1 幼馴染の黒木昭子が教室に来る
月曜日の昼休み。数学係の私は、クラス全員分の練習ノートを回収していた。チャート式問題集を練習ノートに解くことが、毎週末の宿題だった。
回収途中、体育教師が教室に入る。騒がしかった声が小さくなり、クラスの目が教師に集まる。昼休みの教室は、生徒だけの空間になるため、教師の存在は少し歪だった。しかし、五時間目の授業が体育から保健に変更することを伝えるとすぐに出て行った。
入れ違いに、弁当袋をぶら下げた黒木昭子が教室に入った。
「この雨だもん。仕方がないよね」窓を見ながら息を吐く。そして当たり前のように、私の机の上に弁当袋を置き、前の席の椅子を引く。
「急にどうしたの?」
「たまに結月と一緒に食べないと禁断症状が出ちゃうの」
「私はタバコやアルコールじゃないよ」
「知ってる」軽やかに言われるので、閉口した。
「どうして急に雨って降るんだろうね」返事をしない私を気にした様子もなく、昭子は窓際に行き視線を落とした。「最悪」
私も明子の隣に立つ。朝から灰色の雲が空を覆っていたが、四時間目の授業の途中でスコールのような雨が降りだした。今も激しい雨がグラウンドを打ちつけ、円形の波紋を描いている。白く重たい靄がかかっており、グラウンドの奥にある部室棟の輪郭がぼやけていた。窓を閉め切っているため、教室はとても蒸し暑い。
「今日じゃなくて、明日降ってくれればよかったのに」昭子は口を尖らせた。
「どうして?」
「今日だと体育館であるから、部活が休みにならないの。明日は外練だから、明日降ってくれると、部活が休みになるってわけ」
「なるほどね」私は納得した。私の通う高校は体育館が狭い。そのため体育館を使用する部活動は、曜日ごとに交代で使用していると以前聞いたことがあった。確か月水金に体育館を使用できるのが、バドミントン部と卓球部。火木がバレーボール部とバスケットボール部だったはずだ。バドミントン部に所属する昭子は、月曜日の今日雨が降っても、体育館で部活動を行うため休みにならないのだ。
「結月も部活あるよね?」昭子が質問をする。
「あるよ、バドミントン部は雨が降ろうが槍が降ろうが関係ないからね」
「じゃあ、六時までずっと学校にいる?」
「いるよ」
「六時まで校舎内にいるってことね」
「そうだね」しつこい念押しに疑問をいだきながら肯定すると、昭子の目が少し輝いた。
「良かった!じゃあ、部活が終わったら、教室にいて。迎えに行くから」
「いいけど」頭を縦に振る。が、戸惑っていた。高校生になり、クラスと部活動がバラバラになってから、今まで一緒に帰っていなかったからだ。「突然、どうしたの?」私は疑問を口にする。「ご飯を食べに教室に来たり、一緒に帰ったり、今までなかったでしょう」
「なかったっけ?」昭子はとぼける。
「なかった」と断言する。「高校生になってから、この数か月一度もなかった」
「寂しかったの?」昭子は小さい子をあやすような声音をだして、頭を撫でだす。「ごめんね、今まで来てあげられなくって」
「違う。理由を聞いているだけ」からかいの言葉にむっとした。
「お友達と一緒に食べるのに理由は必要ないの」そう言って昭子は八重歯を見せた。普段はどちらかといえば自由奔放な猫のような印象を与えるが、今日は飼い主の足元にすり寄り、甘えてくる犬のようだった。昭子の様子を観察する。うわべだけ明るく振舞っているようだった。濡れた髪と汚れた靴下に気が付く。
「今日は災難なことがあったんだね」口を割らないので、少しずつ切り崩していく作戦に出た。
「なんで?」予想通り昭子は少したじろぐ。
「四時間目の体育の授業中に強い雨に降られたでしょう。昭子の靴下には茶色の斑点がついている。これはグラウンドの泥が跳ねた跡ね。髪の毛が湿っているということは、体育が終わってまだそんなに時間が経っていない。だから、四時間目に体育があったことが分かる」
「あぁ、これ。そうそう。災難だった。靴も靴下もドロドロ」靴下をはたきながら言った。彼女の声は取り繕っているように聞こえた。
「でも、それだけではない」雨に降られたぐらいでは、教室には来ないだろう。
「それだけだよ」と昭子は言ったが、表情は明らかに嘘をついている。続けて質問をしようとしたが、追及は途中で遮られた。「そんなことより」
両手で支えていた数学練習ノートの束の上半分を奪われる。
「ノートを集めているんでしょう。手伝ってあげる」
そう言って、教室に出来上がった机の島に歩いていった。