婚約破棄を回避するために『真実の愛』を求めるおしゃまな令嬢のお話
「『真実の愛』を見つけに行きたいんですの!」
王都にある貴族向けの喫茶店。そこに室られられたテラス。高台にあるそのテラスからは王都の町並みが見渡せる。
そのテーブルの一つに一組の男女が向かい合って座っていた。
子爵子息サーベナート。17歳の青年だ。細身に見えるが弱々しい印象はまるでない。戦いに身を置く者ならば、そのぶれない体幹に隙の無い様から、鍛え研ぎ澄ました剣の使い手と見抜くことだろう。その在り方はまるで優美なサーベルのようだ。鋭い蒼の瞳は整った顔立ちを精悍に見せる。王家直属の騎士と言っても通用しそうな美丈夫だった。
男爵令嬢エストレティア。12歳の少女だ。肩までとどくふわふわとしたハニーブロンドの髪に、きらきらと輝く瞳は緑。整った顔立ちは、やがて花開く予感を感じさせる。だが、今はうつくしさよりかわいらしさが勝る。恋に夢見るお年頃といった感じのかわいらしい少女だった。
二人は婚約関係を結んでいる。今こうしてテラスで同じテーブルについているのも、週に一度、婚約者の義務としてお茶の席を共にすることになっているからだ。5歳の歳の差のある二人は、婚約者と言うより仲の良い兄妹に見えた。
貴族の婚姻は家同士の契約だ。婚約者同士の年齢差が開いていることは珍しくない。それに5歳という年齢差は十代の頃には大きなものだが、二十歳を過ぎるころにはそうでもなくなる。二人の婚約はまだ恵まれている方と言えた。
その婚約者の義務としてのお茶会の場で、小さな婚約者から突然妙なことを言われて、サーベナートは困惑の表情を浮かべながら問い返した。
「あの……エストレティア。『真実の愛』とはどういうことですか?」
「わたくし、男女の仲について勉強しましたの!」
そう言ってエストレティアはテーブルの上に分厚い本を3冊も置いた。テーブルの脇には大きなカバンがある。どうやらこれらを持ってくるためだったらしい。
背表紙に書かれたタイトルはいずれも『婚約破棄』という言葉が含まれており、どうやら恋愛小説のようだ。
「殿方は『真実の愛』を見つけてしまうと婚約破棄してしまうそうですの!」
エストレティアはこの世の真実を語る予言者のように言った。
サーベナートは思わず天を仰いだ。小さな婚約者が世に出回る恋愛小説に感化されてしまった。
サーベナートは昨年から貴族の学園に通っており、そうした小説が貴族令嬢の間で流行っていることを知っていた。
「私は真実の愛を見つけた! 残念だが、君との婚約は破棄させてもらう!」
婚約破棄ものの小説は、こうしたセリフから始まることが多い。
理不尽に婚約破棄を宣言されてヒロインは、しかしその身に持った才覚や新たな出会いによって幸せをつかみ取る。一方、ヒロインを虐げた元婚約者は、その愚かしさに見合うひどい目に遭う。
学園の令嬢たちがその物語の数々に心酔しているのを見かけたこともある。しかしまさか12歳の婚約者まで同じことになるとは思わなかった。
それでも、娯楽として楽しむ分には文句はない。だが現実と混同するなら看過できない。
「それは小説の中だけの話です。そもそも私は君のことを大切に思っています。他の女性に浮気することなどありません」
サーベナートは言葉を選びながら否定した。「現実と小説を一緒にするな」とたしなめたいところだったが、恋愛に関して女性を頭ごなしに否定することは非礼なことだ。時に危険なことでもある。そもそも彼は、この年若い婚約者を大切にしようと思っていた。
だがそんなサーベナートの気遣いに対し、エストレティアは悲し気に首を横に振った。
「ああサーベナート様。あなたのことは信じていますわ。でも『真実の愛』とは強く激しいもの。あなたのような清廉潔白な紳士であろうとも、『真実の愛』を見つければ、容易に抗えるものではありません。わたくしはそれを知っていますの」
