幼馴染のピアスとタトゥー
瀬座倫子は向かいの家に住む幼馴染だった。
彼女の存在を俺が認識したのは小学校の低学年のときだったと思う。親同士の近所付き合いのついでに、俺たちは引き合わされたのだ。
瀬座は俺の一つ上の学年だった。小学校低学年における一学年の差というのは、それはそれは大きいものだ。瀬座はいつも年上ぶって俺を子ども扱いした。最初はそれがくすぐったく、そして段々と鬱陶しくなっていた。瀬座の、俺に対する子ども扱いは、中学に上がるころにやっと収まった。
中学の俺は、幼馴染とはいえ、女子と仲良くすることに気恥ずかしさを感じていた。だから、俺と瀬座は学校ですれ違っても互いに無視し合うのが暗黙の了解だった。
俺と瀬座が会うのは学校が終わってからだった。ほとんどの場合、彼女の方が俺の部屋に来た。ただし、瀬座の目的は俺ではなく、俺がなけなしの小遣いで買い揃えていた漫画雑誌だった。
瀬座はバレーボール部で、最初はそれなりに熱心に練習していたようだったが、二年生になった頃からサボりが目立つようになっていた。
「これの続きって持ってないのー?」
クッションにうつ伏せで漫画雑誌を読み、読み終わると雑誌を持ち上げてそう尋ねるのを何度聞いたか。
「来週、続きが出るよ」
俺の答えは分かってるくせに、続きを買わせるためにいつもそう言うのだ。
瀬座は高校に進学するタイミングで実家を出て、遠方で一人暮らしを始めた。大学に進学しても実家には戻らず一人暮らしを続けていた。
一方の俺は、中学のときに瀬座と別れてから、高校も大学も地元の学校を選んで、ずっと実家で暮らしていた。
中学三年から大学の二年まで、瀬座とは一度も会わなかった。
その瀬座が、次の年末年始の休みに、久しぶりに長期帰省するという。年の暮れ、夕飯の席で唐突に母親がそう言ったのだ。
「うちにも新年のあいさつに来させるって言ったよ」
続けて母が暢気に言った。俺は気のない返事を返しつつも、幼馴染との再会に胸が躍っていた。
1月2日の午後に瀬座がうちに来た。
母親が先に玄関で瀬座を出迎えた。俺はその後ろから、気のない素振りで挨拶した。
瀬座は母親と一緒に来た。一緒というか、母親に連れて来られた、という感じだった。
「あけましておめでとうございます」
瀬座は、母親に続いてそう言った。心から新年を祝っているようには聞こえない、儀礼に対して不服のある人間の声だった。
俺は瀬座の服装を見て驚いた。上はオーバーサイズの黒いシャツ、下もオーバーサイズの黒いズボン、靴は厚底の黒いスニーカーだった。黒シャツにはドクロをモチーフにしたプリントがあって、正月のめでたさとは一切のかすりもない。
何よりも肩まで伸ばした髪に紫色のメッシュが入っていたことと、爪にも紫のネイルアートが施されていたことが衝撃だった。
俺の記憶の瀬座は黒のショートヘアで、服は動きやすいものを好んでいた。ネイルや化粧といった装飾には興味を示さなかった。爪はいつも切りそろえていて、ましてや赤黒い口紅なんて絶対につけなかったし、耳にピアスをつけるのもあり得ない。
「黒川くん~。久しぶりじゃん。ぜんぜん変わってないね」
瀬座が俺を見て笑った。俺は、愛想笑いを返す。
俺の母親が瀬座母娘を居間に案内した。母親二人はシームレスに雑談に移行して、近所のゴシップ話で盛り上がっていた。
一方の瀬座はイライラして落ち着きがないように見えた。卓上のミカンを剥くのにも飽きたらしく、壁の時計と自分の母親の間で何度も視線を往復させていた。
俺は、瀬座のことを盗み見ていて、退屈と思うことはなかったが。
瀬座が突然、俺の横にスッと近づいてきた。
「ねえ、黒川くんの部屋行こうよ」
と言ってきた。俺はドキっとした。もちろん瀬座には、居間以外の場所に移動したいという、それ以上の意味があるわけではなかったのだが。
「あんたたち相変わらず仲良いねえ~」
と、母親がしみじみと言うのに苛立った。
「あー。ここよく来たなあ」
と、瀬座は俺の部屋を見回して感想を言った。
