メデューサの恋〜邪眼の少女、最愛の人のために両目を失い、数百年後に転生した夫と再会する〜
幼いころから、まともにものを見たことがない。生まれてすぐに、母は死んだ。母のそばにいた父も死んだ。医者も看護婦もみな死んだ……赤子の私が、見つめたから。
私がこの目で見つめると、花はしおれ、根から枯れ落ち、空を見上げれば小鳥は死んで落ちてきて、猫など抱くことは思いもよらない。命あるものは、私が見ればすべて死ぬ。
それが邪眼の力だと、ひとりで生きていた五歳のころ、ある研究所に『保護』されてから初めて知った。私には遠く魔物の血が混じり、それが百年も経ったあと、遠い子孫の私の体に『隔世遺伝』したらしい。
まるでどこかのマンガみたいと、笑ってすませることは出来ない。私はもう無数に命を奪ってきたのだ――紅玉のように赤い瞳で。
けれど正直、『待遇の良い囚人』のような研究所の暮らしにはすぐにうんざりした。私はある時、目隠しをとって研究所を逃げ出した。振り向かせれば命をとられる、そんな魔物を捕まえることはもう誰にも出来なかった。
――背中から銃で撃ち抜けば簡単にけりがついたのに。あとからそう思ったけれど、研究所の人はあんまり優しいひとばかりで、『魔物』に情がわいてしまっていたのだろうと、今でも勝手に考えている。
そうしてみんな恐ろしがって、ある森の奥に逃げた私を永年そのままほうっておいた。私ももう何も殺さなかった。きつくきつく目隠しをして、森の奥に朽ち果てるばかりだった廃屋を掃除して住みついて、手さぐりで近くの泉の水を飲み、指先で探して自然の木の実をつまみとり、泉の水で体を洗い、たったひとりで生きていた。
……百年が経った。私はきっと(目隠しをとらないから分からないけど)十七くらいの見た目に成長していた。魔物の血の形質が強く出た私は、もうほとんど化け物だった。見た目に歳をとらないのだ。
目隠しをとらないままにさぐる手の指はすらりと細く、肌はつるつるした手ざわりで、髪は長くしなやかだった。生まれながらに白銀色の髪だったから、きっと色はそのままなのだろうけど、かさかさになったりごっそり抜けたりはしなかった。
私はきっと、このままひとりで生きていく。一生目隠しをとらず、誰とも会わずに、誰のぬくもりも知らぬまま。
……そう思っていたあきらめ混じりの平穏は、ある日突然破られた。体じゅう傷だらけの少年が我が家に逃げ込んできたのだ。なんでもある屋敷の前に捨てられていた赤子で、その屋敷に拾われてボーイとして使われていたが、あんまり扱いがひどいので命からがら、森まで逃げてきたらしい。
「……屋敷のやつらは、ここでひとり逃がすと『じゃあ僕らも逃げ出そうか』って他の子も思うと考えたんでしょう……でもこの森には、ば……」
「――『化け物がいるから、これ以上追うのはあきらめよう』と?」
「ぼ、ぼくは化け物だなんて思いません! あなたはこんなに優しく、手さぐりでぼくを手当てしてくれた! 薬草の汁を塗りつけて、木の皮を薄く削って作ったほうたいを巻いてくれたし、それに……!」
「……それに?」
「……こんなに、綺麗だ」
ほうたい越しに光を受ける薄闇の視界が、ぱあっと白く爆発した。そのくらいの衝撃だった。
美しい? この私が、魔物の私が、美しい?
