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見返りを君に  作者: 雪川月花


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七章

 修学旅行二日目。俺達は法隆寺や奈良公園をバスで巡り、夕方京都へ移動した。

 京都での宿泊先は旅館だった。奈良のビジネスホテルとはうってかわっての和室の大部屋で、五クラスの男子約八十人が、だいたい十人ずつ部屋に振り分けられていた。

 俺の部屋は、有里と近江と御門と、他クラスの奴も交えて他六人。城井と洲鎌は隣の部屋だ。偶然なのか神川先生が配慮したのかは知らないが、比較的大人しそうな奴らが同じ部屋になっているような気がする。

 いち早く一番奥の隅の布団を陣取った有里の隣に俺も自分の場所を構え、とても平和な夜を過ごした。

 三日目は班ごとに行き先を決めて、京都の町を自由行動。俺達の班は南禅寺から哲学の道を通って銀閣寺へ。最後に北野天満宮にお参りして、充実した一日を過ごした。

 てっきり有里は二日目以降も俺にべったりかと思っていたのだけど、そうでも無くて。

 今日の自由行動中、昼食で入った店が混んでいて三人ずつに分かれることになったときには自然な流れで城井と洲鎌と一緒に座ったし、御朱印を貰いに行く御門に付き合って二人で別行動したこともあった。

 一日目の夜以降、俺と有里は二人きりになるタイミングが無くて、特に何か話したりはしていなかった。だが有里は始終楽しそうで、晴れやかな顔をしていて、俺に何か言いたげな素振りも無い。

 きっと気持ちを受け入れてもらえたことで、有里は満足したのかなと思う。あの寝掛けの「ありがとう」は、きっとそういうことだろう。

 有里のためにできることなんて、ほとんど何も無いけれど。彼のためになれたのなら嬉しい。

 明日は修学旅行最終日。大阪の遊園地と水族館に行って、修学旅行はおしまいだ。

 有里にとって――俺達にとっての一大イベント、大阪の水族館でジンベエザメを見るというミッションが残っているけれど、本当にもう、それだけ。家に帰るまでが修学旅行とは言うけれど、もうなんだか無事に終わったような気持ちだ。

 有里に怪我無く、病気も無く。トラブルのひとつも起こさずにここまで旅行を楽しませてあげられて、俺はホッとしている。

 夜は昨日と同じ宿の宴会場に集まって全員で食事をし、順に大浴場に行くよう先生から指示が出た。

 他のお客さんの迷惑にならないように、一部屋からは同時に二人まで。部屋を出てから四十分以内には戻って次のメンバーと交代するルール。昨夜と同じだ。

 部屋のメンバーが順に風呂に行って、俺は戻って来た近江と御門と交代で、最後に一人で部屋を出た。ちょうどタイミングが被ったようで、脱衣所で城井と洲鎌に会い、そのまま一緒に風呂に入った。

 有里は少し前に一人で出ていって、俺が部屋を出るときにはまだ帰っていなかった。有里は先生達が取っている部屋の内風呂を借りに行くのだと聞いていた。恐らく、四十分ルールなんて我関せず、一人でのんびりしてくるのだろう。

