二章
それから数日。俺は有里が時々じとっとした目でこちらを見ているのに気が付かないふりをした。
「ねえ饗庭。フるならさっさと、ひと思いにフってあげた方がいいよ」
近江は俺の服の裾を引いてこそこそと言う。いつも俺の隣にいる彼も、必然的に有里から睨みつけられる形になって、なんだか落ち着かないらしい。
「だからそういうんじゃないんだって」
「じゃあなんなの」
「うーん……」
俺は眉間に皺を寄せる。
見返りとやらは何も思いついていない。そもそも見返りをもらう必要があると思っていないし、してほしいことも何も無い。
しかしこの状況もそろそろ限界だ。
購買でパンでも買わせたら、有里はそれで満足するだろうか。もし向こうから何か言ってきたらそれでいこう。俺はそう考えていた。
今日の一時間目は清掃活動。朝の涼しい内に、うちと隣の二クラスで、学校の塀の外、外周の掃除をする。
皆で適当に、箒と塵取りを持ったり火ばさみとゴミ袋を持ったりしながら正門をバラバラに出発し、外周を一周してまた正門まで戻って来ることになっていた。
俺は初め近江達と一緒にスタートしたが、裏門を通り過ぎ外周も半分を過ぎる頃にはいつの間にか彼らに置いて行かれてしまっていた。こういうことを黙々と、ついつい真面目にやってしまうのが俺の性だ。
ふと前を見ると、少し離れたところに有里の背中があった。
スタート時にはかなり前にいたと思うのに、段々と距離が詰まっている。彼もそんなに熱心にゴミを拾っているのだろうか。そういう真面目なタイプだとは思えないのだけど。
今まで気に留めていなかったが、改めて見てみると、九月の半ばにまだ皆が半袖半ズボンの夏用の体操服を着ている中で、有里だけがやはり長袖の体操服を着ていた。
――おかしな奴だ、と思う。
一見頭も良さそうで優等生っぽく見えるのに、授業をよくサボり、泊まりの行事には参加せず、学校に内緒で法律違反のアルバイトまでしている。
――そういえばあのバイト、親は認めているんだろうか。
ふと、そんな疑問が浮かんだ。
葉山の高級住宅街に住むお坊ちゃん。医者だという父親が、息子にあんなバイトを許すのか? 父親には内緒にしているのだろうか。では、母親は?
そもそもなんのためにやっているのだろう。本人は金がいると言っていたが、一介の高校生がなんの為にいくら必要なのか。有里家にお金が無いとは思えないが、それは親に頼れない金なのだろうか。
学校が終わってから電車で一時間以上掛かる横浜まで行って、何時までか知らないけれど働いて。恐らくは夜中に葉山の家まで帰って、朝にはまた一時間掛けて三浦まで登校して来る。
――あいつ、いつ寝てるんだろ。
そんなことを考えながら有里の背中を眺めていると、いつもより彼の存在が頼りなく見えた。
なんとなく、ふわふわしているというか。地に足が着いていないというか。
――いや、あれは。
ふらり、と有里の体が揺れた。
――倒れる。
思った瞬間に体が動いていた。
有里までの距離はいつの間にか五メートルほどに縮んでいた。
火ばさみとゴミ袋を投げるように飛び出して、斜め後ろに向かって倒れ掛かった有里の体を受け止めた。
受け止めた――と言えばカッコイイけれども、実際には一方的に体重を預けてくる大して体格の変わらない相手を支え切ることはできなくて。おたおたと蹈鞴を踏みながら座り込んで、彼と地面との緩衝材になった。
有里は目を閉じて顔にびっしょりと汗をかいている。支えた腕と足で感じる体温が熱いような気がする。
「えー! おい。大丈夫か?」
自分達よりも後にいたクラスメイトが、駆け寄って来て声を掛けてくれた。
「分からない。急に倒れたから」
「貧血?」
「いや、なんか熱あるかも」
