上げられた床が煌めく。社交季の最盛期とあって、王都中の貴族が集っている。
マルール・ディジュワールは淡い青のドレスに身を包み、壁際に静かに立っていた。
──視線を感じる。
以前よりも、はっきりと。
(……噂は、広がっている)
聖堂での異変以来、彼女を見る目は確実に変わってしまった。
露骨な敵意ではない。だが、ひそやかな囁きがあちこちから聞こえた。
「ほら、あの方よ」
「聖火を揺らした……」
「不吉だわ」
聞こえないふりには慣れている。
それでも胸の奥が、静かに軋んだ。
「お飲み物を」
給仕が銀の盆を差し出す。
マルールは一つグラスを取った。
琥珀色の液体が、ゆらりと揺れる。
──その瞬間。
「きゃあっ!」
悲鳴が広間を裂いた。
中央で若い令嬢が崩れ落ちる。令嬢の持っていたグラスが床に落ち、砕けた。
楽団の音が止まり、ざわめきが広がる。
「息が荒い!」
「医師を!」
令嬢の顔は青白く、手が痙攣していた。
空気が凍る。
「……毒では?」
その囁きは、瞬時に広間を巡った。
そして──
疑いの視線が、マルールへと集まった。
「その方、最後に話していたのは……」
「同じ盆から杯を……」
給仕が青ざめ震えだす。
マルールはグラスを握った。いつもとは違う、異様な重さを感じる。
(落ち着かないと……。落ち着いて、そう深呼吸をするのよ)
倒れた令嬢。
床の破片。
給仕の動揺。
そして、不自然なほど素早い疑い。
──偶然ではない。
誰かが流れを作っている。
「毒味を」
低い声。
ベルナールが現れ、静かにグラスを受け取る。
「証拠を消すおつもり!?」
貴婦人が声を荒げる。
「証拠保全のためでございます」
彼は香りを確かめ、わずかに液体を揺らした。
「……異臭がございます」
酒の甘さに混じる、微かな苦味。
「給仕の盆は中央の柱付近で止まりましたね」
「は、はい……」
「その際、誰かが触れた可能性があります」
沈黙が落ちる。
マルールは静かに言った。
「私が毒を盛る理由がございますか」
空気が張り詰める。
「こんな目立つ場でそのような愚行を犯すほど、愚かではありません」
冷静さは武器だ。
だが──、それがこの場では仇となった。
「……怖いわ」
「平然としている」
恐怖は理屈を拒む。ひそひそと彼女を貶めようとする言葉が駆け巡った。
医師が駆け込む。
「軽度の中毒症状。命に別状はありません」
安堵が広がる。
だが疑念は消えない。
「聖堂の次は毒……」
「きっと公爵令嬢と話したから、呪われたのよ」
その言葉が、形を持ち始める。
──悪役令嬢。
否定すればするほど、周囲との距離は確実に広がっていた。
孤立。
静かな断絶。
「罠でございます」
ベルナールが小さく言う。
「ええ」
広間の奥、柱の影で誰かが笑った気がした。
そして消える。
(……始まった。また、この苦痛に耐えなければいけないのね)
神ではない。
人の悪意。
この夜を境に、マルールを取り巻く、社交界の空気は変わった。
その日以降、噂は王都を巡った。
「祈祷の最中、聖火が揺れた」
「彼女が立つと空気が凍る」
「彼女の周りの花が触れずに枯れた」
「マルール・ディジュワール公爵令嬢は呪われている!!」
誰が言い出したのかは分からない。
だが噂は、事実より速く、美しく形を変える。
ある夜、王宮会議が開かれた。
「ディジュワール公爵令嬢周辺で異常現象が継続」
「国家安全保障上、監視対象とすべきかと」
重い沈黙。
皇太子は静かに告げた。
「監視は許可する」
そして、
「だが、彼女を遠ざけることは許さない」
矛盾した命令。
だが誰も異議を唱えなかった。
噂はもはや社交界の遊戯ではない。
神殿が動き、
国家が警戒し、
世界が注視する。
ただ一人の少女を中心に。
近づく者は減っていく。
それでも離れようとしない男たちがいる。
ただ一つ確かなのは──
彼女に触れるな、という噂だけが、
王都全体を覆い始めていたということだった。
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