お札陰謀論の噂
ママ友の里美さんは、変人だった。数年前からワクチンの陰謀論にハマり、今日も変な事を言ってた。
「日本で発行されているコイン、五百円、百円、五十円、十円、五円、一円。この数字を足すとなんと、六六六という悪魔の数字になるのです! 聖書に書いてあるあの悪魔の刻印の数字! これは日本政府と悪の組織イルミナティの陰謀よ」
下らない。
私は里美さんの変な言葉に相槌を打ったが、会話は全く噛み合わず、帰って来てしまった。せっかく近所のオシャレなカフェに行ったが、里美さんの変な陰謀論を聞かされた。どっと疲れた。
他にも秋からのワクチンで死ぬとか、サル痘パンデミックが予定されているとか、トランスヒューマン化してムーンショットされるとか、頭が痛い。全部嘘、デマ、噂の類いだろう。聞いているだけで、里美さんの頭の悪さに辟易としてきたが。
「恵子さん、今、単なる陰謀論って思ったでしょ? この言葉も悪の組織が作ったもので、現実化する事も多いんですから」
「はいはい」
私はそう言うと逃げるようにカフェを出て雑務をこなす。主婦は忙しい。息子の習い事用の金を下ろさないと。
「は? 何このお札は……」
コンビニのATMで下ろした一万円札には、変な落書きがしてあった。まだ諭吉さんのお札だが「秋にグレートリセットがある・食糧備蓄を秋までに済ませ・ワクチンは打つな」と書いてあった。ハンコか何かで押したものらしい。一応活字だったが。
「何これ、また陰謀論? 勘弁してよ……」
確かお札に落書きするのは犯罪だったはずだ。里美さんの変な言葉も思い出し、私はため息をつく。
今年の夏は暑い。きっと暑さでやられている人も多いのだろう。そう思えば里美さんも「可哀想な人」だから、怒る気にもなれなくなった。
「忘れよう。こんなの全部証拠ない噂でしょ……」
私はお札を財布に入れ、コンビニを後にした。
その数日後だった。母方の祖母が死んだ。ちょうどお盆で家族で帰省する予定もあったが、突然の事だった。
祖母は九十八歳。長寿だ。実際、死ぬ間際まで認知症もなく、元気だったらしい。車椅子は使っていたが、それ以外は全く健康で、親戚一同悲しみに暮れていた。突然死は家族も心の準備が出来ず、より辛いものがある。
私も悲しかったが、気落ちしている母のために数々の雑務をこなし、あっという間に実家で数日が過ぎた。葬儀も終わり、とりあえずホッと一息ついている時だった。
夜中、祖母が使っている部屋から物音がしてきた。バリアフリーのリフォームはされているとはいえ、木造の古い家だ。風で柱でも軋んだんだろうが、気になってしまい、眠れない。
「何なの? 風?」
私は祖母の部屋まで行き、灯りをつけた。祖母が倒れた時とほぼ同じ状態の部屋。畳の六畳間にベッド、箪笥、ちゃぶ台、テレビ、座布団がある。
音の正体は不明だった。急に音が聞こえなくなり、ちょっと怖くなってきた。私は幽霊とか見えない存在は信じないけれど。
「うん、何これ?」
ふと、ちゃぶ台に目を向けると、古い紙が置いてあるのに気づく。茶色く変色し、朽ちかけていた紙だったが、戦時中のものらしい。
「は? 何この紙。空襲ビラ?」
紙には空襲が来る日付が書かれており「逃げろ!」という警告文も。東京大空襲の日付けもあり、目が丸くなってしまう。古紙の匂いが鼻につく。これは偽物では無さそうだが。
「どういう事?」
この紙が気になった。悪いと思いつつも祖母の日記帳を見てしまった。数日前、この空襲ビラについて思い出している記述があった。
当時、このビラはデマ扱いされていたらしい。ビラに毒が塗られているという噂もあった。しかも持っているだけで捕まってしまう。それでも祖母は内心、「お国の為に死ぬなんてバカらしい!」と思っており、このビラを信じたという。晴れて空襲を逃れ、生き延びられた感謝も綴られていた。
「まさか、空襲ビラなんて……」
『ふふふ、確かに噂は九割嘘。でも、ごくごく稀に当たる事もあるわよ?』
「え、おばあちゃん!」
目の前に祖母がいた。笑っていた。幽霊のように全く怖くはないが、腰を抜かしそうになる。
『あんたは死ぬなよ。どんな酷い世の中になっても私みたいに何としても生き延びるんだよ。じゃあね、元気で!』
祖母は笑顔のまま消えて行った。
「何だったの、今の……」
その後、全く祖母の姿は見なくなった。勘違いか幻だったのだろう。それでも最後の笑顔の祖母を思い出すと、いつまでも悲しんでいるのは違う気もする。
「はあ、またお札に変な落書きされてるよ」
秋に入った頃、またお札に落書きがされているのに気づいた。今度は「もうすぐ終末だ・世界が終わる前に聖書を読んで備えろ」とあった。
「まあ、噂でしょ?」
それでも万が一という事もある。祖母の空襲ビラのように。
「ちょっと里美さんに聞いてみようかね?」
私はあのママ友に連絡をとっていた。