「良かったな」

 そんなことを考えていると、湯船に並んで座った城井が言った。

「え?」

「有里、楽しそうじゃん。あんな顔してるの初めて見たよ。てっきり、笑うことなんて無いんだと思ってた」

「そんな奴いないだろ」

「そうなんだけどさ」

 城井は少し気まずげに言い淀む。

「別に馬鹿にしてたつもりは無いんだけど、でもやっぱりちょっと、色眼鏡では見てたから。申し訳無かった気がして」

 城井の言葉に、俺は目を瞬かせる。隣に寄ってきた洲鎌も言った。

「正直、俺達とはなんか違う、別の世界の人間みたいな感覚あったよな。でも全然そんなこと無かったわ。まあなんか、事情はあるんだろうけど」

「絶対に仲良くなれないって端から決めて掛かってたけど、本当はもうちょっと早く仲良くなれてたんじゃないかなって、この三日で思ってさ。悪かったなって」

「……これからいくらでも、仲良くしてやって」

「うん」

 二人が頷いて、なんだか胸が熱くなった。二人が有里に理解を示してくれたのが嬉しかった。

 きっと、近江も御門もそうだ。他のクラスメイト達だって、何かきっかけさえあれば、有里は誰とでも仲良くなれる。

 ――淋しくなんかないよ、有里。

 修学旅行が終わってもきっと、有里は皆と上手くいくだろう。



 部屋の皆が順番に大浴場に向かう中、俺は――有里は、我関せず自分のタイミングで部屋を出た。

 先生達は内風呂のある部屋をいくつか取っていて、俺はその中の一つ、神川先生の部屋の風呂を使わせてもらえることになっていた。なにも俺のためだけでは無くて、他にも怪我や病気で大浴場を使えない、そういう事情がある奴が使うためにそうしているらしい。

「この部屋は結局有里だけだから、自由にしていいぞ」

 神川先生からそうお墨付きをもらって、俺は悠々と大きな湯船に浸かり、ふぅと息を吐いた。

 ――来て良かったな。

 泊まりの行事に参加したことが無い俺は、こんな風に旅行するのは始めてだ。

 新幹線や大型バスに乗ったり、画面の中でしか見たことの無い観光地や史跡を実際に見たり、ホテルに泊まったり。その全てが俺にとっては初めてで、新鮮だった。

 クラスメイト達と、授業以外でこんなにたくさん過ごすのも初めてだ。三日一緒に過ごして、流石に同じ班の四人にはもう少し心を許してもいいかもしれないという気がしてきている。

 ――もしかしたら、ねぇ。

 俺は本来こうやって、普通に友達を作って楽しく過ごせる人間だったのかもしれない。

 旅行中時折そんな風に思って、少しだけ、独りで過ごしてきた日々が勿体無かったような気がした。

 ――でも、実際問題難しかったよな。

 と、俺は自分を慰めてみる。

 これまでの人生で――といっても、最後が小学一年生のときだけれど。俺の体見た奴は絶対にギョッとし、気持ち悪がって、化け物扱いも散々された。呪いだと言う奴もいれば、移る病気だと吹聴する奴も。

 だから有里家の子になって、新しい学校に行くようになってからは、一度も学校で服を脱いでない。

 これからもそうやって生きていこうと頑なに思ってきた。そのルールは絶対に変えられない。そのはずだった。

 しかしあの時――保健室に寝かされて、服を脱ぐように言われたとき。もしかしたら饗庭になら見せても大丈夫なのではないかという気がした。

 人の弱みを知っても脅しても来ず、言い広めたりもせず、見返りを何も求めてこない彼。この人は他の人とは違うかもしれないと思った。

 それでも正直なところ、饗庭がどんな反応するのか、何を言うのか、とても怖くて緊張した。背中を向けたのは、饗庭のギョッとした顔を見る勇気がなかったからだ。肌着までも脱いだのは、ありのままを見せて、それでやっぱり駄目なのだと確認しようと思ったから。

 ――嬉しかったな。第一声で痛いのかなんて、聞かれると思ってなかったから。

 信頼できる人を見つけたかもしれないと胸が高鳴って、この人と仲良くなりたいと思った。しかし友人を作ったことが無い俺は同年代の彼との上手な関わり方を知らなくて、結構な態度を取ったものだと自分でも思うけど。

 他にいくらでも友達のいる饗庭が、よくここまで付き合ってくれたものだ。

 饗庭に出会って学校が楽しくなった。毎日の昼休みが楽しみで、生きることに彩りができた。

 元々は家と学校を行き来する生活で、そのどちらにも自分の居場所が無いような気がしていた。二年になってそれに店が加わったけれど、そこで自分を求められることに、却って気持ちが虚しくなった。

 家に帰れば妻と子どもが待っていることを公言しながら、お店のお姉さん――うちのお店の場合には厳密にはお兄さんなわけだけれども――といちゃついて帰るおじさんを見るにつけ、全く、愛というものが分からなくなる。