「……お姉さん?」
「も、もう一度……もういちど言ってくれないか……?」
「……綺麗だよ。お姉さんは……、」
閉じた瞳がやけどしたように熱くなり、ほうたいに塩辛い水が染みてきた。流れ落ちぬ熱い涙に、それでも少年は気づいたようで、そっと私の目隠しの目に手を触れて、なぐさめるようにささやいた。
「……とても、きれいだ」
耳もとでささやくその声が。
出逢ったばかりで、離れがたいほど愛しかった。
* * *
ふたりの暮らしが始まった。おかしなものだ、つい先日まで出逢ったこともなかったのに、もう夫婦みたいに仲良く話し、笑い合い、当然のように抱き合って床を共にした。
形は違うが『ひとりぼっち』と『ひとりぼっち』。出逢ってふたりぼっちになった互いを何より大事に想うのは、考えてみれば当然のことかもしれない。
「ねえ、あなたのお名前は?」
「言ったろう、とっくに……『メデューサ』だ」
「えーえ、それはどこかの怪物の名なんでしょう? ぼく昔どっかで聞いたことあるよ! そうじゃなくて、あなたの本当のお名前を……」
「…………アイリス。アイリスだ」
自分でも忘れかけていた、花に由来する名を答え、私はお返しにこう訊いた。
「お前の、名は?」
「…………トラッシュ。トラッシュって、呼ばれてた」
「トラッシュ……それは『ごみ』という意味ではないか! それはひどい……」
すぐ目の前で、音もなくくちびるを噛む気配がする。私は手さぐりで少年の肩を優しくなぜて、ふと思いついてこう告げた。
「それでは……ラッシュ。お前は今日から、ラッシュと名乗れ」
「……はは……そんなん、ぼくの名を呼ぶのはもうあなたしかいないのに……」
「アイリス。――アイリスと、そう呼んでくれ」
「……アイリス。愛してるよ、アイリス……」
目の前のほうたい越しの薄闇が、またぱっと白く爆発した。私はいきなり飛び上がり、狭い家の別の部屋に駆け込んだ。
「――アイリス? どうしたの、アイリス……?」
閉めた扉の向こうから、ラッシュの声が響いてくる。だめだ、だめだ。初めて本当の名を呼ばれ、初めて愛していると言われて、今――見たい、お前の顔が見てみたい。私は思わず目のほうたいに手をかけて、その手を自分の手で押さえ、血の出るほどにつかみしめて必死で叫ぶ。
「――来るな!!」
「何で? ねえ何で、いきなりどうしたの、アイリス……!?」
「呼ぶな!! 来るな!! ……来ないでくれ、呼ばないでくれ……!!」
見たい、愛しい、愛しい、見たい。
私は扉にきつく手をかけ、ラッシュが来れないようにして、そのままむせび泣きだした。ほうたいが濡れてにじんで蒸れて、もう百年開けたことのない両目が、たまらなく気持ち悪かった。
* * *
それからは冷たい日々だった。
……もう一週間、ラッシュと『顔を合わせて』いない。ラッシュは何も知らぬまま、自分は嫌われたのだと思い込んでいるのだろう。このままではいけない。このままでは――。
「ラッシュ……そこにいるのか?」
「アイリ……お姉さん、いるよ! ぼくはとなりの部屋にいる……!!」
「そうか……それでは、もうじきお前をここに呼ぶ。ラッシュ、と呼ぶから……それまでは、どんなことがあってもこちらの部屋に来てはならんぞ……」
「――? うん、分かった、わかったよ!!」
何も知らずにラッシュが誓い、私は目隠しのほうたいに手をかける。百年ぶりにほうたいを解き、百年ぶりに目を開けた。……古ぼけた鏡の向こう、赤い目の自分が映っている。
皮肉なものだ、自分に自分の邪眼は効かないのだから。……白く細い体、古ぼけて少し黄ばんだワンピース、これが、この姿が……ラッシュが「綺麗だ」と言ってくれた、この私の姿なのか。
私は少し微笑ったあとで、自分の瞳に手をかけた。細い指先を、尖った爪を、ぎりぎりと、ぎりぎりと、赤い両目に喰い込ませる。
「――ぐ! ぐああ……っ、ああっ……!!」
「お姉さん!? お姉さん!!」
「――く、来るな……来てはならんぞ……!!」
痛い、熱い、痛い熱いいたいあつい痛いいたいいたい!!!
