一章
――ここは、どこだ。
俺は夜の道で途方に暮れていた。
横浜の友達に会った帰り道、教えてもらった通り京急の駅に向かったつもりが、どこで方向を間違えたのか見知らぬ場所に迷い込んでいた。
この辺りは漂う空気が悪い。薄暗く陰気な気配がして、それなのに妙に明るい感じもする。
辺り一帯に『クラブ○○』やら『スナック××』やらと書かれた看板、それに派手な電飾付きの「ご休憩」なんて書かれたホテルが立ち並んでいて、とても高校生が夜に一人で歩く場所では無かった。
通りには酔っ払ってフラフラした人や、大声で笑いながら歩く若者のグループ。いかにもこれから「ご出勤」という様子の派手な女の人。アジア系の外国語も聞こえて来る。
小学生の頃から学校では言い聞かされていた。横浜には治安の悪いドヤ街がある。絶対に近づかないように、と――
ここはそのドヤ街では無いと思うが、恐らく地理的には近い。早く抜け出さなくてはいけないと焦った。
スマートフォンで地図を見られればいいのだが、通信制限で読み込みができず、さっきからずっと画面は真っ白なまま。俺は困り果てて周囲を見回した。
どちらの方向に歩いたら抜けられるのか、それとももっと深く入り込んでしまうのか、分からない。
酔っぱらいに声を掛けるのは、絡まれるのでは無いかと怖い。店のドアを開けて聞くのも、どこもなんだか怪しい気配がする。どうすればいいか分からなくなって、俺はその場に立ち止まった。
その時、二件ほど先のお店のドアが開いた。店内の賑やかな喧騒が漏れてきて、中から客らしいスーツ姿の男性が二人と、お店の人らしい女性が二人出てきた。
――あ、いや、違うな。
女の人だと思ったのだけど、二人いる内の一人、背が高く体格の良い方の人は、服は女物だし髪も長いが
「また来てね、ショウさん」
明るく弾ませた声が、低い。
――なるほど、ここはそういうお店で、そういう人達なんだ。
背の高いお姉さん(?)と違って、もう一人は特別女装しているという風では無かった。
紫のぴったりとした長袖のニットを着て、黒い細身のズボンを履いて。ほっそりとして中性的な感じではあるけれど、体型がどう見ても男性だ。
俺はこの人達に道を聞こうと思った。道行く酔っぱらいに聞くよりも、働いている人に聞く方が確実だし安全なはず。
お姉さん達はこちらに背を向けて客を見送っている。見送りが終わったら声を掛けようと、俺は声を出す準備をして待っていた。
そして客が道の角に消え、振り返った紫のニットの人と、目が合った。
「あ――」
出そうとした声と、踏み出した足が止まった。
彼も一瞬固まった。そしてふらりと視線を彷徨わせた後、何事も無かったかのようにスッと店の中に引っ込んでいった。
俺は固まったまま、彼のいなくなった空間を見ていた。
「ボク、どうしたの。危ないよ、君みたいな子が一人でこんな時間にこんなとこにいちゃ」
背の高いお姉さんが、俺に目を留めて声を掛けてくれた。
「あ……、あの、日ノ出町の駅に行きたいんですけど、分からなくて……」
「あら迷子?」
「は、はい。すみません……」
「ここからならもう黄金町の方が近いよ。そこを曲がって、それから真っ直ぐ。川があるから橋を渡って、そしたら黄金町の駅だから」
「あっ、ありがとうございます!」
お姉さんはクスッと笑って「大人になったら遊びに来てね」と言い、店の中に入っていった。
俺は言われた道順を忘れない内にと、足早にそこを離れる。
心臓がドキドキしている。
――有里だった。
紫のニットの、細身の男。
多分、見てはいけないものを見た。
お姉さんの言う通りに駅を見つけて、電車に乗ってホッとしたが、心の奥はざわざわと落ち着かない。
――眉唾物だと思っていた噂は本当だったんだろうか。
――高校生があんなところで働いていていいんだろうか。
――中で何をしてるんだろう。
――明日、どんな顔をして教室で会おう。
グルグルといろいろなことを考えて――ドッと疲れた俺は、唐突に考えが突き抜けた。
電車に揺られながらウトウトとして、別に、有里が何を考えて何をしていようが構わないか、と思った。
翌朝。教室に着いて机に鞄を置くや否や、有里が目の前に立った。
強張った顔で「ちょっと来て」と言って、気が付いた周りが少々騒めいて、俺はまあ昨夜の話だろうなと思いながら大人しく着いてきてやったのだが。