 ――元々、知らないし。

 俺は湯船の淵に腕を置いて頭を乗せた。

 賭け値の無い愛情というのも、よく分からない。いや、親の妹に対する態度を見ていると分かるような気はする。でも、それを向けられたときの気持ちは分からない。

 自分のことを好いてくれているといえば店の客なのだろうけど、その「好き」には俺のアリサちゃんの部分だけを見た下心しかないと知っている。

 お店の客は、俺が“仕事”として際どいことを言ってみたり、誘うような態度を取れば大抵喜ぶ。単にニヤニヤされるくらいのこともあれば、もっと上手の返しをされて引けなくなってしまったり。逆におどおどされるとなんだかそれが気持ち悪かったり、或いは本気にされてしまって、困ることになる場合も。

 饗庭をからかって無表情にバシッと切られるのは、俺にとってはとても新鮮で、心地が良かった。安心感がある、とも言い換えられるかもしれない。

 饗庭のくれる下心の無い善意の、なんと爽やかで心地良いことだろう。

 ――優しいな。優しくされるのは心地よい。

 彼が心配してくれる度、こちらを見てくれる度、自分の中の何かが満たされる。

 ――ああ、好きだなぁ……

 俺は体をくるりと回し、湯船に身を預けて体を伸ばした。

 一昨日の夜はちょっと、雰囲気に呑まれて大分迫ってしまったけど。実際のところ、二人の関係に大きな変化を望んでいるわけじゃないんだ。

 絶対に手放したくなくて、焦りがあって、既成事実を作って彼のことを絡め取ってしまおうかと思ったのだけど。そんなことは必要ないと、彼自身が教えてくれた。こっちが戸惑ってしまうくらいになんでも受け入れてくれるものだから、それだけで胸がいっぱいになった。

 ――饗庭がずっと一緒にいてくれると言うのだから、それで十分。

 明日はとうとう大阪の水族館に行く。ジンベエザメを見るときは、饗庭に隣にいてほしい。

 頼めば手を繋いでくれるかな。側に人がいたら無理だろうか。

 旅行が終わるのが惜しい。校外学習とか、遠足とか、これまでの行事も饗庭と参加できていたら……と思う。

 そんな後悔さえ、饗庭のおかげで知った気持ちだと思うと愛おしい気がする。

 これから取り返していきたい。饗庭は全部付き合ってくれるはず。

 俺は幸せな気持ちで、湯船の中で瞳を閉じた。



 部屋に帰ると近江と御門が「おかえり」と声を掛けてくれて、恐らく友達同士なら当たり前のことなのであろうそれに、心の中で感激した。

 照れ隠しに素っ気なく「ただいま」と言って、俺は自分の荷物に向かって彼らに背を向けて座る。

 部屋には近江と御門しかいなかった。他の奴らは別の部屋に遊びに行っていたりするのだろう。

「近江」

 入り口の方向から聞き覚えのある嫌な声が聞こえた。

 ――艮野だ。

高梨(たかなし)、いない?」

「あー、いないな」

 高梨は艮野の班の班長だ、確か。

 いないのは見りゃ分かんだろうが、と俺は心の中で艮野に悪態を吐く。

「風呂か?」

「いや、なんか先生に呼ばれてた」

「ああ、そう」

 入り口の方から、軽率そうな別の声も聞こえた。

「つーか近江、昨日の夜、何?」

「急に消えたじゃん」

 艮野の取り巻き二人も、いつも通り一緒にいるのだ。

「いやぁ、ちょっと饗庭んとこ行こうと思って。んで、そのまま寝ちゃったんだよねー」

 あはは、と誤魔化すように近江は笑った。

 多分近江のような対応が、艮野みたいなのと衝突せずに上手く生きていくコツなんだろう。でも、俺にはできない。

 せっかく神川先生が、こいつらと同じ部屋にならないようにしてくれたのに。修学旅行も三日目を無事終えようというタイミングで、楽しい旅行に泥を塗られた気分だ。

 俺は全てを無視して荷物の整理を続ける。とりあえず、こいつらが出ていくまで振り返らないつもり。それか、早く饗庭が帰ってきてくれたらいいのに。

 心の中で艮野を呪っていると、

「――あれ、特別扱いの有里君じゃん」

 背後で艮野の、わざとらしく馬鹿にした声が聞こえた。

「泊まりの旅行は来ないんじゃなかったの」

「……」

 返事をしてやる筋合いは無いので、俺は一度鞄にしまった着替えをもう一度出して畳み直すことにした。

「お前さ」

 寄ってきた艮野が俺の隣にしゃがんで、ガッと肩を組んできた。乱暴に置かれた腕の勢いで、服の下で引き攣った皮膚が痛んだ。――だが絶対、それがバレるような反応はしない。