呻きと嗚咽を押し殺し、邪眼を両目ともえぐりとり、我と我が指で押し潰し、元のとおりにほうたいを巻く。痛みが少し収まってから、ようやくとなりのラッシュを呼んだ。
転がり込むように駆け込んできたラッシュの息を呑む音が、ごくりと耳に重く届いた。
「――なんで? どうして、お姉さん……!?」
赤く血に濡れたほうたいを見て、そうおののいているのだろう。だから私は鉄臭い指をさし伸ばし、ラッシュの見えない首を抱いた。
「好きだから。お前を愛しているからだ。……ラッシュ、私はお前の姿を見たいと思った。見たら死ぬのも分かっていた。けれど見たい、見たい想いはふくれあがって、いつかきっと抑えきれなくなるだろう。そうして見てしまって、お前が死んでしまったら、私は狂ってしまうだろう。だから……だから……」
続きはなかった。ふたりとも言うべき言葉を知らなかった。血なのか、それとももっと塩辛い何かか、そもそも眼球を失って、涙が出るものなのだろうか。何も分からず、何も言えずに、ふたりはただただ抱き合って、赤いものと透けるしずくをこぼしていた。
* * *
それからは、甘い赤い闇の中、ふたりっきりの生活だった。『メデューサ』が邪眼を無くしたことを、ふたり以外に誰も知らない。私たちは周囲の者の恐れをいいことに、この森のあばら家を唯一の桃源郷として、それから百年を生きていた。
……だが、時の流れは残酷だった。ラッシュはやがて年老いて寝たきりになり、「君の瞳が、見たかったなあ」と言い遺し、あまりにもあっさり世を去った。
遺されたのは、森の奥のあばら家と、邪眼を失った魔物一匹。森にはもう誰ひとり訪ねて来ず、迷い込んでも来なかった。私はもう何も物言わず、何も見えず、死なないていどに手さぐりで泉の水を飲み、嫌々ながら木の実をつまみ、腐らない死体さながらに生きていた。
――数百年が過ぎた。もう自分以外に物言う命があることも忘れたころに、ひとりの旅人がやって来た。
「やあ、またいや増しにぼろっちくなったなあ! ……おおい、いるかい? ぼくのハニー!」
声が。あまりにもなつかしい声が聞こえて、私は椅子に掛けたまま、声もなく身をこわばらせた。赤い闇の中、声はだんだん近づいてきて、そっと私のほこりの積もった肩に手を置いた。
「――やあ、久しぶり。生まれ変わって来たよ、ラッシュだ。ぼくは二十二年前、遠く海の向こうの国で生まれてね……異国の怪物の話を、両親から寝物語に聞いた時、すべてを想い出したんだ」
信じない。信じられない、そんなこと……黙って首をふるだけの私の耳に、なつかしい声が染みて、しみて、胸の奥までにじんでいく。
「でもその時はえらく子どもだったから……ぼくは十二になるまで待って、ある夜に家出して旅を始めたんだ。そうして旅に旅を重ねて……たった今、君の目の前にいるって訳だ。おみやげもあるよ、旅のとちゅうで手に入れた『使える義眼』だ。これで君は、何でも見えるようになるよ……」
そこでつっと言葉を切って、旅人は愛しげな声でささやいた。
「――アイリス」
もうたまらなかった。もう違うとは言えなかった。涙なしで泣きながらすがりつく私の目元をそっと切り裂き、転生した愛しいひとは『使える義眼』を柔らかく、優しく、私の眼窩へ押し込んだ。
少し流れた熱いものをふき取って、赤く染まったハンカチを手に、目の前の旅人は微笑んでいた。微笑みながら、涙していた。
そばかすだらけの浅黒いほお。つぶらすぎる萌黄の瞳、そうしてちょこんと低い鼻……私は彼に抱きつきながら、その耳元でささやいた。
「――きれいだ」
塩辛い熱いしずくを流しながら、私は心からこう言った。いつか、このひとに言われたように。
「――とても、きれいだ」
今まで耳に入っても、少しも聞こえていなかった小鳥の声がちりちり聞こえて、ふたりの泣き声がそれにかぶさり、私たちはきつくきつく抱き合って、生まれたばかりの赤子のように泣き続けた。
(完)