どうしたことか俺は今、人のいない裏庭で有里に胸倉を掴まれて、壁に押し付けられ睨まれている。
「――何」
「分かってんだろ、昨日のことだよ」
有里が言って、俺は驚いた。
勝手にイメージしていたよりも口調が乱暴で、恐らくドスを効かせようと意図的に下げた声色が、普段の有里から想像できない低さだったからだ。
艮野達のからかいにも一言も言い返さない、大人しいクラスメイト。もう少しお淑やかなタイプであると勝手に思っていのに。
――まあ、こうして壁に人を押し付けている時点で、お淑やかも何もないが。
「誰にも喋んなよ、お前」
「……」
俺は静かに有里を見返す。
「お前、なんであんなとこで働いてんの」
「は?」
「俺、そういうことあんま分かんないし、知らないけどさ。普通の仕事じゃないでしょ、アレ」
有里は不服そうに視線をそらす。
「高校生ならもっと、コンビニとか、飲食店とか。なんでもあんじゃん」
「そんなとこでチマチマ働いてられっか」
「……」
あーあ、真面目に働いていらっしゃる皆さんに失礼な。
俺は昨日からなんとなく気になっていたことを聞いてみた。
「なあ、ああいう仕事って何すんの」
有里は俺が質問し始めるとは思わなかったようで、一瞬こちらを見て戸惑った様子を見せ、再び目をそらした。
「別に。横に座って、酒作って、話しするだけ」
「お前も酒飲むの」
「俺は飲まない」
「客って全員男なの」
「まあ九割」
「男が好きな人が来るの」
「まあ、大体……?」
「触られたりしないの。抱き付かれたり」
「……そんなには」
俺はハアーと、感心だか呆れだか分からない溜め息を吐いた。
「俺からしたら、コンビニよりあの店の方が“そんなとこ”だと思うけど。よくできるな。それとも――」
趣味も兼ねてるの? と聞きそうになって、口から出掛かった言葉を飲み込んだ。
立ち入りすぎだと思ったし、もしそうなんだとして、別に知りたく無い情報だ。別に俺はこいつに説教をしたいわけでもないし。
有里は視線をそらしたままグッと唇を噛んで、呟くように言った。
「金がいるんだよ……」
「はぁ?」
俺は呆れた。趣味でやっていると言われた方がまだいくらも納得できる。葉山の高級住宅街のお坊ちゃんが、何をどうしたら金がいるんだ。
有里はこちらを見て、何故だか少し、得意げな顔をした。
「俺の時給知ってんの? 基本時給が二千五百円。それに売上が付いて、最近は大体三千円超えてる。一番良い時で四千円超えたこともあるよ。普通のバイトじゃ半分にもなんないだろ」
確かに。一介の高校生である俺には、三千円超えの時給はとんでもない稼ぎに思えた。金額だけ聞けば非常に魅力的な仕事だ。
でも、それってつまり、それだけの利益をこいつが生み出しているわけで。じゃああの店の中で、一体何をしてるんだろうと思ってしまうんだけど。
「学校には内緒だよな? バレたらまずいんじゃないの」
「だから――」
「それだけじゃ無くて、アウトだろ、きっと。法律的に」
「ああ、そうだよ。警察にバレたら一発アウト。店にも迷惑が掛かる。――だから」
有里は胸倉を掴んだ腕に力を入れ直して、ぐいとこちらを睨みつけた。
「誰にも言うな」
「……」
――こいつ、頭悪いな。
俺は無言で有里を見返す。
例えば有里が身長二メートルの筋肉達磨の大男だったとしたら、その脅しは有効だろう。俺は命が惜しくてすぐに口外しないことを約束する。
でも、自分と変わらない背丈で、その上細身。そんな奴が迫力の欠片も無い大きな瞳で睨みつけて、その脅しに効果があると本当に思っているのだろうか。
「……別に、お前が校則違反してようと法律違反してようと、俺には関係無いし。わざわざ誰かに言うつもりない」
俺がそう言うと、有里はホッとした顔をして、反射的に腕の力を抜いた。その瞬間。
「でも」
俺は有里の腕を捻り上げて体を反転させ、これまでと逆転する形で有里を壁に押し付けた。
「あっ――」
有里が痛みに声を上げる。
「脅されたら言ってやりたくなる」
そう言って顔を近づけ睨みつけると、有里は瞠目して固まった。
驚いた瞳でこちらを見てくるので、俺は呆れた。先に自分がやっておいて、やり返されてその反応は無いと思う。脅していいのは、自らも脅される覚悟がある奴だけでは無いだろうか。
――さあ、お前はどう出る?
