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見返りを君に  作者: 雪川月花


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十一章


  神奈川県の東南に突き出す三浦半島。その南の先端に位置する三浦市は、相模湾と金田湾(かねだわん)に挟まれた魚介の宝庫である。海沿いには漁港がいくつもあり、業者向けの魚市場もあれば、観光客に獲れ立ての魚を提供する食堂もたくさんあった。

 知識としては知っていたものの、葉山育ちでこれまで家族や友人と出掛けることも無かった俺は、現地で三浦の海の豊かさを感じたことは無かった。

 饗庭との約束通り、俺は日曜日の昼十二時前に、饗庭がアルバイトしているという漁港の最寄りのバス停に降り立った。聞くところによると、ここは饗庭の家の最寄りでもあるらしい。

 この土地で育った饗庭は小さい頃から漁港の人に良くしてもらっていて、その縁で高校生になってからアルバイトを始めたそうだ。

 ちなみに艮野の家である「艮野商店」も近所にあって、漁港とは取引があり、饗庭と艮野は小さい頃この辺りでよく遊んでいたらしい。

 十一月の終わりとはいえ日差しは暖かく、太陽光を反射した水面はキラキラ輝いて、海風も爽やかで冷たくない。

 カモメやトンビが空を優雅に飛んで、絵に描いたような田舎の漁港の景色がそこにあった。

 言われた通りに食堂を覗くと中はガヤガヤとしていて、作業服を着た人達が数人、食事をしていた。饗庭はいなかったが、人の良さそうな店員のおばさんと目が合って「有里君?」と声を掛けられた。

透琉(とおる)君はまだ来てないのよ。ほら、そこ座って。生のお魚は食べられる?」

「あ、はい」

「まかないお願いされてるからね。ちょっと待ってね」

 どうやら饗庭から話はきちんと通っているようだ。そういえばあいつ下の名前透琉だったな、と思いながら、促されるままに席に座った。

 饗庭から聞くところによると、この食堂は朝市の時間一般のお客さんに開かれていて、昼は漁港で働く人達専用の食堂になるらしい。作業服のおじさん達がご飯を食べる中に私服の俺が一人混ざるのは、なんだか落ち着かなかった。

 おばさんが「甘鯛の海鮮丼」と言って、白く透き通った魚の乗ったどんぶりと、赤だしを置いてくれた。

「透琉君ももう来るだろうけど、先に食べてるといいよ」

「あ、はい。ありがとうございます。いただきます」

 俺は素直に食事を始める。甘鯛を一切れ食べて思わず「おいしい……」と呟くと、おばさんは嬉しそうにニコニコした。

「そうだ。有里君は、(りょう)君は知ってるの?」

「りょう君……?」

 俺は呟いて、それが艮野のことだと察した。

 あいつ凌っていうんだっけ? 興味が無さ過ぎて知らなかった。

 おばさんの笑顔からは「小さい頃から知っている透琉君と凌君」を可愛く思っていることが見て取れた。それで、おばさんをがっかりさせることもあるまいと、俺は笑顔を取り繕う。

「あー、ええと、はい。クラスメイトです」

「そうなのね。今日はもう配達来ちゃったのよ」

「そうなんですね」

 おばさんは残念そうな顔をしたが、全く以て会いたかないので、配達は終わっていて構わない。学校が休みの日に家の手伝いをしていることに感心はした。

「二人ともこんなに小さかったのに、大きくなってねぇ……」

 おばさんはしみじみと言う。

「昔はよく艮野さんのところが透琉君の面倒を見てたから、二人はよく一緒でね。――ほら、透琉君のおうちも大変だから」

「……え?」

 ドクリと心臓が鳴った。

 それは一体、どういう意味……?

「有里!」

 食堂の奥、関係者用と思しき通路から、作業着姿の饗庭が出てきた。

「もう来てたんだ。――お疲れさまです」

「はいはい、お疲れさま」

 饗庭はおばさんにぺこりとお辞儀をして、俺の目の前に座る。俺の丼を見て

「まだ食べてないの? 食べてれば良かったのに」

 と言った。

「あ、うん。一口食べた……」

 俺は気も漫ろにそれに答える。

 饗庭は作業着姿が快活な印象で、いつもの制服姿とは違う雰囲気。裾を捲った腕がなんだか(こなれ)ていて、なんだかちょっと、ときめいたりして。

 でも今はそれ以上に

 ――透琉君のおうちも大変だから……?