「あなたとの婚約を大切にしようと思っています。たとえ誰かに誘惑されようとも、貴族の子息として毅然と断ってみせます」
「貴族の子息であること。それが問題ですの。例えば、高位貴族の令嬢との間に『真実の愛』を見つけたら……それでもあなたはこの婚約を守り続けることができますかしら?」
そう言われるとサーベナートは言葉に詰まる。この幼い婚約者は、時々驚くほど大人びたことを言う。こんな風に返答に困ることはしばしばあるのだ。
エストレティアは男爵家の娘だ。サーベナートの子爵家と商業的に互いを補えるということでこの婚約は結ばれた。サーベナート自身も幼い婚約者を大切にしようと心に決めていた。
だがもし、高位貴族の令嬢がサーベナートを見初め、結婚を迫ってきたらどうなるだろう。男爵家との婚約より大きな利益が見込まれるとなれば、子爵家は上位貴族との婚約に鞍替えするかもしれない。サーベナート自身が断ろうとしても、高位貴族からの要求を撥ね除けるのは容易なことではない。対応を誤れば家が取り潰しになることすらある。
実際、貴族の学園でもそうした噂を耳にすることはある。仲睦まじく過ごしていた婚約者たちが、ある日突然、離縁する。そうした時は決まって貴族の家の勢力争いが噂にのぼるのだ。
権謀術数渦巻く貴族社会で、個人の意志だけで婚約を守ることは簡単なことではない。
「私はあなたに対して誠実であろうと心に決めています。他の女性に心乱されることはありません」
現実を知るサーベナートは、「この婚約は絶対だ」とは言えなかった。虚言で婚約者を騙すこともしたくなかった。これがサーベナートの示せる精一杯の誠意だった。
その言葉を受けて、エストレティアは花のように微笑んだ。
「ああ、サーベナート様。あなたのその誠実さが大好きです。だからこそ、あなたとの婚約を大事にしたいんですの。わたくし、考えましたの。『真実の愛』を見つけて婚約破棄がなされるなら、先にわたくしたちで『真実の愛』見つけておけばいいのです! そうすれば、婚約破棄の危機はなくなりますの!」
エストレティアは得意げな顔で言い切った。
『真実の愛』とやらを見つければ婚約は絶対のものになると思っているらしい。先ほどは大人びたことを言っていたのに、その解決方法は子供っぽかった。
「でも『真実の愛』を見つけると言っても、どうすればいいんですか?」
サーベナートも男女のやりとりについてはそれなりに知っている。だが『真実の愛』を見つける手段と言われても見当がつかない。愛を語って熱い口づけでも交わせばいいのだろうか。だが12歳のエストレティアに対しては、さすがにまだ早すぎるように思われた。
「ちゃんと調べてありますわ!」
そう言ってエストレティアが取り出したのはガイドブックだった。王国は最近、観光業に力を入れつつある。その一環としてこうした情報誌が出回るようになっていた。
エストレティアはすぐさま目当てのページを開いた。何度も開いた跡がある。そうとう読み込んでいるようだ。
そこに記されていたのは、『真実の愛の神殿』とある。王都から少し離れた森の中に先史文明の神殿があるらしい。その神殿で愛を誓い合えば、その愛は『真実の愛』となるとの宣伝文句が書かれていた。
その記事はガイドブックの後ろの方で、しかもページ半分しかとられていない。どうやら人気スポットというわけでもなく、マイナーな観光地のようだ。
「今度のお休みに一緒にいってくださいませんか?」
そう言われてサーベナートは迷った。そろそろ次の試験の時期が近付いている。今度の休みはその勉強に当てるつもりだった。
それに『真実の愛の神殿』という呼び名が胡散臭い。まるで最近の恋愛小説の流行りに合わせてつけたような、安易な名付け方に思える。貴重な休みを費やしてまで行く価値がある場所とは思えなかった。
「心配しないでください。こんなところに行かなくても大丈夫ですよ」