「最近饗庭と仲いいじゃん」

「……」

「てっきり口利けないのかと思ってたのに、喋れんだね」

「……」

「なんか言ってみろよ」

「……」

「なぁ」

「……」

「それとも饗庭といるときもだんまりなの? 二人で何してるの、お前ら」

「……」

 視線を向けたわけでは無いけれど、近江と御門がしんとしてこちらに注目しているのが気配で分かった。

 ――ああ、面倒くさいな。なんとなく気まずい。

 今までは周りの人間の反応なんてどうでも良かった。けれど、修学旅行を通してそれぞれのことを知ってしまった後では、どう思われているのか少し気になってしまう。

 艮野はハァーッとわざとらしい溜め息を吐いて、馬鹿にしたように笑った。

「饗庭はお前と違ってまともなんだから、巻き込まないでやってよ」

 饗庭を引き合いに出されて、俺は思わずムッとした。しかし、その気持ちは表には出さないでおく。いいんだ別に、勝手に言わせておけば。饗庭は俺の味方なんだ。気にすることは無い。

「……」

 俺が何も言わずにいると、艮野は威圧的に舌を鳴らし、俺の肩にわざとらしく力を掛けて立ち上がった。

 ――よし、終わった。

 俺は心の中だけで息を吐く。

 後はこのまま、いつものように放っておけばいい。

「饗庭もこんなのとつるんで何が楽しいのかね」

「同類なんだろ、結局。そもそもあいつも別に、つまんねーし」

 後ろで艮野の取り巻き二人が言って、艮野が笑った。俺は体がカァッと熱くなるのを感じた。

 饗庭は艮野を幼馴染だと言った。根はいい奴なのだと言った。俺と一緒に悪口を言うようなことはしなかった。……それなのに。

 ――このまま放っておくんだ。いつもみたいに。こんな奴、相手にしなくていい。してあげる(いわ)れが無い。

 氷のように冷たく冷静な、心の奥底では分かっている。だが。

「……つまんねーのはお前らだろうが」

 気が付いたときには言葉が出ていた。後ろで「ああ?」と、艮野達が振り返った気配がした。

 俺もゆっくりと振り返って、こちらを見下ろす艮野と目が合った。

「お前なんつった?」

「煽りがワンパターンで芸がねぇっつってんだよ、毎度毎度」

 思いがけない俺の反撃に、艮野と取り巻き二人が怯んだ気配がして、俺の心は少しスッとした。

「……喋れんじゃねーか、お前」

「当たり前だろ。お前が俺に相手にされてないだけだよ。いい加減分かんない?」

「有里てめぇ――」

「お前に気安く名前呼ばれる覚えねぇわ。お前はなんだっけ、名前……。まあ、呼ぶ予定無いからいいけど」

 吐き捨てるように言って艮野を見上げると、彼は息を呑んで鼻白んだ。

「あのう……」

 少し離れたところから近江がおずおずと声を掛けてきた。

 俺はキッと近江を睨む。同じタイミングで艮野も「ああ⁉」と近江を睨んで、全く気に入らないことに、俺達は息がぴったりだった。

 睨まれて近江と、その隣にいた御門がぴゃっと身を縮める。俺と艮野は彼らを無視して再び睨み合った。

「おい、やんのか有里。ヒョロガリが調子に乗ってんじゃねーぞ」

「調子に乗ってんのはてめーだろうが。そうやって取り巻き従えて、一人じゃ何にもできない臆病もんが」

「なんだと⁉」

「本当のこと言われて動揺してんなよ」

 俺はわざと馬鹿にした態度を隠さず笑う。

()んなら一人で来いよ。まあ相手にしないけどな」

「俺だってお前なんか相手にしてねぇよ」

 俺は鼻で笑う。

「精一杯考えて言うことがそれなの? 俺からお前に絡んだことないんだけど?」