瀬座は遠慮の欠片もなく俺のベッドに腰かけた。俺は仕方なくクッションの上に座った。中学のときとは逆の位置だ。
「大学、どうなん?」
と、俺は平静を装って質問した。瀬座は「楽しいよ」と答えて、
「授業はあんま面白くないけど。友達とバンドのおっかけやってんの。……こないだ彼氏と別れてから、おっかけはちょっと休憩中だけど」
彼氏いたんだ、という言葉を飲み込んだ。
「黒川くんは?」
「うん、まあ普通。大学は漫画研究会に入った」
「描いてるの?」
「読む専」
「黒川くん変わってないねー」
瀬座のことをいつもどう呼んでいたか忘れた。
「そっちは……けっこう変わったな」
「これ、良くない?」
瀬座は舌を出した。その舌の先に銀色の粒のようなものがあった。俺は少し時間をかけて、それがピアスであることを認識した。
「それ……自分で開けたの?」
我ながら間抜けな質問をした。
瀬座は舌を引っ込めた。当然だ、舌を出したままでは質問に答えることができない。
「彼氏に開けてもらった。あ、元・彼氏か」
「バンドマン?」
「そ。ギターの人。だんだん束縛が酷くなって別れた。わたしがLINE返さなかったら向こうが勝手に病んだんだけど」
ふうん、と興味のない感じを装って返事をした。
しかし瀬座には見透かされていた。
「なーに、彼氏の話、気になるの?」
と、笑いながら言った。
俺は気の利いた反論もできずに「まあ、普通」などと、答えになってないことを言った。
「ピアス、嫌い?」
しおらしいポーズをして言った。俺が答える前に瀬座はケタケタと笑った。
「なんかめっちゃキョドってるのウケる」
「戸惑ってるだけだから」
そう答えた。しかしそれは同じ意味の言葉だ……。
ふーん、と瀬座は俺を見てしばらく黙ってから、
「もっと近くで見なよ」
そう言うと俺の腕を引っ張り、ベッドの自分の横に座らせた。
瀬座と二人並んでベッドに座るのは、たぶんこれが初めてだ。
瀬座との物理的な距離は、かつてないほど短くなった。彼女からは香水と煙草の匂いがした。居間で落ち着きがなかったのは、煙草が吸いたかったのかもしれない。
「んぇ」
もう一度俺に舌を見せた。
ピンク色の舌が、口紅の鮮やかな唇から伸びている。舌とピアスは、唾液で艶めかしく濡れている。
舌が引っ込んだ。
「舌ピ増やそうか悩んでるんだけど、彼氏いないし自分で開けるのしんどそうなんだよね」
「別れたんだったら増やす必要ないじゃん」
「別に彼氏のために開けたわけじゃないし」
気分を害したように言った。そういうものか。
「――次の穴は、黒川が開けたい?」
「……俺は、そういうの、やったことないし」
「そっか」
瀬座はあっさりと話題を終えた。
俺はベッドから立ち上がるタイミングを見計らっていた。
突然「そうだ」と瀬座が思いついて、いきなり黒いシャツの下をまくり上げた。
「ねえ、これ見て」
瀬座は自分の脇腹を指さした。
そこには、握り拳くらいの大きさの、紫色の羽を広げた蝶がいた。
刺青だった。
「普段は見えないところにあるの。えっちだと思わない?」
俺は、自分の心臓が跳ね回るのを、すでに制御できなくなっていた。
頭がくらくらした。
煙草の匂い。香水の匂い。
ベッドの沈み方が変わる。
瀬座が俺の方に体を寄せていた。
「なにドキドキしてんの?」
俺は答えられない。
息が苦しかった。
沈黙がうるさい。しかし瀬座の呼吸はこの距離でも聞こえなかった。
俺はこれ以上瀬座に視線を向けることができなくて、自分の太ももと床のカーペットを見た。
「触ってみる?」
――触っていいよ?と囁く。
そのとき、廊下の向こうから、「倫子ー! 帰るよー!」という声が聞こえた。
「はーい!」
瀬座はためらうことなく返事を返して立ち上がった。
ドアを開けて廊下に出ると、しばらく俺を待ってから、
「……行かないの?」
不思議そうに言って、瀬座は先に行ってしまった。
ベッドに座っているのは俺一人になった。
遠くで玄関が開く音と、俺の母親と瀬座の母親がかしましく別れの挨拶をする声が聞こえて、そしてそれも消えた。