「やはり学園がお忙しいのですね……」
エストレティアは恨みがましい目をサーベナートに向けた。だがそれもわずかの間のこと。すぐにエストレティアは視線を下げてしまう。
そこでようやくサーベナートは彼女の不安の正体に気づいた。
このところ、お茶会で話題に出すのはもっぱら学園での出来事についてだった。エストレティアも細かな質問してきた。将来入学する学園に興味があるのだと思っていた。でも、それだけではなかったのかもしれない。
婚約者と同じ学園に通えないことを、きっと寂しく思っていたのだ。思えば学園の行事でこのお茶会を休まざるを得ないことも何度かあったのだ。
学園にかまけて婚約者を蔑ろにしては、紳士失格だ。サーベナートは自分を恥じた。
「正直に言いますと、今度の休みは試験の対策をしようと思っていました。試験は大事ですが、あなたと比べられることではありません。わかりました。『真実の愛の神殿』に行きましょう」
サーベナートがそう告げると、エストレティアははにかんで笑った。かわいらしい笑顔だった。この幼い婚約者を大事にしなくてはならない……サーベナートはそう、決意を新たにするのだった。
次の休みになり、二人は『真実の愛の神殿』に向かった。まずは近くにあるシルライナの村に行った。村の中の受付で参拝料を払わないと『真実の愛』は手に入らないらしい。サーベナートはこの神殿がますます胡散臭く思えたが、エストレティアが楽しそうにしているので口にはしなかった。
受付で参拝料を払うと、『真実の愛の神殿』について簡単な説明を受けた。
もともと、神殿のある森は神聖な場所として立ち入りが禁じられていた。だがそれも昔の事。時を経てその教えも薄まったころ、ある冒険者バーティーが探索に向かい、そこで神殿を発見した。初めて見つかった遺跡と言うことで冒険者パーティーは色めきだったが、特にめぼしいものはなかった。そしてただのありふれた遺跡として忘れされられていた。
近年になり、ある学者の研究により、この神殿が愛の女神を祀っていたものだということがわかった。そして村長が『真実の愛の神殿』として宣伝したのである。
そんな説明を受けた後、魔物よけの護符を渡された。森には稀に魔物が現れるが、この護符を持っていれば大丈夫とのことだった。
「思ったよりしっかりとした道ですね」
サーベナートとエストレティアの二人は神殿へ向かう参道を歩いていた。鬱蒼とした森の中だというのに、その道は石畳で舗装されている。石のすり減り具合から見て相当な年季を経ていることが伺えた。
ガイドブックによればこの道は30分ほど続くらしい。長らく人が足を踏み入れなかったということで険しい道ではないかと思っていたが、観光地になるだけあって往来は気楽なものだった。
他の参拝客はいないようだ。時期が良かったのか。あるいはまだまだ知名度の足りない観光地ということかもしれない。
「そ、そうですわね」
答えるエストレティアは辺りをきょろきょろと見回して落ち着かない。
「どうしたんですか、エストレティア? 随分と緊張しているようですが……」
「だって……魔物が出るかもしれないのでしょう?」
「心配することはありませんよ。魔物が出ても私が全て倒して見せます」
サーベナートの言葉にはおごった様子はまるでなかった。彼はそれだけの実力を備えているのだ。
サーベナートは王家直属の騎士になることを目指し鍛錬を重ねている。腰に佩いたサーベルは飾りではない。その剣技は現役の騎士にも引けを取らないと言われる実力者だ。魔力も高く、高レベルの攻撃魔法を扱うことができる。
訓練ばかりではなく、魔物討伐の実践演習を何度も経験してきた。回復魔法がやや苦手という欠点はあったが、その戦闘能力は十分なものだ。
『真実の愛の神殿』の周辺状況については事前に調べてある。ここ数年は魔物の目撃報告すらない。そうした場所は、魔物が出るとしても低級なものに限られる。