「……」

「図星突かれて黙んなよ」

 視界の端に、近江と御門がそろそろと部屋を出ていくのが見えた。巻き込まれたくないのだろう。当たり前だ。

「……有里、お前いい気になってんじゃねーぞ」

「お前に言われたかねーわ、無法者が」

「こっちのセリフだ。お前、担任味方に付けてやりたい放題じゃねーか。最近じゃ饗庭も巻き込んで。どんな汚い手使ってるのか知らねーけど、親の力か?」

「別にお前に関係無いよな? それでお前になんか迷惑掛けた?」

「気に入らねぇっつってんだよ。授業はサボってやりたくないことはやらない。それで修学旅行にだけ来たと思ったら、風呂まで別に用意させてるって? 普段もそうだろ? お前、着替えるとき別の部屋用意してもらってるよな?」

「へぇ、なるほどね。いろいろ言ってるけど、つまり俺のこと脱がせたいんだ? 見たいの? そういう趣味なんだ、あんた」

 カッと血の(のぼ)った顔をした艮野が俺の胸倉を掴んで、俺はバランスを崩しながら引き上げられるように立ち上がった。無理矢理従わせられたようで、とても気分が悪い。イラッとして追撃せずにいられなかった。

「頭の無い馬鹿はすぐ暴力に訴えなきゃいけなくて大変だね」

 ――駄目だ、これ以上は。こんな挑発するようなことを言ったら。

 謝るべきだ。怯えてみせて、泣きそうな顔で謝れば、きっとこいつは満足するだろう。以前饗庭に話したように、やりようによってはこれから優位にだって立てるはず。

 でも、そんなことはできない――したくない!

「俺はお前みたいな山猿好みじゃないんだ、悪いね」

 俺は艮野を冷ややかに見上げる。彼は怒りで今にも理性の消えそうな目をしていた。

 俺は怯まず艮野を睨んで、艮野は俺の胸倉を掴んだ拳に力を入れた。



「――あれ、どしたの」

 俺が城井と洲鎌と三人で大浴場から戻ると、近江と御門が部屋の前で所在無さげに立っていた。

「ああ、饗庭」

 近江が俺を見てホッとした顔をする。

「え、何」

「なんか、部屋の空気悪くて」

「空気?」

「いつものやつ。艮野達が高梨に用事あったみたいで来てたんだけど、部屋にいた有里に突っかかってさ」

「ええ……」

 艮野が有里を挑発して、無視されて終わるアレ。京都に来てまでやっているのか。

「それがなんか今日は珍しく――っていうか、初めてじゃない? 有里が言い返して」

「えっ」

 相手にしないんじゃなかったのか、と俺は意外に思って、同時に嫌な予感がした。

 あいつの“言い返す”が、なかなか挑発的なのを知っているし、それは絶望的に艮野の性格と合わない気がしたので。

「そんで饗庭帰って来ないかなと思って……」

「なんかもう、今すぐにでも殴り合いになりそうなんだ」

「なるかな、殴り合い。どう見ても艮野が圧倒的に強そうだけど」

「でも、有里君も怖かった」

 近江と御門は不安そうに顔を見合わせる。

 その時中からワッと声が――恐らく艮野の、怒鳴るような声が聞こえた。俺は二人の間を突っ切って、部屋の中に飛び込んだ。

「有里!」

 部屋の中では、艮野が「脱げ!」と叫びながら、有里の服を掴んで無茶苦茶に振り回していた。

 有里も艮野を掴んで自分の服を抑え防戦しているものの、力の差が圧倒的で大した抵抗になっていない。

 部屋の中にいた艮野の友人二人もこの状況に引いて、戸惑って顔を見合わせている。艮野に加勢まではしないけれど、さりとて間に入って有里を助けてやろうという気持ちも無い。そういったところ。