 嘘だと思ったわけでは無いけれど、饗庭は本当に漁港で働いてた。

 それは「大変だから」なのか? 今までそんな話を聞いたことは無い。

 おばさんが饗庭にも丼と赤だしを運んで来てくれて、俺は目の前で甘鯛丼を食べ始めた饗庭を見つめた。視線に気が付いた饗庭が、訝しげに俺を見た。

「え、何」

「いや――カッコいいね、作業着」

 俺が言うと饗庭は軽く()せた。

「なんだよ」

「本当に漁港の人みたい」

「いや本当に漁港の人だから」

「すごい、なんか、大人っぽい」

「どうも……」

 饗庭は居心地悪そうに視線をそらす。

 前から思っていたけれど、饗庭は見た目を褒められるのが苦手だな。せっかく褒められているのだから、もっと調子に乗ってもいいのに。

「いやホント、カッコいいよ。似合ってる。ちゃんと働いてるんだ、偉い」

 俺は本心から褒めたのだが、饗庭はこちらを見て少しいじわるに笑った。

「そうか? これってお前の言う“チマチマした仕事”じゃないの?」

 俺は思わず言葉に詰まった。

 もう三ヶ月近く前に、自分が饗庭に言ったことだ。まさかそんな、根に持たれているとは。

 だって、あの時は饗庭が働いてるなんて知らなかったし……。いや、あの時の俺なら、知っていてもその上で馬鹿にしただろうが。

 俺がしゅんとしたのをどう思ったのか、饗庭は甘鯛丼を食べながら言う。

「まあとりあえず食えよ。食い終わったら、漁港一周案内してやるから」



 食事の後、二人で食堂を出て隣にある市場を見学し、倉庫の中も見た。朝市は早朝が勝負、九時には終わってしまうそうで、シャッターが閉められた市場の中にはもう魚は残っていなかった。船が泊まった港をぐるりと一周して、俺達はまた食堂に戻った。

 その間、俺は気になっていることを饗庭に聞けなかった。

 饗庭が度々漁港で働く大人達から親しげに声を掛けられて、その度に自分も挨拶をしなければならなかったし、漁港を巡りながら饗庭が色々と説明してくれるのを、せっかくだからしっかり聞きたいと思ったし。

 一通り案内が終わると、饗庭は俺を食堂に待たせて奥で着替えてきて、おばさんから「早く冷蔵庫に入れてね」と何やら包みを受け取った。饗庭が歩くままに付いて行くと、彼はそのまま漁港を出た。

「後二十分くらいかー」

 饗庭がバス停の時刻表を見て言う。

「あ、そう……」

 そうか、約束通りアルバイト先を見せてもらったのだから、俺はもう帰るのか。と、俺は胸がザワザワした。心に何かが(つか)えたままだ。

「じゃ、悪いけどこれ冷蔵庫入れなきゃいけないから」

 と、おばさんに持たされた包みを持ち上げて、当たり前のように解散しようとした饗庭に、俺は焦りを感じた。

「ね、饗庭んち近くなんでしょ? 俺一緒に行くよ、送ってく」

「え、いいよ、往復してたら結構ギリギリになると思うし。俺戻って来るよ。間に合わなかったらごめんだけど、バス来たら乗れよ」

「いいよ、俺が行く」

「上り坂だし」

「大丈夫!」

 若干戸惑いを見せた饗庭を押し切って、俺は饗庭と一緒に彼の家へと向かうことにした。

 国道から分け入って、階段交じりの坂を饗庭の背中を追い掛け登っていく。

 あのまま解散になるのは嫌だった。バス停に取り残されていたら、俺はきっと淋しくて堪らない気持ちになっていただろう。家まで付いて行くのを饗庭が了承してくれたことが嬉しかった。