村の受付で渡された魔物よけの護符は一般的なものだがその効果は十分だ。低級な魔物ならまず寄ってこない。それでも万が一に備えてサーベナートは探知の魔法を使って周辺を警戒している。
「わ、わたくしだって戦えますわ。そのために『単なる魔弾』を持って来たんですから」
そう言ってエストレティアは右手に付けた指輪を見せた。
『単なる魔弾』とは一発だけ魔弾を放てる使い捨ての魔道具だ。威力は大したことはないが、呪文詠唱無しで即座に発射することができるという利点がある。貴族令嬢が護身用に持つことも多い一般的な魔道具だった。
「それは頼もしい。でも、どうかここは私に任せてください。私は騎士になるのですから、婚約者のことは自分の力で守らなければならないのです」
「サーベナート様のお力はよく知っています。ええ、信頼していますとも」
そう言ってエストレティアは怯えた様子を引っ込めて、すまし顔を見せた。でもマントを握る手はぎゅっと力がこもっている。彼女は街暮らしの貴族だ。やはりこういう場所は怖いらしい。
婚約者のかわいらしい様子にサーベナートは思わず笑みを漏らした。
「何を笑ってますの?」
「いえ……私の婚約者はかわいらしいと、改めて思ったのです」
「ば、バカにしてますのね? もうっ!」
エストレティアはぷいっと顔をそむけた。でもマントを握る手はしっかりとしたままで、実に微笑ましい意地の張り方だった。
そんなかわいらしい婚約者を眺めながら、サーベナートはこの観光地の作りのうまさに感心していた。
『真実の愛の神殿』に赴く者は、魔物よけのお守りを渡される。ほとんど危険は無いと思っても、神殿までの道中は不安があるだろう。若い男女がそんな道を身を寄せ合って進めば、仲が深まるに違いない
あの村にはなかなかの知恵者がいるようだった。『真実の愛の神殿』などという名前は胡散臭いと思ったが、いずれは観光地として人を集めるようになるかもしれない。それならこの神殿もそれなりのものであるかもしれない。サーベナートは少しだけ、これから向かう場所への認識を改めた。
「なかなか趣がありますね……」
参道の行きついた先。神殿にどりついたサーベナートは、思わず感嘆の息を漏らした。
「神殿」と言うより、「神殿跡地」と言った方が相応しい有様だった。
建物のほとんどは崩れており、土台だけが辛うじて残っているという状態だった。それでもその場所は広大であり、その残った残骸だけでも荘厳な神殿だったことが伺える。
形を保っているのは、中央にあるドーム状の建物だけだ。村の受付での説明によれば、それが愛の女神を祀る聖堂であるらしい。
荒廃は進んでいるわりに、建物の残骸には蔦が伸びたり苔が生えたりしていない。草木の浸食を許さないその場所は、どこか神聖な空気が立ち込めていた。
「さあ参りましょう! 『真実の愛』を手に入れますわよ!」
先ほどまでの怖がっていた様子が嘘のように意気揚々とエストレティアは進む。サーベナートは隣に並んで歩いて行った。
近くで見ると聖堂は思ったよりきれいであることが分かった。石壁にはところどころひびが入っているが、作りはしっかりしている。崩壊の心配はなさそうだ。建物の中に入ると意外と明るい。採光用の窓から光が降り注ぎ、森厳とした雰囲気を演出していた。
屋内のおかげか床石も意外と綺麗な状態になっている。床にはがれき一つ落ちていない。きっと村の人間が観光地とするため定期的に掃除しているのだろう。
聖堂の奥には両手をひろげて温かな微笑みを浮かべる女神像がある。ショートヘアの髪もその顔かたちも、王国が信仰している女神の姿とは違う。この神殿を研究した学者の言葉が正しければ、遠い昔の文明が信仰していた愛の女神なのだろう。
聖堂に入ると魔法による探知が上手く働かないことに気づいた。この場所自体に何らかの魔法的な装置が組み込まれているとは聞いていたが、探知の魔法が効かなくなるとは予想以上に高度なものらしい。