「止めろって!」

 俺は艮野と有里の間に入って止めようとした。

 しかし自分の手が艮野の腕に掛かる前に、無茶苦茶に振り回されていた有里の体がとうとう服から抜けて、彼はその勢いのままに布団の上に転がった。

 ――火傷痕を隠してやらなくては。

 俺は咄嗟にそう思い、転がった勢いで仰向けに倒れた有里の上にそのまま覆い被さった。

 しん……と部屋に沈黙が下りる。

 てっきり艮野が何か言うと思ったのだけど、それが無くて少し戸惑った。体の下の有里は全く動かない。

 俺は上体を少しだけ起こす。乱暴に転がったけれど、血を出すような、そんな怪我はしていないようだ。横を向いた顔に髪が掛かり、有里の表情は分からなかった。

 俺はとりあえず、近くに畳まれていた毛布に手を伸ばし引っ張ってきて、ぐちゃぐちゃのまま有里の体が隠れるように被せた。起き上がって振り返り、艮野に左腕を伸ばした。

「服、返せ」

「あ……ああ……」

 艮野は大人しく有里の服を返してくる。息が荒いまま、その顔は青くなっていて――ああ、こいつ火傷痕に気が付いたな、と分かった。

 部屋には緊張したような戸惑いの空気が流れていて、入り口近くに近江達も入ってきていた。艮野以外も火傷痕を見ただろうか? それは分からなかった。

「ほら」

 有里を起こして、毛布でグルグル巻きにする。

 とりあえずこの場から離れようと思い、有里を促して部屋を出た。廊下には騒ぎに気が付いた生徒たちがちらほらいて、俺達はその中を突っ切って旅館の中庭の小径に出た。

 しばらく進んだところにあった四阿に有里を座らせ、人目が無いのを確認しながら毛布で隠して服を着させた。

 有里はずっと俯いている。丸めた毛布を抱えて有里の隣に座り、どう声を掛けようかと迷っていると

「だぁぁぁぁぁぁ! ムカつく!」

 有里が突然顔を上げて叫んだ。

「なんなのあのアホ――馬鹿力! 栄養全部筋肉に行ってんじゃねーの⁉」

 俺は目を瞬かせて有里を見、ホッとした。想像していたよりもかなり元気そうだ。

「あー、もう! ぜっっったいに許さん! どうしてくれよう⁉」

 いきり立つ有里を落ち着かせようと、俺は少し呆れた声音で有里に問うた。

「なんであんなことになったんだよ」

「知らねーよ。突っかかってきたのはあいつだ」

「相手にしないんじゃなかったのか? お前、言い返したって聞いたけど」

「――だって」

 有里はムスッとして、少し落ち着いた。

「……いや、なんでもない。とにかくちょっと、いつもよりしつこかったもんだから、ムカついて。つーか、俺よりあいつだろ⁉」

「艮野は火傷のこと知らなかったんだよ。そうだろ? 知ってたらあんなことしない」

「火傷があるから脱がせちゃいけなかったんじゃないでしょ? 人の服を無理矢理脱がせちゃダメなの」

「おっしゃる通りです」

 それはもう、返す言葉も無い。

「俺に火傷があったのは結果論。傷一つない滑らかな肌が出てきたら、そんでもってお前が助けに来なかったら、あいつ俺をどうするつもりだったわけ⁉」

「さあ……」

 多分だけど、艮野はその先のことなんて何にも考えてない。

 有里の態度が気に食わなくて、自分の思い通りにならないことにイライラとして、ムキになっていただけだ。

 まあ、どう言い訳を探しても手を出した艮野が悪い。一応俺としては、殴る蹴るしなかった分、有里は普段の喧嘩相手とは違うのだと――力の差をちゃんと分かって相手をしたのだと思って、そこは評価してやりたい気持ちになるけれど。幼馴染の欲目だろうか、それは。

 「艮野は手加減したと思う」なんて、有里に言ったら侮られたと余計に怒りそうだから言わないでおくけど。

「そうだ」

 と、有里の顔が突然輝いた。

「ねえ、今スマホ持ってる?」

「や、持ってない」

「俺も部屋なんだよな……。ねえ、持ってきてよ、俺の」

「いいけど、何、いるの?」

「通報する」

「へ?」

 俺は瞬く。有里は何かあくどいことを思いついたような、面白くて仕方ないという顔をしていた。さっきの艮野の青い顔と今の有里の顔を比べたら、どっちが悪人か分からないほどだ。