追い付いて来たクラスメイト達がどんどん増える。
「先生呼んでくる?」
「保健室に連れて行った方が早いんじゃ」
「動かしていいのかな」
「え、じゃあ救急車?」
「とりあえず先生を――」
人数ばかり増えても、誰も正解が分からずに右往左往するばかり。
ううっ……と有里が呻いた。
「有里? どうしたんだ? 大丈夫?」
有里は目を閉じたまま眉間に皺を寄せて頷いたけれど、おおよそ大丈夫そうではなかった。
「ふぅちゃん!」
誰かが呼ぶ声がして、振り返ると先生が一人こちらに駆けてきていた。
監督係として、一番後ろから付いて来ていた国語教師の楓先生。小柄で可愛らしく、「ふぅちゃん」呼びからも分かるように、生徒達から友達のように愛されている新任の先生だ。
うちのクラスの国語担当では無いが、それでもこんなに親しまれている。俺は近江に引っ張られてふぅちゃんに絡みに行くことが何度かあって、面識があった。
「饗庭君、どうしたの?」
「急に倒れて。体が熱くて、汗かいてる」
「熱中症かな」
ふぅちゃんは有里のおでこに手を添えて、一人でうん、と頷いた。
「ぽいね」
意外だった。九月の半ば、午前中の今はまだそんなに暑くない。
勿論、そういう時ほど気を付けなければいけないのだとも聞くけれど、激しい運動をしてたわけでもなく、他の誰も具合悪くなってなんていないのに。
「長袖なんか着てるからじゃん」
少し離れたところから、揶揄するような誰かの声が聞こえた。
うん、それは確かにその通り。そんな、聞こえるように言わなくてもいいのにとは思うけど。
「石渡さん、神川先生に言って来てくれる? 保健室に連れて行くって。他の人はそのまま清掃を続けて。手が空いてる人、二人の掃除道具お願いね」
ふぅちゃんはテキパキと指示を出す。普段はふわふわとしていて頼りない感じがするのに、こういうときにキリッとして頼りがいのある姿は、やはり大人なのだなと思う。
「裏門まで戻る方が近いから、そっちから保健室まで行こう。――君、有里君、立てる?」
ふぅちゃんは有里の体操服のゼッケンを読んで言った。
有里は目を瞑ったまま弱々しく頷く。
「ごめんね、そっち支えてもらってもいい?」
ふぅちゃんが俺を見て言って、俺も頷いた。
ふぅちゃん一人では有里を運ぶのは無理だろうし、流れ上当然そうなる。
俺は有里に肩を貸してやって、反対側からふぅちゃんも有里の体を支えながら、三人よろよろと裏門から保健室を目指した。
養護教諭の美濃先生は保健室を空けているらしい。入り口に「御用の方は職員室へ」と書かれたプレートが掛かっていた。
ふぅちゃんは先に保健室に入り、「ベッドに寝かせてあげて」と言うと、自分は有里から手を離して冷蔵庫の方に向かった。
ごくごく一般的な高校の保健室。部屋の右半分に三つベッドが並んでいて、一番奥の窓際のベッドと真ん中のベッドの間は、天井まである衝立で仕切られている。後はレールカーテンを閉めれば、三つのベッドの空間がそれぞれ独立する造りだ。
今は誰も休んでいなくて、全てのベッドが空いていた。
俺は有里を一番奥の窓際のベッドに誘導した。有里は俺の手を抜けて、這うようにしてゆっくりベッドに寝転がった。ふぅちゃんがやってきて、俺にペットボトル入りの経口補水液を差し出した。
「これ、飲ませてあげて」
「うっす」
俺にペットボトルを渡して、ふぅちゃんはまた戻っていく。
「ほら、飲める?」
ペットボトルの蓋を外して差し出すと、有里は上体を斜めに起こしてそれを飲んだ。
やはり、相当熱いのだろう。一気に半分飲んで、ペットボトルをこちらに押し付けると、有里はハァと大きな息を吐いてまた仰向けに寝転んだ。