サーベナートは念のため周囲を警戒したが、生き物の気配は感じられなかった。ここは観光地だ。人の出入りがある場所に野生の獣はそうそう近づかないだろう。
気づけば、エストレティアがこっちをじっと見ていた。サーベナートは頭を振った。ちょっと町を出たからと言って少々気を張りすぎた。これではエストレティアが楽しめない。
この場には危険はない。サーベナートは警戒を緩め、エストレティアに微笑みかけた。そして二人で『真実の愛』の儀式を始めることにした。
女神像の前には台があり、そこには手の形をした紋章が彫られている。
そこに手を当てて、永遠の愛を誓うのだ。
「誓いの言葉は憶えていますわよね?」
「ええもちろん。忘れたりしませんよ」
サーベナートは苦笑した。事前にしっかり練習させられた。もともと難しくも長くもない言葉だ。練習などしなくても間違えることなどなかっただろう。
二人で台に手を当てる。そして練習通りに誓いの言葉を紡いだ。
「わたくし、エストレティアは、婚約者サーベナートへの愛が真実であるとここに宣誓します」
「私、サーベナートは、婚約者エストレティアへの愛が真実であるとここに宣誓します」
そして二人で台に魔力を込める。すると女神像も淡い燐光に包まれた。
その仕掛けについては事前に知っていた。かつてこの神殿を作った文明にとっては神聖な儀式だったという。だが魔法省が調査した結果としては、ただ魔力に反応して発光する石を使った単純な仕掛けとのことだった。
だが、聞くと見るでは大違いだった。
ただの石像でしかなかった女神像が、今はまるで息づいているかのような存在感があった。女神像の纏う燐光には神々しさすら感じられた。
採光窓からの光がこの場に神聖な空気を生み出し、女神が燐光を纏う仕掛けがそれを更に高める。この聖堂全体が、その信仰を高みへ導くために作られているのだ。
先史文明の者たちは、その時代の最高の技術をつぎ込み相当な手間をかけてこの聖堂を作ったに違いない。この女神は当時は相当な信仰を集めていたのだろう。サーベナートはこの場を作り上げた者たちとその努力に対して敬意を抱かずにはいられなかった。
しばらくするとその燐光は収まった。二人が込めた魔力が尽きたのだ。
燐光が収まると、先ほどの神聖な空気は失せ、元の荒廃した神殿跡へと戻った。
「これで『真実の愛』が手に入りましたわね!」
エストレティア心底嬉しそうに笑った。
サーベナートはそれを微笑みで受け止めた。余計な言葉を言ってしまっては、この場の神聖な空気が乱れてしまう。
だがエストレティアは神聖な空気より、嬉しさの方が勝っているようだった。興奮した様子であちこち見て回った。
「それにしても不思議ですわね。ガイドブックにはただ魔法に反応して光る石を使ってあるだけだと聞きましたが、まるで女神様が本当に降臨されたかのようでした!」
横に回ったりしゃがんで見上げたりしながら、エストレティアは女神像を様々な角度から眺めていた。
「やめてくださいエストレティア。不作法です。それに罰が当たるかもしれません」
サーベナートはこの場を作った者たちに敬意を払うべきだと思い、エストレティアを咎めた。
だが「罰」などという言葉を使ってしまうあたり、冷静なつもりの彼も場の雰囲気にすっかり感化されてしまっていた。
「はい、わかりましたわ」
そう言ってエストレティアが戻ろうとしたとき。彼女の足元から、カチリという音がした。
その瞬間、天井のどこかから魔力を感じた。機械の作動音。連動した魔力。それが意味するのは明白だ。
トラップだ。
「エストレティア!」
叫び、彼女の下に駆け寄る。天井のどこかから高速に迫る魔力の塊を見た。優れた動体視力を持つサーベナートは分かってしまった。このタイミングでは剣も魔法も間に合わない。
「きゃあ!?」