「こんな機会がまたあるか? ――人生潰してやるよ」

 口元は笑っているが、目が座っている。完全にキレている。

「修学旅行の部屋でクラスメイトを襲おうとしたなんて、とんでもない大問題だ。警察呼んで、泣いて騒ぎ立ててやる」

「襲おうって……。艮野も別に、そういう感じでは無かっただろ?」

「分かりゃしねーだろ! 服脱がされたんだぞ!」

 力強く言った有里の口調が、俄かに芝居がかる。

「少なくとも俺は怖かった……。これまでもずっと狙われていると感じていて、ずっと恐怖に怯えていたんだ。それが今日、とうとうこんなことに……」

 有里は「よよ」と口に手を添えて、それからパッとこちらを見て、ワクワクと期待した顔でずいと体を寄せてきた。

「クラスの奴らだってこれまでずっと見てきてる。証言してくれるだろ? お前も」

「ちょ、ちょっと待って」

 俺が体を引くと、有里はぽかんとする。

 頭に浮かんだのは、艮野自身のこと以上に、三歳の頃から知っている艮野の家族の顔だった。

「艮野の家は商店なんだ。父親と母親が二人でやってて……」

 有里は困惑した目で俺を見つめた。

「艮野も、学校ではあんなだけど、家の手伝いやっててさ。妹と弟の面倒もよく見てて、結構偉いなと思うんだ。俺、あいつの父さん母さんも小さいときから知ってて、たくさん世話になってて。だから、いい人たちだって知ってて」

 今だって道ですれ違えば声を掛けてくれて、元気でいることを喜んでくれるおじさんおばさん達。

「艮野が捕まったりしたら、おじさん達がどれだけ悲しむか……」

 黙って聞いていた有里が静かに言った。

「それ、俺になんか関係あるの?」

「ええと……」

「艮野が捕まったらあいつの親が可哀想で、だから、悲しんでくれる親がいない俺が我慢したらいいの」

「違うって」

「何が違うんだよ! お前は今そう言ったの!」

 有里は立ち上がって叫んだ。

「家族? 上等だよ。悲しませたくない家族がいるなら、初めからあいつが自重するべきだ。どうして俺が我慢して、それで丸く収めてやらないといけない。いいじゃん、当然の報いだ。可能な限り大事にして、家族ごと三浦半島から居場所無くしてやるよ!」

「有里、それはやりすぎだって」

 俺は有里を宥める。

 俺だってあの時、振り返って見た艮野がやり切ったような、満足そうな顔をしていたら、少し考えも違っていたと思う。でも艮野は青い顔をしていたから。きっともう、自分がしでかしたことが分かってる。