試すつもりで、俺は有里の発言を待った。
「……」
有里は目をそらすと、俺の肩を軽く押した。
離してくれという意思表示だと受け取って、俺は体を少し離し、腕を掴んでいた手も離す。有里は俺に背を向けてふらりと歩き出した。
――このまま立ち去るつもりか。もしそうならば、別にこちらも構わない。
そう思っていると、有里は二、三歩離れたところでくるりと振り返り、そして深く頭を下げた。
「どうか、誰にも言わないでください。――お願いします」
その姿がなんだか意外で、俺はぽかんとした。
「……」
有里は頭を上げない。俺が分かったと言うまでそのままでいるつもりだろうか。
声を掛けようとしたとき、下げたままの頭からか細い声が聞こえた。
「黙っていてもらえるなら……、見返りに、なんでもします……」
「なんでも……?」
「はい」
有里は頭を下げたまま。握った拳が小さく震えている。さっきまで低く落としていた声も、授業などで聞くいつもの高さに戻っていた。
ただ、怖がっているというわけでは無さそうだ。どちらかというと、高い矜持を無理矢理折って、不承不承頭を下げているという印象。
嫌々頭を下げてまで、絶対にバイトのことがバレたくないのだと思うと、少し気の毒な気もした。
「いや、いいよそんな。別に、初めから誰にも話すつもりないし。そんな頭下げなくても誰にも話さないよ、俺」
さっきのは、こいつの態度があまりに悪いから少しいじわるを言ってみただけで。
「いえ、そういうわけにはいかないので……」
「敬語止めて。俺が脅してるみたいじゃん。俺、脅されるのは勿論嫌だけど、自分が脅すのだってやだよ。いいから、もう」
でも、と有里が顔を上げる。
「黙ってもらってるんだから、こういうのって、何か見返りがいるでしょ」
「見返りって……。いいよ、そんなの。いいから。――じゃあな」
居た堪れなくなって踵を返すと、
「待って!」
有里が追ってきて俺の腕を掴んだ。
振り返ると、有里は真っ直ぐに、射るような瞳でこちらを見ていた。
「人に貸しを作っておきたくない。――なんか言えよ」
それが貸しのある相手に対する態度かと思ったが、そろそろホームルームが始まる。
「分かった、分かった。何か考えておくから、思いついたら、また」
俺が身を引きながら言うと、有里は渋々と言った様子で手を離した。
一緒に教室に戻りたくなくて、俺は足早にその場を離れた。
「ね、ね。告白された? 告白されたの?」
教室に戻った途端、近江がこそこそと絡みついてきて、俺は思いっきり肘で近江の体を突いた。
「んなわけなかろーが」
「いてっ! じゃあなんの用事だったのよ」
「それは……」
――どうか、誰にも言わないでください。
緊張した声が脳裏に蘇った。
「うーん……」
「いやー、饗庭君てばとうとう男の子にもモテだしたのね」
「うるせぇ」
近江の脇腹をもう一発突く。
「いってぇ!」
その時、ホームルームが始まるチャイムが鳴った。ほぼ同時に担任の神川先生が入ってきたので、俺は近江から解放された。
ホームルームに、有里は姿を現さなかった。