出汁割日本酒には薬味を加えて
私が下宿を構えている堺県堺市は南近畿地方にあるから、冬の寒さも比較的穏やかなんだ。
そりゃ実家のある台南市に比べたら確かに寒いけど、東京や神奈川みたいな関東に比べたら温暖だからね。
だけど今年一番の寒波に見舞われた今日に関しては、その限りじゃなかったんだ。
何しろ留学先である堺県立大学の中百舌鳥キャンパスを吹き抜ける冷たい北風には、真っ白い粉雪さえ混じっていたんだもの。
歯の根が合わない程に凍て付いた冬の日には、夕闇に浮かぶ赤提灯の仄かな明かりが、普段よりも一層に温かく感じられるね。
そこで私は履修している全ての講義をこなすと直ちに、県立大生相手のリーズナブルな居酒屋が軒を並べる中百舌鳥の学生街に繰り出したんだ。
同じゼミの友達である、蒲生希望さんって女の子と一緒にね!
じっくり煮られて黄金色になった大根は、箸で力を入れると何の抵抗もなく二つに分かれた。
断面からホワッと立ち上る白い湯気には、鰹出汁の上品な香りが確かに感じられて、期待が胸の中で否応なしに膨らんじゃうよ。
「辛子も悪くないけど、今日は柚子胡椒って気分なんだよね!」
割り箸の先で大根に軽く塗り付けると、熱で溶けた柚子胡椒が揮発して、柚子の爽やかな芳香が私の鼻孔を否応なしに刺激してくる。
待望の瞬間とは、まさに今この瞬間だよ。
「熱っ!でも、美味しい…」
奥歯と舌で大根をグシャッと潰した瞬間、柚子胡椒の爽やかな酸味と熱々の出汁が口の中一杯に広がり、私の味覚は複数の刺激に襲われたんだ。
「だけど、やっぱり熱い!」
飲み込んだ大根が熱を伴って喉から食道へと移動しつつあるのを感じた私は、カウンターに鎮座する中ジョッキを持ち上げ、半分程残ったビールを一気に流し込んだの。
「プハッ…!効くぅ〜!」
そうして冷たい苦味と炭酸の弾ける心地良い感触とで、灼熱と化した口の中をリセットしたんだ。
「おでんで暖を取ったかと思えば、今度は冷たいビールを一気飲み。なかなか忙しい飲み方をするんだね、美竜さんったら。」
そんな私の慌ただしい様子を、左隣に陣取った女の子が面白そうに眺めている。
塩味の葱間串を、上品に食べながらね。
この明るい茶髪を丸っこいボブヘアーにカットした子こそが、私のゼミ友にして飲み友達でもある蒲生希望さんなの。
「それにしても…美竜さんったら女子大生なのに、結構ディープな店も知ってるんだね。登下校時に南海高野線から見えていたから、存在は知っていたけど。」
積み重ねたビールケースで作った簡易テーブルをしげしげと眺めながら、蒲生さんは溜め息混じりに呟いたんだ。
立ち飲み女子という言葉が市民権を得ている昨今だけど、蒲生さんにはスタンド系居酒屋が物珍しく見えるみたい。
「こういう立ち飲み屋さんは、サクッとリーズナブルに飲める所が良いんだよ。それにね…立ち飲み屋さんならではの、冬のお酒の楽しみ方だってあるんだ。」
「それってもしかして、最初に熱燗を注文したのと関係があるの、美竜さん?言われた通りに、御猪口三杯分だけ残しておいたけど…」
怪訝そうな顔で私に問い掛けながら、日本酒のガラスカップを指し示す蒲生さん。
赤いチューリップのレトロな柄が印刷されたワンカップには、三勺位の熱燗がまだ残っていたんだ。
「うん!その通りだよ、蒲生さん。店員さん、私にもワンカップの熱燗を!」
温かいワンカップをカウンター越しに受け取ると、私はグイッと一息にやったんだ。
人肌に温められた日本酒が喉元をスルッと通り過ぎていく時の心地良い感覚は、何度やっても飽きないよ。
そうして舌先に残る甘辛い味や米の香りを楽しんでいると、間髪入れずに五臓六腑がカッと熱くなるんだ。
「くう〜っ、効くぅっ!」
口元を手の甲で拭いながら、私は歓喜の唸り声を上げちゃったんだ。