エストレティアが悲鳴を上げる。彼女から少量だが、血が飛び散った。
「『単なる魔弾』!」
混乱したエストレティアは魔道具を発動させた。詠唱なしで放たれた魔弾が天井の一部に炸裂した。
今の魔弾で他の罠が作動するかもしれない。サーベナートは彼女に覆いかぶさり我が身を盾とした。どうやら追撃はない。この場にいるのは危険だ。そのまま彼女を抱きかかえ、聖堂から走り出た。
「エストレティア、大丈夫ですか!?」
「うう……痛い……手が、手がっ……!」
エストレティアの左手の甲を深く裂かれていた。
迂闊だった。いくら観光地になっているからといって完全に安全とは限らない。安全を確認したはずの遺跡で、だれもが見落としていた罠が起動するという事故は、そう珍しいことではない。魔物の気配がないからと警戒を緩めるべきではなかった。彼女のそばにいるべきだったのだ。
悔やんでいても仕方ない。とにかくサーベナートは回復魔法を使った。だが彼は回復魔法が得意ではない。出血はどうにか止まったものの、傷口はほとんど塞がらなかった。
「少し我慢していてくれ!」
サーベナートは手早く応急処置をすると、エストレティアを背負って村へと走っていった。
エストレティアの傷は深いものの、命に別条があるものではない。それでも急がなくてはならなかった。
小さな村には教会があり、牧師が回復魔法を習得していた。すぐに治療してもらい、傷口は塞がった。後遺症も残らないとのことだった。
それでも、何もなかったことにはならない。回復魔法も万能ではない。
エストレティアの左手の甲には、生涯消えることのない無残な傷跡が残ってしまったのだ。
「君を守ると誓ったのに……すまなかった」
教会の一室の中。ベッドに腰かけるエストレティアに向けて、サーベナートは深々と頭を下げた。
「どうか顔をあげてください、サーベナート様……」
声に促されサーベナートは顔を上げた。
エストレティアは微笑んでいた。
「なぜ……君は笑ってくれるんだ……君に傷を負わせてしまった私は騎士失格だ。乙女の柔肌に一生残る傷跡をつけてしまった私は、婚約者としても失格だ……!」
自分の失敗を悔いるサーベナートに対し、エストレティアは微笑みを浮かべたままゆっくりと首を横に振った。
「サーベナート様、どうか自分を責めないでください。まだ罠があるかもしれなかったのに、あなたはためらうことなくわたくしのところに駆けつけてくれました。わたくしを負ぶって必死に村まで駆けてくれました。あなたは精一杯守ってくださった。だからこの傷跡を醜いとは思いません。この傷跡は、あなたがわたくしのために頑張ってくれた証なのです」
サーベナートは感動に打ち震えた。12歳の子供だと思っていた。自分が守られねばならないと思っていた。だがエストレティアは、サーベナートのことを慮ってくれる、尊敬すべき一人の女性だった。
サーベナートは愛すべき婚約者を見つめた。そして気づいた。エストレティアは温かな笑顔を浮かべている。だがその瞳は潤んでいる。その笑顔にもどこか陰りがある。
エストレティアは幼い少女だ。一生残る傷跡がついて悲しくないわけがないのだ。それでも彼女はサーベナートを励まそうと、けなげに笑顔を保とうとしている。
サーベナートは腰を落とした。片膝をつき。胸に手を当て、首を垂れた。それは騎士が最大限の敬意を示す時にする礼の形だった。
「婚約者エストレティアよ。私は今ここに誓う。君に永遠の愛を捧げる。この世が果てるまで君のことを守る。何者が相手だろうと、もう二度と君を傷つけさせない」
王に永遠の忠誠を誓う騎士のように、サーベナートは婚約者へ誓いを立てた。
エストレティアの瞳からボロボロと涙があふれ出た。それをぬぐいながら、それでも精一杯の笑顔を作って、
「はい、よろしくお願いいたします。サーベナート様……」
エストレティアは彼の誓いを受け入れた。