 それでももう、時間はあまり残されていない。俺は意を決して饗庭に声を掛けた。

「あの……、さっきの食堂の人が言ってたんだけど……」

「うん?」

 振り返らずに饗庭が返事をする。

「饗庭の家は大変だからって」

「ああ」

 と饗庭は苦笑いした。

「いや別に全然大変じゃないよ。でも漁港の人達は小さい頃からうちを知ってるからさ」

「小さい頃大変だったの?」

「うーん」

 饗庭はちょっと考えて、

「まあ、一般的にはそうかもね」

 とだけ言った。

 全くこいつは、説明が足りない。

 それだけで話が終わるはず無いのに、一から十までこちらから聞かないと教えてくれないつもりか。

「だって――饗庭の家なんて、別に普通なんじゃないの」

「うん」

 そんなに短く肯定されてしまっては、何が大変なのか分からない。

「一人っ子なんだよね? ご両親は何してる人なの?」

「ご両親……」

 饗庭は呟いて、

「俺、片親だよ」

 と、さらりと言った。

 俺は饗庭の後ろで思わず足を止めた。気が付いた饗庭が振り返る。

「あれ、言ってなかったっけ」

「……聞いてない」

「そっか。でもまあ、今どき珍しいことでも無いだろ」

「……そうだな」

 俺は自然と、自分に言い聞かせるように言っていた。

 そうだよ。珍しいことじゃない。小学生の頃から何人かは見てきた。

 死別もいたし、両親の不仲が原因らしいこともあった。別れた親と会ってるって奴もいたし、会ってなさそうな奴もいた。

 でも別段、それで不幸そうな奴はいなかった。特別視して周りが気を遣うということもそう無かったと思う。

 ……そう、だから別段気にすることじゃない。

 だって饗庭はこんなにもまっすぐ、呆れるくらいに優しく育っている。きっと両親が家に揃っていなくたって、ちゃんとした大人にしっかりと育ててもらってきたのだ。

 そう思ったから、確信を得たくて、安心したくて、俺は再び歩き始めた饗庭を追い掛けながら聞いた。

「お母さんと暮らしてるの?」

「そうだね」

 肯定にひとまずホッとする。夫婦が別れるとき、子どもは母親に引き取られることが多い。これが父親に引き取られたとなると、母親と死別の可能性や、母親がクズの可能性がグッと高まる。と、思う。だからなんというかまあ、よくある一般的なシングルマザーの家庭なのだろう。

 俺がせっかくホッとしたのに、饗庭は前を見たまま続けた。

「まあ、もう一週間くらい帰ってきてないけど」

「えっ」

 ……ええっと、それは。いや待て、まだいろいろな可能性がある。

 シングルマザーのお母さんはきっとめちゃめちゃ働き者で、饗庭のために昼夜を問わず働いてるんだ。

 それでこいつの家には祖父母が同居していたりして。お母さんがいないことはちょっと淋しいけれど、優しいおばあちゃんとちょっと寡黙なおじいちゃんが十分な愛情でこいつを今日まで育ててくれているとか。そんな感じだ、きっと。

 そんな風に考えて、今登っている道の途中にぽつぽつとある一軒家達に目を向けた。このどれかが饗庭の家なのだろう。

 道の右手には古びた集合住宅も一軒あった。アパートと言っていいのだろうか、二階建てで、玄関が八つこちらを向いて並んでいる。○○荘なんて名前が付いていそうな、確実に昭和時代からある遺物で、今時なかなかお目に掛かれない寂れ具合をしていた。

 ここ、人住んでるのかな――と軽い気持ちで言い掛けて、饗庭がそちらに向かって曲がったので、ギョッとした。

「待ってて」

 と言い置いて、饗庭はアパートへ向かっていく。

 まさかまさかと思っているうちに、饗庭がその建物の一階の、二つ目の扉の前で鍵を取り出したのを見て、衝撃を受けた。

 この家は俺の中の饗庭のイメージとあまりに掛け離れていた。

 別に悪いと言っているわけではない。ただ、この家はドラマや漫画で貧乏苦学生が一人で住んでるイメージの家というか、少なくとも高校生が家族と住む家には見えなかった。外から見る限り、中にそう広さがあるとも思えないし。

