其の壱 背を向ける者
万人が羨むものは、果たしてそれに値する価値があるのだろうか?
大国アルカヴィトリの自治州モルウルサルは、このところ深刻な問題に直面していた。
豊かな海からもたらされる海産物と海洋貿易、それがこの地を支えている。
しかし、先ごろ隣国のオロ・ノードで起きた事件以降、その雲行きが怪しくなってきた。
発端は、オロ・ノード国王レッテ・リクトの急死である。
賢王と讃えられたその跡目を継いだのは、王の第二王子レッテ・ダムマイだった。
血気盛んなダムマイが即位後初めて行ったことは、宰相である祖父と実母の処刑だった。
その罪状は、叛逆罪。
しかし、正規の裁判は行われず、その詳細が明らかにされることはなかった。
時を前後して、海を隔てた島国ヴァウルへの出兵により、無理な徴用が行われていた。
新王が恐怖により人心をまとめ、不満を国外に向けようとしたのかは定かではない。
しかし結果として、この二つの出来事で新王から国民の心は完全に離れることとなった。
そしてオロ・ノードの出兵は、モルウルサルにも影響を及ぼした。
近海が軍船に埋め尽くされたため、遠方へ行く漁や貿易の船は出港できない。
結果水揚げは著しく落ち込み、主要取引国のヴァウルから織物なども入って来なくなった。
いつもは活気に溢れている港町リデは、そんな訳でもう長いこと火が消えたように静まり返っていた。
そんな街では、ある噂が流れていた。
街一番の商家の主が、自ら戦乱に巻き込まれていないジンソエ国へと赴き、滞っている商いを再開させるらしい、と。
この話を、ある者は諸手を挙げて賞賛し、他方では眉根をひそめ訝る者もいた。
なぜならこの主は先代の入り婿で、その出自が明かでなかったからである。
※
褐色の肌の男が、足早に街を行く。
行き先は、商家ネフリット。
リデの街の中心にある、もっとも大きな館である。
「クァク・ヴァさん、ルフマンドの旦那さんは本当に行く気なのかい?」
「頼むからあんたの口添えでアウルさんを止めさせてくれないか?」
「もうしばらく辛抱すれば、何とかなるよ。何も進んで危ない所に行かなくても……」
彼の姿を認めた人々は、口々に言う。
受けるクァク・ヴァは、複雑な表情のまま、手を上げたりうなずいたりして、人々に応じた。
やがてたどり着いたネフリットの館は、人気もなくしんと静まりかえっていた。
「ルフマンド様? おられますか?」
薄暗い沈黙に向かって呼びかけるが、返答はない。
それをどう受け取ったのか。
クァク・ヴァは館の中へと入っていった。
広い館の一番奥まった部屋に、探す人はいた。
床に広げられたのは、旅の支度。
彼、すなわちこの館の主、アウル・ルフマンドはそれらを黙々と整えていた。
「ルフマンド様……」
クァク・ヴァが呼びかけても、彼はその手を止めることは無い。
一瞬ためらった後、クァク・ヴァは再び呼びかけた。
「……ディン殿下」
「やめろ。その名はもう捨てた」
ようやく彼は手を止め顔を上げる。
そこには苦笑になりきらない表情が浮かんでいた。
「まさか本当に行かれるのですか? 何故あなたがそこまで……」
「私は店の主として、この状況をどうにかする責務がある。当然のことだ」
家族だけで無く、使用人をも養う大黒柱。
確かにその通りではある。
しかし、クァク・ヴァは納得がいかないとでも言うように沈黙で応じた。
「どうした? そんな顔をして。心配してくれるのは嬉しいが、私はいつまでも護られてばかりの存在ではないさ」
「そういうことでは無くて……。自分は、その、あなたがいつの日か国に戻り正道を……」
クァク・ヴァが口をつぐんだのは、ルフマンドの鋭い視線に気が付いたからである。
「その話は止めろ。私は……我が身かわいさに国と民を捨てた。戻る資格はない。それに……」
「それに? 」
クァク・ヴァの問いかけに、かつてのオロ・ノード第一王子レッテ・ディンことアウル・ルフマンドは、目を閉じ首を左右に振った。
「彼は……一見粗暴に見えるが、理にかなわないことを一番嫌う」
だから宰相殿達を処刑したのにも何か理由があるのではないか、そうルフマンドはつぶやいた。
「では、叛逆罪というのにも根拠がある、と? 」
クァク・ヴァの問いかけに、ルフマンドはうなずいて返した。
しかしまだ何か言いたげにこちらを見つめるクァク・ヴァに対して、ルフマンドは静かに切り出した。
「そんなことよりも、君に頼みたいことがある。君の技量を持ってすれば、簡単なことだけれど……」
奥歯に物が挟まったような物言いに、クァク・ヴァはわずかに首をかしげる。
王子レッテ・ディン……アウル・ルフマンドに仕え始めてこの方、こんなことは一度も無かったからだ。
「一体、何でしょう。この私にできることでしたら、何なりとお申し付けください」
しかし、この言葉を発したことを、他でもないクァク・ヴァ自身が後悔することになるのを、今はまだ知る由もなかった。
※
「どうしたのですか、クァク・ヴァ? 怖い顔をして」
不意に声をかけられて、彼は慌てて顔を上げる。
いつの間にかそこには、一人の女性が立っていた。
「……奥方様、失礼いたしました」
慌てて姿勢を正し一礼しようとするクァク・ヴァを、主ルフマンドの妻ラスカは柔らかい微笑を浮かべながら制した。
「改まらなくても良いんですよ。あなたとは家族同然じゃないですか」
ラスカの表情そのままの柔らかい言葉に、クァク・ヴァは思わず恐縮する。
が、すぐにその顔には暗い影がさす。
「本当に、どうしたのです? 何か良くないことでもあったのですか? 」
「実は……その、お暇をいただくことになりました」
隠しだては出来ない、そう観念してクァク・ヴァは事実を告げる。
その言葉を受けて、ラスカは目に見えて驚いたようだった。
「そんな、急に……。主人は知っているのですか? 」
ラスカの問いかけに、クァク・ヴァはうなずく。
「たった今、お許しを頂いてきたところです」
「何とかならないのですか? あなたを息子の教育係にと思っていたのですが……」
未だ乳飲み子のルフマンドの息子、トリエットの顔が脳裏に浮かび、クァク・ヴァは目を閉じ奥歯を噛みしめる。
そして、絞り出すように言った。
「申し訳ございません。奥方様におかれましては、お健やかにお過ごしください」
深々と頭を下げると、クァク・ヴァは準備があるので、と自室へ引き取る。
その後ろ姿を、ラスカは不安げに見つめていた。
※
翌朝、まだ日が昇らぬうちにクァク・ヴァはネフリットの館から姿を消した。
主はもちろん、使用人の一人に至るまで、その出立を見た者はいなかった。
それに遅れること五日、商家ネフリットの主アウル・ルフマンドはジンソエに向かい船を出港させた。