プロローグー2
「今日も何事も無く終わったな」
心の中で何気ない平日に感謝してアパートの階段を上る。
最近は物騒な事件が多い。今もアパートの前には凶器に成り得る鉄の塊が走っている。あれがアパートに突っ込んできて倒壊する可能性は1%にすら満たないが、0%に固定されることは絶対にない。
さっきごく少数のことを気にするな、と言った身が何を考えているんだと思われるが、ふとした瞬間気になってしまう時はある。もし、そんなことが起きたら。
「でも、そん時はそん時だよな。予防線張り過ぎても疲れるだけだし」
だから部屋に戻ったら売上貢献の為にバイト先のコンビニで買った弁当を食べ、レポートを書いて、適当にテレビ見て、ネットサーフィンして、シャワー浴びて、寝る。
普段通りの生活。その中には想定外の出来事を入れる枠は幾らでもある。テレビを見る時間を減らしたり、ネットサーフィンを早々に切り上げたり、風呂を朝に入るとか出来るんだ。
だからどんな事態が起きても動揺することは無いと思っていた。
鍵を開けるまでは。
「ただ――いっ⁉」
独り暮らしなのにただいまを言ってしまう謎の習慣が、この日だけは途絶えてしまうこととなる。
鍵のかかった部屋に誰かがいた――訳でも無い。
部屋のエアコンを消し忘れてしまった――訳でも無い。
そもそもだ。そんなことを気に掛ける余裕すら、俺にはなかった。
部屋が。部屋が、無い。
何を言っているのか分からないだろう。
いや、俺だって分からない。
扉を開けた先がいつもの部屋じゃないとかドッキリか? 俺に集客率は無いぞ? 著名じゃないと言う悲しい事実とか云々よりここまで大がかりなことをするリスクに一切リターンが無い。
いやいや。
それよりも。
それよりもだ!
「下どうなってんだこれ⁉」
目の前に広がる虹色のモヤモヤフワフワな霧エフェクトはどう見ても床には見えない。
と言うか一人暮らしを始めてほぼ毎日行うルーティンのせいで、鍵を開けた時点で俺は右足をその虚空に放り出していた。
寸での所で落ちる前に気付けたはいい物の、左足の踏ん張りで留まるのは厳しく、ドアノブにかかっていた手の握力ももちそうにない。
「お、落ちる!」
俺の部屋があるのは五階。落ちたらただじゃ済まない。
「だ、誰かぁぁぁっ‼」
情けない声で助けを呼ぶ。
とは言うが、こんな状況を解決してくれる人間なんてこの世にいるのか⁉ リアクション芸人が助けに来て「こういう顔をすれば受けるぞ!」て言われても解決にはならない!
扉が開いているから声は外にも響くはず!
近くを歩いている人! 助けて!
お隣さん! 気付いて!
だが、その声が誰かに届く前に、握力とバランスの限界が訪れる。
内開きのドアを普段は駐車場にある縁石のように止めてくれるストッパーが部屋ごと消去され、止まることを忘れてしまったドアは180度寸前にまで開いていた。
ドアノブにかけた右腕と部屋に踏み込まなかった左足に震えが伝播し続ける。
そんな状況であっても耐えれていたのは、脳内で何とかなる、打開策はある、と考えていたからだろう。
けど、遂にそれも終わりを告げる。
最後の砦となっていた、確固たる思考が崩れた。
「今度はこうならないように考えよう」
来世に向けた言葉は意味不明な空間の中に消え、俺の姿も、その中へと消え去っていった。