 まさか一人暮らし? そんなことはないよな。だって、さっき母親がいるって言ってたし。それに――

 俺が呆然と家を見つめていると、手ぶらになった饗庭が家から出てきた。

「ほら、ちょうどいい時間だ。急がないとバス行っちゃうかも」

 饗庭は唖然としている俺を置いて、来た道を戻り始める。それを追い掛けて

「お前、あそこに住んでんの……?」

 分かり切ったことを聞くと、饗庭は一瞬言葉に詰まって、それから「ああ」と苦笑した。

「家がボロくてびっくりした? お前、自分ち基準で考えんなよ」

 考えてない、と俺は思う。有里家が一般的な家庭よりもかなり裕福であることは十分承知している。

 でも、饗庭の家は……失礼ながら、一般的な家庭と比べても明らかに貧乏暮らしのそれだ。しかし今まで饗庭からそんな話を聞いたことは無かったし、察するような出来事も無かった。

 国道に出ると、海岸線の向こうから向かってくるバスが見えた。

「ほら、バス来た!」

 バス停に向かって駆け出そうとした饗庭の、服の裾を掴んで止めた。

「え? 何? これ乗らないと次しばらく無いぞ」

 饗庭は振り返って、訝しげな顔で俺を見た。

「いい。――俺、もっと饗庭の話聞きたい」

「俺の話……?」

「思ったんだよ。俺、饗庭のことなんにも知らない。もっと知りたいと思った。だから今日来たのに、俺、このままじゃ帰れない」

「……」

 二人の隣をバスが通り過ぎていく。

 じっと見つめ合うこと数秒、根負けしたように目をそらした饗庭が「分かった」と言った。



 二人で海に張り出した防波堤まで歩いた。強い海風が吹いて、俺達の髪を巻き上げながら背を急かすように押した。

 防波堤には釣り人が何人かいた。俺達は彼らを追い越して、防波堤の一番先、灯台近くまでやってきた。

 岸壁の上に沖を向いて座れたらちょうどいいような気がするのだけど、岸壁にはどこにも登り口が無い。饗庭は当たり前のように勢いで上に登り、俺の手を引っ張って引き上げてくれた。

 二人で沖に向かって並んで座る。黙っている饗庭の横顔に、俺は質問を始めた。

「ええと、お母さんあんまり帰ってこないんだ?」

「うん、まあ、波はあるけどね」

「一週間もいないって……その間家には誰がいるの?」

「基本独りだよ。別にもう、慣れてるから」

「……お母さん、働いてるんだよな?」

「うーん。それこそ多分、水商売してるんだと思うけど。朝になっても帰ってこないのは、男のとこにいるんだろうな」

「そう……なんだ……」

 饗庭があまりにもなんでもないことかのように穏やかに言うので、俺はドギマギとして、適切な反応が何なのか分からなかった。

 戸惑っている俺をチラリと見て、饗庭は海の方に視線を戻した。

「物心ついた時にはもう父さんはいなかったんだ。けど、初めはそういうのもよく分かってなくて。だって、入れ代わり立ち代わり、いろんな男の人が家に来てたから。お父さんだと思ってた人がいなくなって、また別の人が来て。小さいながらに『この人達はお父さんでは無いんだな』っていうのは分かってきて。小学生の頃は、新しい男の人が家に来る度に『この人が新しいお父さんになるのかな』なんて、ドキドキしてね。でもみんな大体、長くても三か月くらいで来なくなっちゃって」

 饗庭は穏やかに海を見つめている。

「中学生になって、段々なんか分かってきちゃうじゃん。この人達はそういうんじゃないんだなって。一回、いい加減家に男連れて来るの止めてくれって、キレたの。だってうち、さっき見たと思うけど……あのサイズだよ。台所の奥に、六畳が二間。さすがに困るよ、俺も。そしたら家には男連れて来なくなったんだけど、代わりに母さんが帰ってこなくなっちゃって」

「ええ……」

「一回、小三の時だったかな。本気で母さんのことも俺のことも心配してくれてる感じのおじさんがいたんだけどさ、誠実そうな。でも、そういう人に限って母さんの方からフっちまうの。なんでなんだろうな、アレ。どうして自分から駄目そうな人ばっかり追いかけるのか、分からん俺には」

