序
大陸の東の果てに、小国オロ・ノードはあった。
山脈を挟んで北は大国アルカヴィトリに接し、その南には広大な海が広がっていた。
山海の恵に育まれ、南方の島々との交易も盛ん。
気候は概ね温暖で住む人々の性質も穏和な、自他認める静かな国だった。
あの『事件』が起きるまでは。
誰もが異なる信念を持ち、異なる価値観を持ち、異なる正義を持つ。
誰もが正しく、誰もが間違っていた。
そう気がついた時にはもう手遅れだった。
もっと早くに互いが歩み寄っていたなら、このようなことにはならなかったのだろうか。
ところどころに篝火が焚かれた中庭を眺めながら、男は深々とため息をついた。
オロ・ノードという国の全権は、今や彼の手中にある。
けれど、その国を構成する人々の心を未だ掴めずにいた。
臣民の心は、彼とは別の男に寄せられている。
至極当然と、彼自身も思っている。
その男は、彼とは比べものにならぬくらい、学問においても人柄においても優れていたのだから。
彼は再び深くため息をつく。
その時だった。
不意に風向きが変わる。
篝火の煙に混じって、僅かに異なる臭いが鼻をついた。
それは、血の臭い。
何故。
或いはついに自分の気が触れたか。
それとも、今まで屠ってきた者達が蘇ったか。
漆黒を見つめながら、彼は身構える。
腰に帯びた剣の柄を握る手へ力を込めた時、闇の中にゆらりと人陰が浮かび上がった。
だがその姿は、何かがおかしい。
「何者か? 」
彼の声に、人陰は歩みを止める。
ややあって、掠れた男の声が彼の耳に届いた。
「……殿下………いや、陛下……」
「我を誰か知りながらここへ来たか。その度胸の褒章として、我自ら手打ちにして……」
「……お許し願い……陛下……私は……貴方の……」
彼の言葉を遮って、侵入者は続ける。
そして、再び彼に向かい歩みを進める。
唐突に雲が切れた。
月明かりが差し込むと、侵入者の姿があらわになる。
その顔は、彼が見知ったものだった。
「お前は……。戻っていたのか? 兄者は……」
侵入者が近付くにつれ、血の臭いが強くなる。
「……お願いいたします……私を……私の罪を……お裁き……」
手を伸ばせば触れるほどまで侵入者が近付いた時、ようやく違和感に気がついた。
侵入者には、本来有るべきものが無かったのである。
そう、右腕が肘下から欠損し、そこから血が滴り落ちていたのだ。
「何故……手練のお前が、どうしてそんな……」
わからない。
何もかもがすべて。
混乱する彼の背後から、無数の足音が響く。
「陛下! ご無事ですか!?」
「曲者! 陛下から離れろ!」
口々に叫びながら、近衛兵たちが雪崩れ込んでくる。
手にした松明で照らされた侵入者の姿に、だが一同は等しく言葉を失った。
そこにいたのは、足元に血溜まりを作り立ち尽くす隻腕の男。
血泥にまみれたその顔を見れば、右目も潰れている。
その有り様は、この世に這い上がった亡者のようである。
「陛下、お下がりくだい! 今、こやつを……」
言葉と共に引き絞られる弓弦の音に、彼は我に返った。
慌てて侵入者と近衛兵の間に割って入り、大声で叫ぶ。
「退け! 射かけてはならぬ! 彼者は我が旧知。彼に聞かねばならぬことがある! 」
そうだ。
この者を死なせてはならない。
この者しか知らぬ『あの人』のことを聞かねばならぬ。
その時、背後で鈍い音がした。
近衛兵たちは一様に後ずさる。
見れば、血塗れの侵入者は身体の均衡を失い石畳に崩れ落ちていた。
「薬師を呼べ! 早く! この者を死なせてはならぬ! 」
叫びながら彼は跪き、豪奢な衣が汚れるのを厭わず侵入者を抱き起こした。
「しっかりしろ! 気を確かに持て! 我はお前に聞かねばならぬ。この国の臣民の行く末のために。我が目指すものの、真実の姿を……」
その声が届いたのか、苦しげな息の下で侵入者は僅かに笑みを浮かべる。
「……今、何と? 」
聞きとがめて、彼は侵入者に問うた。
「……さま……やはり、貴方は……正しかった……私は……」
うわ言のように呟くと、侵入者は目を閉じ、がくりと首を折る。
「だめだ! 目を開けろ! クァク・ヴァ! 」
闇の中に絶叫が吸い込まれていく。
侵入者を揺さぶる彼の頬には、いつしか一筋、涙が伝い落ちていた。