一夜
私は電車に乗っている。
レールの上を走っている感覚は確かに存在するというのに、音や振動は全く感ぜられない。ボックス席から視線を逸らした先のカーテンは締め切られており、車窓を覗くことは叶わない。
自身が座っているシートの特有の手触りに、「電車に乗っている」という安心感を幾度となく確認した。
そのようにして、数秒か数時間たっただろうか(もはや、自身の時間感覚は信用にアテにならなかった)。例によって音や振動は全く感ぜられないままに、電車は止まった。己が感覚に従えば、それはしばらく停車していたようで、その一瞬が一生のように思われた。
私は降りない。もう少し先に行く。降りないことは決まっている。ならばと瞼を下ろしかけたとき
「この電車、急行だからこの先降りれないよ。」
と、後ろから不意に声をかけられた。先輩はその後何を言うでもなく、さっさと出口へと向かう。急いで後をついて行き、ドアから飛び降りた。我々が下車するのを見計らったかのようにアナウンスとともにドアが閉まった。列車は発車した。
視界を横切る赤茶けた「急行」の文字に、えも言われぬ恐怖を感じた。
——先輩がいて良かった。
私たちが降りたのは砂の上だった。いつの間にか海岸に来ていたのだった。足に上手く力が入らない、先輩の斜め後ろをちょこちょことついて歩く。私たちは浜辺を進んでいった。
波打ち際には古めかしいボートが一艘あった。これは私が乗るんだろう。先輩は私をここに連れてきてくれたんだ。私はボートに寝そべる。互いに何も言わなかった。けれど、互いに全て理解していたはずだった。そのくせに問うてしまった。
「先輩は?」
「これ一人用だから。」
その言葉が終わらないうちに、先輩は力の限りボートを沖へと押し出した。
——いつも通りの先輩の声だった。語尾に明るい吐息が混じる、今にも笑いだしそうな朗らかな声。
「もしも私が先輩の立場だったとして、果たして同じように行動できていただろうか?」
波に揺られながら、そんなことをぼんやりと考えていた。