「……」

「それでまた、適当そうなチャラそうな兄ちゃんとデキて、フられて、俺が慰めてね。どんだけ優しくしても、『どうせあんたも私を裏切るんだ』って恨み言言われるんだよ。これまで一回だって、裏切ったことないと思うんだけど。男は信じられないんだって。――息子のこと男に数えないでほしいんだけどな」

 饗庭は息を吐いて笑った。

「初めて人に言った」

「……」

 俺はなんと返していいか分からなかった。

 いつだって自分だけが可哀想で、気の毒だったから。目の前に突然現れた不幸な少年に、掛ける言葉が見つからなかった。

 アホみたいにお人好しなその裏に、こんな顔を持っていたなんて。

 饗庭の優しさが、ずっと母親のケアをしてきて、それで培われた優しさなのだと気が付いたら、これまでのいろいろなことが思い出されて胸が詰まった。

「あれ」

 俺はふと思い出した。

「でも、饗庭毎日弁当だよな?」

 いつも魚料理が入っている、よくできたお弁当。

 あれがあったから、饗庭の為に毎日お弁当を作ってくれる、好みに合わせて甘く無い卵焼きを作ってくれる、そんなお母さんがいるのだと思い込んでいたのに。

「あれは俺が作ってる」

「うっそぉ! すごい!」

「そんなことないよ。高校入ってからずっと作ってたらあれくらいできるようになるって。――うちの経済状況だと節約しなきゃね。漁港で余った魚貰えるの。だからいつも魚」

「な、なるぼど……」

 いろいろなピースがハマっていく。

「でも……信じられない……な……」

 俺は呆然と呟いた。

「そんな親、いるんだ。小説とか、ドラマの中だけの話だと思ってた。――いや、ごめん。人の親のこと、悪く言っちゃいけないのかもしれないけど。だって、本当の親なのに」

 不満だった。だって、饗庭みたいないい子がそんな風に苦労してるなんて、理不尽じゃないか。

「血の繋がりじゃないのかもなぁ」

 饗庭がぽつりと呟く。

「え……?」

 俺はぽかんと饗庭を見た。

「どういう意味?」

「俺にはお前の家のお母さん、ホントの母親に見えたなと思って。少なくとも、家でお前のこと待ってる。――お母さんと話してさ、有里のこと本当に心配してるし、義務で養育してるだけじゃなくて、そこに気持ちもちゃんとあるって俺は感じたから。……羨ましいって言ったら、無い物ねだりでお前も嫌かもしれないけど」

「いや……」

 俺は口籠る。饗庭の話を聞いた後では、強く否定できない。

「近江とか、他の奴らは饗庭の家のこと知ってるの?」

「保育園とか小学校が一緒だった奴らは、うちがシングルマザーなのは知ってると思うよ。覚えてるかは分からないけど。中学からの友達は知らないんじゃないかな。俺も別に言ったこと無いし、聞かれたことないし。近江は中学からで、洲鎌も城井も高二になって初めて会ったから、今身近な奴で知ってる奴はいないはず。詳細知ってるのは艮野くらいか? 俺、昔は艮野の家に結構お世話になってたからさ」

「どうして言わないの」

 うーん、と饗庭は考え込んだ。

「別に隠してるって感覚も無かったけど、わざわざ言うことじゃなくない? 自分だけが大変なわけじゃないし。有里のことを知らなかったみたいに、知らないだけで皆それぞれ何か事情を抱えてるもんだよ」