ふぅちゃんが、数枚のタオルの上に氷枕と保冷剤を乗るだけ乗せて入ってきた。俺はペットボトルをベッド脇のチェストに置いて、それを受けとった。
「上着脱がせて冷やしてあげてくれる? 私、美濃先生呼んでくるから」
「分かりました」
保健室のドアが閉まる音と遠ざかる足音を聞いて、俺は有里に向き直る。
――上着を脱がせて、か。
近江の噂によると、恐らくもう小学生のときから有里は学校で服を脱いでいない。
そういえばこの間の横浜の夜だって、まあまあ露出の多かったお姉さんの隣で、こいつは長袖長ズボンだった。そこまで徹底しているのだ。多分有里は、こんなときでも服を脱ぎたくないだろう。
だが、時には本人の意思よりも優先されるべきことがある。
俺は保冷剤もチェストに置いて、有里の長袖ジャージに手を掛けた。とはいえ被って着るタイプのこの上着は、着ている本人の協力無しに脱がせるのは難しいのだけど。
「ありさとー? ちょっと起きれる? とりあえず脱いで、これ」
「……いい」
有里は目を閉じたまま、眉間に皺を寄せて微動だにせず、全く協力しようという動きを見せない。
「良かないだろ」
「大丈夫」
「体冷やさなきゃ」
「このままでもいけんだろ」
「別に俺しかいないんだから、ほら」
「お前は俺のなんなんだよ」
そりゃあただのクラスメイトだけど。
ついでに言うと、お前の裸に全く興味が無い方の、だ。
「あの有明がとうとう脱いだ!」なんて、吹聴して回るような人間でも無いので、素直に脱いではくれないだろうか。
俺はふと、手持ちのカードのことを思い出した。
「そうだ、なんでも言うこと聞くんだよな? これにするわ。服脱いでほしい。ほら、脱いで」
有里は自分がわがままを言える立場で無いことを思い出しただろう。
一瞬言葉に詰まった有里は、うっすら目を開いて言った。
「そんなに俺に脱いでほしいの? 変態じゃん」
……本当にこいつは。
「そんなこと言えるくらい頭回れば上等だよ、ほら」
俺が肩辺りの布を持ち上げるように引っ張って急かすと、
「……いいよ、自分で脱げる」
有里は息を吐きながらゆっくりと起き上がった。
それで俺は、なんとなく少しベッドから離れて、衝立を背もたれにするように置いてあった丸椅子に座った。有里が思ったよりも大丈夫そうで、ホッとして力が抜けたのもあったと思う。
俺が見ている前で、彼は何故だかこちらに背中を向ける。そして自分で上着を、ゆっくりと、脱いだ。
――そのときの気持ちを、目に焼きついた光景を、どう言い表そう。
外にはまだ夏の気配が漂っていた。
電気を付けていない室内は窓からの光で十分に明るいけれど、外の熙光には勿論負けていて。
カーテンが開いたガラス窓の外はすぐに学校の敷地外。侵入防止の金網の向こう、外周の先に海と空が広がっている。
それで、ほんのりと影になった有里の後ろ姿が、背景となった空の中に浮かび上がったよう見えた。
――それは、何。
Tシャツ型の肌着だけになった有里の背中を見て、俺は少したじろいだ。
袖口から見える二の腕の皮膚に、肘先の白い肌とは違う色の部分が見えた。
そのまま有里が肌着も脱ぎ始めて、それは着ていてもいいんじゃないかと思ったけれど、好奇心なのか、なんなのか、その先にあるものを知りたいと思ってしまって、俺は黙って有里の背中を見ていた。
有里は緩慢な動きで肌着まで脱ぎ切ると、窓の方を向いてそのまま座っていた。
俺はごくりと息を飲んだ。
背中をほとんど覆い尽くすように、皮膚が変色しているのは何故だろう。ところどころ引き攣っているように見えて、自分のことではないのに本能的に“痛い”と感じた。
あまりに綺麗な秋の初めの空の明るい青さとの対比で、それはあまりに凄絶に見えた。
知識が無くて、これが一体どういうことなのか分からない。分からないけれども……