こうして二人は、婚約以上の深い絆で結ばれた。
サーベナートは、この事件の不自然な点に気づかなかった。
どれほど警戒厳重だろうと、聖堂の中に罠を仕掛けることはない。信仰すべき神の前で血を流すのは、大変な冒涜行為に当たるためだ。
不心得者から聖堂を守るのならば、聖堂の周辺か入り口付近に仕掛けるのが普通だ。聖堂内に、対象を束縛するでもなく、少し傷つけるだけの罠を設置するなど、通常ならありえないことだ。
婚約者を守れなかったという罪を負ったサーベナートはそんなことに気づく余裕などなかった。まして、それらが全てエストレティアの企みによるものだなんて、想像すらできなかった。
エストレティアはサーベナートのことを愛していた。
縁談で初めて出会った時から惹かれていた。彼の誠実な人柄が好ましかった。剣で鍛えた引き締まった身体が頼もしかった。自分に向けてくれる優しい笑顔が好きだった。
時折子ども扱いすることはあっても、婚約者として大事にしてくれた。付き合いを重ねるうちに恋心は育っていった。
子供の憧れではない。エストレティアは一人の女性として、サーベナートのことを真剣に愛していた。
大好きな婚約者がいてエストレティアは幸せだった。しかしそれゆえに心配事があった。
サーベナートは誠実な男性だ。彼は自身が善良であるがゆえに、人の善意を信じる。その代わり、人が当然持っている悪意への警戒が足りていない。
誠実で顔かたちも整っておりスタイルもいい。剣の腕が立ち魔力も高い。そんな素敵な婚約者を、狡猾な令嬢が誘惑するのではないかといつも心配だった。
叶うことなら彼と一緒に学園に通いたかった。しかし5歳の年齢差がそれを阻んだ。エストレティアは年のわりに頭のいい少女ではあったが、それでも12歳で学園に入学を許可されるほど卓越した才能を持っていなかった。
だからお茶会では学園生活に興味がある振りをして近況を細かく聞くことにした。
学園の状況を少しでも知るために恋愛小説もたくさん読んだ。学園に在学したことのある作者の書いたものを選んだ。物語自体は創作でも、学園の様子はそれなりに実物に近い物なのだと聞いたことがあったからだ。
恋愛小説を読みふけるうち、エストレティア小説で語られる『真実の愛』がなんなのかを覚った。
『真実の愛』とはつまり、色欲である。『真実の愛』を語る婚約者の浮気相手は、多くの場合、貴族の礼儀に縛られない、気さくで話しやすく、誰にでも笑いかけるような娘だ。つまりは性に対して開放的な女性ばかりだ。
人々の前で「性欲に負けた」などと言えないものだから『真実の愛』などという綺麗な言葉でごまかしているのだ。
もちろん小説だけを参考にしたわけではない。両親や屋敷の使用人たちにも話を聞いた。街に出かけた時は無邪気な子供を装い大人にずけずけと質問して、可能な限り男女のことを聞き出した。
だが、誰も同じようなことを言った。男性と言うもは女性の魅力に抗えない。それができる状況なら、男性は女性に手を出してしまうものなのだ。
時が経つにつれ、エストレティアの懸念は徐々に現実味を帯びてきた。サーベナートの語る学園の様子から、彼にアプローチする令嬢の姿がちらほら見えてきた。エストレティアの見立てでは最低3人の令嬢がサーベナートのことを狙っている。それなのに彼は警戒するどころか気づいてすらいないのだ。
サーベナートに警告したところでうまく立ち回れるとは思えない。そもそも5歳の年下の子供が男女関係について注意を促したところで、「かわいい焼きもち」と思われて真剣にとりあってはもらえないだろう。
高位貴族の令嬢に見初められれば、貴族としては爵位の低いエストレティアにできることは無くなる。
そんなことは嫌だった。初めて愛した人を失いたくなかった。エストレティアは真剣にサーベナートのことを愛しているのだ。
だから。エストレティアは策を仕掛け、彼が逃れられない理由を作ることにした。