「……そうなのかな」

 俺はいつも楽しそうな、悩みなど何も無さそうな同級生達の姿を思い浮かべてみる。

 自分だけが辛いと思っていたのに、みんな、笑顔の下で何か悩みを抱えているのだろうか。なかなか想像できないが、そうなのだとすればみんな凄い。

 少なくとも饗庭はそうやって、自分の抱える問題を、まるで悟らせずに生きてきたのだ。

 俺だけが自分本位で、まるで子どもだ。

「あああああああ」

 俺は頭を抱えて膝の上に伏せた。

「ええっ、どうした⁉」

 饗庭の驚いた声が頭上から聞こえて、俺は頭を上げられなかった。

「最悪じゃん、俺」

 その優しさを当たり前に受け取って、饗庭にも事情があるなんて、これまで想像もしていなかった。

「誰が誰に不幸自慢させてるんだよー。お前が悪いんだぞ! なんでなんにも言わないんだよ。こっちは知らないんだから、言えよ! お前の方が大変じゃん」

「俺、別に大変じゃないよ」

 俺が愕然として顔を上げると、本当になんとも思っていなさそうな、きょとんとした顔が返ってきた。

「生きていけてるし、困ってない。十分だよ、それで」

 信じられない。俺が饗庭の立場だったら、最大限不幸ぶって、可哀想な自分に酔って、ひねくれて生きていくだろうに。――まるで、今まで俺がそうしてきたみたいに。

「……俺さ、下の名前『透琉』っていうんだけど」

 少しの沈黙の後、饗庭がぽつりと言った。

「あ、うん。知ってる……」

「多分母さんのセンスじゃないから、父さんが付けてくれたんだと思ってるんだ。でも、違うかも。勝手にそう思ってるだけ」

「うん……」

 話がどこに向かうのか分からなくて、俺は曖昧に相槌を打った。

「毎月、同じ人から振り込みがあるんだ。基本的に生活費をそこから下ろすんだけど、毎年、俺の誕生日の月と正月だけ少し多く入ってて。俺、父さんなんじゃないかなって思ってる。ヌノムラトオヤって人なんだけど。――父さんぽくない?」

 父親がトオヤで、息子の名前がトオル。確かにありそうな話だ。

「その人と連絡は取れないの?」

「連絡先も何も分からないから」

「お母さんに聞かないの?」

「……聞こうとしたことも、あるんだけどね」

 微かに笑った饗庭に、それ以上は聞けなかった。

「母さんからは金貰えたり貰えなかったりだから、この振り込みが俺の生命線。今まで途切れたこと無いから大丈夫だとは思うけど、いきなり来月から無くなる可能性もあると思って内心ビクビクよ」

 饗庭は苦笑する。

「養育費的なことなんだったら、もしかしたら高校卒業と同時に無くなるのかもって、覚悟もしてるし。――漁港の人達が『このままここに就職しろ』って言ってくれてるから、とりあえず収入は大丈夫そうでそこは安心してるんだけど」

「そう……なんだ」

「でもそういうことじゃなくて、振り込み見るとなんか安心するんだよね。俺にはこの人がいるんだなって――知らない人なのに、なんとなく、恋しい」

 饗庭の横顔が淋しそうで、心がズキリとした。

「おかしいよな、顔も知らない、どんな人か分からないのに。父親だとして、一度も会いにも来ないなんて、普通に考えたらいい人じゃないのに。分かってるんだけど、でも、会ったら優しくしてもらえる気がしてるんだ。きっと俺のことを大切に想ってくれてる。それがなんていうか、生きる希望みたいなとこあって――」

 饗庭が言葉を止めたのは、俺が唇を塞いだからだった。気が付いたときには俺は饗庭にキスしていた。ふと唇を離すと、ぽかんとした饗庭の顔が目の前にあって、俺は我に返って慌てて身を引いた。