「――それ、痛いの?」
有里が顔だけ少し振り返る。
「痛覚が残ってるところはね」
「……」
それ以上何を聞いたらいいのか、何を聞いたらいけないのか分からなくて、言葉が出てこなかった。
これまでに聞いた、見た、有里にまつわるいろいろな話が脳裏を駆けた。
お金持ちのお坊ちゃんらしいこと。葉山からわざわざ通ってきていること。ずっと長袖で過ごすらしいこと。体育の授業に出ていないこと。泊まりの校外学習にも修学旅行にも来たことが無いらしいこと。横浜の飲み屋で働いていること。金がいること。自分を女だと思っているのだという噂と、実際に話してみたらどうもそうは思えない本人のキャラクター。先生以外とは口が利けないのだなんて言われていたが、話してみれば意外と喋れるし、大胆で、見た目に似合わず口が悪くて――
「ああ、気持ち悪……」
苦しそうに息を吐いて、有里はゆっくりベッドに寝転がる。
「あっ、悪い!」
俺はハッとして慌てて立ちあがる。ペットボトルの蓋を開けて、もう一度有里に差し出した。
「これ、まだ飲む?」
有里は上体を斜めに持ち上げると、ペットボトルを受け取って残りを一気に飲み切り、ぱたりとベッドに横たわった。
「まだ要る?」
「……」
有里は返事をしなくて、そのまま眠ってしまったように動かなくなった。
俺は空のペットボトルを引き受け、氷枕を有里の頭の下に差し入れて、保冷剤をタオルに包んで彼の首元やら脇やらに当てていく。
脱ぎっぱなしになっていた有里の服を畳んで枕元に置き、それからどうすればいいか少し迷って、ベッドの端に畳んであったタオルケットを有里の体に被せた。
ジロジロ見るのは躊躇われたけれど、それでもどうしても目に入る。
さっき見た背中に比べれば、体の前面はほとんど通常の肌をしていた。背中から回り込むように少しだけ、脇腹の辺りも変色している。痣というには肌が抉れているような感じがあって、綺麗な肌との境目は引き攣っているようにも見えた。
知識が無いなりに、もしかしてひどい火傷をしたらこんな風になるのかもしれない、と思う。
こんなに綺麗な肌なのに、色と質感の違う部分が痛々しい――
心臓が嫌な鳴り方をしている。
彼がこれまで、からかわれようと、陰口を叩かれようと、人との関わりを避けて頑なに隠して来たものが何か、分かった気がした。
ベッドを仕切るカーテンを閉めて、保健室を出た。このまま有里の傍にいて、どうすればいいのか分からなかったから。
保健室のドアを閉めたとき、廊下の先から入り乱れた足音が聞こえた。
養護教諭の美濃先生と、担任の神川先生。それにふぅちゃんが駆けてきたところだった。
「有里君は?」
真っ先に声を掛けてきたのは美濃先生だった。
「あ、大丈夫です。寝てます。経口補水液は全部飲んで、保冷剤で体冷やしてます」
「服、脱がせてあげた?」
「はい。――先生、あれ……」
俺は多分、青い顔をしてたと思う。
美濃先生と神川先生は深刻そうな顔をして、ふぅちゃんは戸惑った顔をしていた。
恐らく、基本的に先生達は有里の事情を把握しているのだ。だからきっと、有里は体育のサボりや行事への不参加を許されている。
しかし新任で、普段関わりの無いふぅちゃんには話が通じていない。
「本人は何か言ってた?」
美濃先生が言った。
「いえ、何も……」
「そう。じゃあ、先生達も勝手に話せないからね。お友達なら落ち着いたら本人に聞いてごらんなさい。でも、話したくなさそうなら無理に聞かないであげてね」
「……はい」
「饗庭、ありがとう。もう戻って」
神川先生が俺の肩を叩いて、三人は保健室に入っていった。
残された俺は心ここに在らずのまま、夏の気配が残る廊下で、独りしばらく呆然としていた。