そこで選んだのは『真実の愛の神殿』に行くことだ。サーベナートは年下の婚約者のかわいいおねだりとして同行してくれるはずだった。
サーベナートの剣の腕は確かなものだ。できるだけ彼が油断する状況を作らなければならなかった。神殿はそういう意味でちょうどいい場所だった。魔物が出没するかもしれない道中は警戒し、神殿に着けば気が抜けるだろう。
神殿には予め、任意で発動する罠の魔道具を仕掛けておいた。靴には魔力を込めると音の出る仕掛けをしておいた。靴から「カチリ」と音を立てると同時に魔道具を作動させれば罠に見えるはずだ。放たれた魔力の刃は、自動追尾でにエストレティアの左手の甲を深く斬りつけるようにしてあった。
魔力の刃は狙い通りエストレティアを切り裂いた。そして動揺した振りを装って、『単なる魔弾』で罠を破壊した。その残骸は人を使って回収させる手はずになっている。まずバレることはないだろう。
エストレティアが傷を負ったことについては、シルライナの村には口止めするよう願い出た。表向きの理由は、エストレティアの名誉のためだ。傷を負ったうわさが広まれば貴族令嬢の評判は大きく落ちることになる。
しかし真の狙いはことを大きくしないためだ。下手に騒ぎが大きくなり専門の人間が本格的に調査すれば、企みが露見するかもしれない。
『真実の愛の神殿』を観光地としたいシルライナの村は、目論見通り事態の隠ぺいを図ってくれた。そもそも貴族の令嬢を不手際で傷つけたなどと公表できる平民がいるはずもない。
それにもともとシルライナの村には、エストレティアの男爵家から融資していた。二人が訪れた時に参拝客がいなかったのは、事前に二人きりになれるように村の受付に取り計らってもらったからだ。そんな村がこちらの要望を受け入れないはずがなかった。
企みは成功した。サーベナートはエストレティアが傷を負ったことを自分のせいだと思い込んだ。そして一生かけてエストレティアを守ると誓った。
騎士を目指す彼が、騎士の礼法で誓ったのだ。学園の令嬢たちがいかに誘惑しようと彼を射止めることはできないだろう。騎士の誓いは極めて強力な自己暗示であり、男性の本能に抗いうる数少ない手段の一つだ。
高位貴族の令嬢が強引に関係を迫る可能性も低い。いかに魅力を見せようとまったくなびかない貴族子息に対し、強引に関係を迫る高位貴族の令嬢などまずいないはずだ。
もしサーベナートが真相を知ればどうなるだろうか。彼はおそらく離れないだろう。彼のことを手放さないために、自ら消えない傷を負った令嬢を見捨てる――優しいあの人に、そんなことができるはずもない。
エストレティアの愛は、他人から見れば醜いものかもしれない。だが醜くても消えないものならそれでいい。この左手の傷のように、彼をつなぎとめられるなら美しさなどどうでもよかった。
自分の身を犠牲にしてでも愛する人をつなぎとめる。それこそが、エストレティアがあの神殿で手に入れた『真実の愛』なのだ。
終わり
婚約破棄の定番セリフ「『真実の愛』を見つけた! 君との婚約は破棄させてもらう!」。
『真実の愛』を見つけて浮気してしまうのなら、事前に見つけておけばそれを防げるのかもしれない。
そんなことを考えてあれこれ設定を組み上げていったらこういう話になりました。
ヒロインが12歳とは思えないほど覚悟の決まった感じのキャラになってしまいました。
お話づくりはやっぱり難しいです。
2024/11/26 22:10頃
誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!
2024/11/27
誤字指摘ありがとうございました! 読み返して気になったところもいろいろと修正しました。
2025/1/12
誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!