 そして、もし有里が本気でショックを受けて震えて泣いていたりしたら。俺もこれはもう仕方が無いなと考えてスマートフォン取って来るけれど。

 ――こいつ、そんなタマじゃないんだもんなぁ。

 艮野が悪いのは百も承知の上で、それでもそんなに騒いで、実情以上の大事にしなくても良いのではないか。

 それが俺の正直な気持ちだった。

「有里」

 俺は有里の顔を真っ直ぐ見た。

 有里は興奮に頬を赤く染めて、息荒くこちらを睨んでいた。

「有里、通報は止めてくれ。――見返りは、それがいい」

 有里が瞬いた。

「なんでもしてくれるんだろ? じゃあ、それで頼む」

 俺は有里に頭を下げた。そのまま返答を待っていたが、有里が何も言わないので、俺はゆっくりと顔を上げて彼の顔を窺った。

「有里……?」

 有里は目を見開いて、怒りを湛えたような、悲しさを堪えるような、そんな顔をしていた。

「あ……」

 俺はドキリとして、何か言わなければいけないと思って口を開き、でも、何を言えばいいか分からなかった。

「……分かった」

 そう言ったとき、有里は無表情だった。

 俺はこの顔を知っている。まだ親しくなる前の、俺に心を開いてくれていない頃の顔。今でもクラスメイトの大部分に向けている顔。

「通報はしないし、誰かに聞かれても何も言わない。でも勝手に広まる分には知らないよ。それでいい?」

「あ、ああ……」

「じゃあ、それで今までのこと全部チャラな。ありがとうね、いろいろ」

 有里は俺にくるりと背を向けて、建物の方に戻っていく。体全体から強い拒絶を感じて、俺は追い掛けることができなかった。

 五分ほどベンチで呆然として、俺は部屋に戻った。



 俺が戻ったとき有里はまだ帰っていなくて、かなりの人数が円座になってひそひそと話しをしていた。目撃者から見ていなかった者達へ、情報の伝達が行われているようだった。

 俺は輪の中心に引き釣り込まれ、有里には怪我も無く思いの外元気で、服を着せて別れたことだけ伝えた。

 話しをしている中で、どうやら近江達は火傷に気が付かなかったようだと分かった。でも、艮野の友人二人はどうだろう。

 夜の点呼にやってきた神川先生が「有里は先生の部屋で寝るから」と言い、有里の荷物を持って行った。

 翌朝の点呼にも有里は現れなくて、神川先生は「気にしなくていい」と班全体に言い、俺にだけ耳打ちをした。

「疲れが溜まってて、外で班行動は熱中症が怖いって」

 今日は修学旅行の最終日。大阪に移動して遊園地で遊び、最後に水族館に行く予定だ。

「ずっと面倒見てくれてありがとうな。今日は有里のことは気にしなくていい。饗庭もちゃんと楽しめ」

 俺は頷いて、しかし気持ちは重かった。



 朝から遊園地で遊んで、十五時過ぎに近くの水族館へ向かった。

 この水族館は、初めに長いエスカレーターで最上階まで上がり、建物の中をグルグルと回転するように、緩やかに下へと降りていく造りになっている。

 初めにカワウソのコーナーがあって、御門が顔を輝かせた。近江達はさほど惹かれなかったようで少し見た後先に進んで行ったが、御門がカワウソを見たまま離れなかったので、俺は御門の斜め後ろに立って、彼の肩越しにカワウソを見ていた。

 スマートフォンが震えて、開いてみると有里から画像が一枚届いていた。

 ――ジンベエザメが写った、見上げるような大きな水槽。

 俺は顔を上げて、目の前で熱心にカワウソを眺めている御門の肩を掴んだ。

「御門――俺、別行動したい。先に行くから」

 御門はパチパチと目を瞬かせる。

「あ、うん。分かった」

 御門の返事を聞いて、俺はパッとその場を離れる。

 すぐ次のコーナーで淡水魚を見ている近江達の後ろを突っ切って、俺は走らない程度に足早に、人波を避けながら先へ先へと進んでいった。

 大阪一の水族館は素晴らしく広くて――もどかしい。大水槽の底まで降りてきたとき、俺は少し息が上がっていた。

 きちんと展示を見ている他の生徒達は、まだ誰もここまで辿り着いていない。一般客の中に、水槽の青い光に照らされた有里の後姿を見つけた。

 有里はただじっと水槽を眺めていた。俺はそっと近付いて、彼の隣に立った。

 俺は何も言わなかったし、有里も何も言わなかった。ジンベエザメが俺達の目の前をゆっくりと横切った。

 以前有里が言っていたことがよく分かる。

 多様な海の生物達が泳ぐ大水槽はとても綺麗で、壮大さに圧倒されると同時に、このまま海の底に飲み込まれてしまいそうな恐ろしさがあった。

 有里の指が俺の手に当たった。そのまま控えめに添えるように小指を絡めてきたので、俺は有里の手を取ってぎゅっと握った。有里も握り返して来た。

 周りの喧騒をなんだか遠くに感じて、まるでこの世に二人しかいないかのような感覚がする。でも手の温かさに安心して、独りでは無いから大丈夫だと思えた。

 俺達は手を繋いだままで、二人きりでずっと大水槽を見ていた。








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