まるで身体の芯から生命力が漲ってくるような、プリミティブな快感だよ。
熱燗をクイッとやった事で、私の身体の芯はカッカと温まっているの。
しかも蒲生さんへ立ち飲み文化をレクチャーする形になった訳だから、楽しくて仕方ないんだ。
「うん、良い具合に飲み残せたね!店員さん、この子と私に出汁割をお願いします!」
だから店員さんへのオーダーも、身振り手振りが思わずオーバーになっちゃったんだ。
これは確実に、顔を覚えられちゃったね。
「はい、二人分で百円です!」
小銭を受け取った店員さんは、おでん鍋の出汁を玉杓子で掬い、まだ三勺程の日本酒が残るワンカップに注いでくれたんだ。
「熱いから、気をつけて下さいね。」
こうして返して貰ったワンカップは、おでんの出汁を注ぎ足された事で水位が戻っていたんだ。
「おっ!温かい!」
店員さんからワンカップを受け取った蒲生さんが、弾んだ声を上げているよ。
さっきまで鍋に入っていた出汁だから、カップを掌で包むと温かくて気持ち良いんだよね。
「成程ねぇ…美竜さんが言っていた『立ち飲み屋さんならではの楽しみ方』って、この事だったんだ…」
「そのままでも充分美味しいけど、七味や柚子胡椒を入れたら更に美味しくなるよ!」
私は蒲生さんに笑い掛けながら、握った掌に温もりを伝えてくるワンカップへ七味をパラパラと振り掛けたの。
そうして芥子の実や唐辛子が浮かぶ薄い黄金色の水面に口を付けると、昆布出汁と日本酒の渾然一体となった風味豊かな芳香が湯気と共に鼻孔を刺激し、得も言われぬ陶酔感が心を満たしてくれるんだ。
「あっ、良い香りだね…」
どうやら蒲生さんも、この香りは気に入ったみたいだね。
「匂いだけじゃないよ…すっごく温まるんだから。」
ワンカップを傾けると、もうたまらないね。
おでんの出汁は色んな具材から旨味が染み出ているので、普通に飲んでも美味しいんだけど、そこに日本酒が加わる事で一層まろやかで飲みやすくなるんだ。
そして薬味として振り掛けた七味唐辛子や柚子胡椒が、全体の味をピリッと引き締めてくれるんだよね。
「良いね、これ…飲みやすくて温まるし、凄く落ち着くよ。優しい味って言うか…」
ワンカップを片手にホッと溜め息をつく蒲生さんは、何ともリラックスした表情を浮かべているね。
何しろ日本酒はお米で出来ているし、おでんの出汁には昆布の旨味が染み出ているんだもの。
昔から「豊葦原の瑞穂の国」と名高い日本で生まれ育った蒲生さんなら、きっと気に入ってくれると信じていたよ。
「癖になりそうでしょ、蒲生さん?何しろ出汁割には、基本五味が全て揃っているからね。甘味に酸味、旨味に苦味…ここまでは日本酒にも含まれているけど、塩味だけがなかったんだ。」
「そこに出汁を注いだら、塩味も揃うって事なんだね。七味や柚子胡椒みたいな薬味を添えれば、基本五味には含まれない辛味も追加出来るんだ。」
飲み込みが早くて助かるよ、蒲生さん。
もう私が説明する事なんてないんじゃないかな。
「美竜さんってよく知ってるよね、こういう事。学生街の居酒屋、全部制覇しちゃうつもり?」
「まあね、蒲生さん。在学中にそう出来るよう、色んな所で飲み歩いてるんだ。」
−後悔しないようにね。
思わず喉元まで出そうになった一言を、咄嗟に出汁割で流し込んだよ。
日本に留まるのか、それとも台湾に帰国するのか。
それは未だ分からないけど、県立大の卒業が私にとって大きなターニングポイントになる事だけは、十中八九間違い無いね。
だからこそ、今しか出来ない事は残さずやっておきたいの。
今この瞬間が思い出になった時、「楽しい留学生活だった!」と胸を張って誇れるようにするためにもね。
そう考えると、今こうして私が飲んでいる出汁割や、隣席で笑っている蒲生さんが、とっても懐かしくて愛おしく思えてくるんだ。