「わー! わー、待った! 無し! 今の無し!」

「無しってお前……」

「だってなんかしたくなっちゃったんだもん」

 切なくて苦しくて、それに加えて愛しさが爆発するような。どうにかしてあげたいって気持ちがあって、その想いの行き先が咄嗟にキスになった。

 でもそんなの、なんかめちゃめちゃナルシストだ。自分のキスに価値があると思ってるみたいで。

「……ごめん。嫌だった?」

 恐る恐る言うと、饗庭はちょっと考えるように宙を見て

「いや……? いいけど」

 と言った。

 あ、いいんだ。それはちょっとホッとしたような、というか、嬉しいような。

 俺の心がキラキラし始めたのに反して、饗庭は何故だか呆れたような、疑って掛かるような、胡乱な物を見る目で俺を見た。

「お前、店の客にもこういうことしてんじゃねーだろうな」

「してねーよ!」

 俺は反射の速度で饗庭の背中を思い切りしばく。

「いってぇ!」

 饗庭が大げさに仰け反って崩れ落ちる。俺は恨めしく饗庭を見た。

 ――こんなこと、他の誰にだってするわけない。

 あーあ。せっかくちょっと、もしかしたらいい雰囲気かもしれないと思ったのに。台無しだ。

 こんなデリカシーの無い男、きっと女の子と付き合っても一週間でフラれてしまうだろう。

 俺はコンクリートに寝そべって両腕を広げた。

「あーあ、俺のファーストキスを返してくれ」

「お前がしてきたんだろうが。当たり屋かよ」

 饗庭のツッコミは正しい。

「そりゃそーだ」

 なんだか面白くて堪らなくなって、俺は大声で笑った。



 結局そのまま二時間近く饗庭と一緒にいて、十六時前のバスに乗った。

 黄昏に染まるバス停で饗庭と別れ、名残惜しくてバスが出発するまでずっと、窓から彼を見つめた。饗庭もこちらを見て見送ってくれた。

 キラキラと輝く夕暮れの海岸線をバスは進んで行く。ざわざわと落ち着かない自分の心がその美しさに不釣り合いで、なんだか無性に泣きたくなった。

 家に帰り玄関を開けると、紗絢がリビングに向かって廊下をパタパタと走っているところだった。

 紗絢は俺に気が付いて振り返り、「あ」と言ってその場に立ち止まった。なんだか、いつもよりおしゃれをしている。

「ただいま」

「おかえりなさい」

「出かけるの?」

 紗絢は目をパチパチさせる。普段の俺なら、「ただいま」だけで目も合わせず部屋に上がるところだけど、今日は妹と少し話してみたい気持ちだった。紗絢は嬉しそうに笑った。

「夕ご飯、お外で食べようって! ――あの……、お兄ちゃんは……行かない……?」

 紗絢はおずおずと、遠慮がちに俺を見上げてくる。たった七歳の女の子が自分に気を遣っていることに罪悪感を覚えた。普段コミュニケーションを取っていないから、普通の会話をするだけで、十も歳の離れた妹にこんな顔をさせるんだ。

「お兄ちゃんも行きたいな。行ってもいい?」

 俺は努めて穏やかに、優しく微笑んでみた。紗絢の顔がパァッと明るくなった。

「うん! やった! 一緒に行こ!」

 そう言って紗絢はくるりと踵を返し、リビングに駈けていく。

「おかあさーん! お兄ちゃんが、ご飯一緒に行くって!」

 俺は少し緊張した。このまま部屋に行きたくなったが、それではいけないとリビングに向かった。

 母は驚いた顔をして俺を迎えた。だが、その驚きは嫌な感情のものでは無いように感じた。どちらかというと、喜びで「信じられない」と言いたげな……

「ただいま」

 と声を掛けると、母は戸惑った様子で

「おかえりなさい。――綺羅、今夜大丈夫なの?」

 と言った。

 俺が夜な夜な出歩いていることは、当然母も気が付いている。

「うん。一緒にご飯行きたい。行ってもいい?」

 そう言うと、母の目に涙が浮かんで、母はそれを頑張って無視するように、笑った。

「ええ、行きましょう! 綺羅は何食べたい?」

「さーやはアイス」

 紗絢が母の腰に抱き付いて、真剣な顔で言った。俺と母さんは顔を見合わせて笑った。

「俺は肉が食いたいな」

「そう――じゃあ、焼肉にしましょ! デザートにアイスもあるでしょう」

「やったぁ」

 紗絢がニッコリ笑って俺を見る。母が紗絢の背中を優しく撫でながら、俺に向かって微笑んだ。

「お父さんがもう帰ってくるからね。綺羅も、いつでも出られるようにしておいてね」

「分かった」

 俺は荷物を置いて着替えるために部屋へ上がる。

 心臓がドキドキして、気持ちが高揚している。

 ――嬉しい。

 もしかして、自分はもっと家族と上手くやっていけるのかもしれないと思った。それは俺の気持ち一つで、努力一つでどうにかなるのかも。

 やってみようと思った。血が繋がらなくとも自分を迎えてくれた有里家の人達に、向き合わないのは自分の怠慢な気がしたから。

 できることなら本当の家族になりたいと、初めて強く思った。








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