第二話 後ろ姿の女 ~前金二千円でいいんですか?~(1)
「前金、二千円で」
「……へ?」
高野英美は「へ」の形に開いた口そのままで、『守銭奴霊感男』こと、鏑木君を見下ろした。
***
それは、三月の下旬。春休み中に実家に帰省していた英美が、一人暮らししているアパートに戻ってきたときのことだった。
英美の実家は同じ県内にはあるが、通学時間が一時間以上掛かることもあり、大学入学時から一人暮らしを始めていた。
両親と一緒に探して決めた、単身女性専用のワンルームアパート。まだ築五年と新しく、出入り口のセキュリティはしっかりとして、バストイレ別、ロフトやクローゼットも付いた良い物件だ。
最初は大変だった一人暮らしだったが、自炊や家事に慣れてくると、好きなインテリアを揃えて自分の部屋を作るのが楽しくなってくる。木目調の家具に合うよう、カーテンやクッションをアイボリーやグリーンの色で統一したり、北欧系の柄の小物をちょっと置いてみたり。いわゆるナチュラル系だ。最近は観葉植物の鉢も置いている。
大学の長い春休みは一か月以上あったが、実家へ帰省したのは結局二週間だけだった。
実家では地元の友達と遊んだりしたが、それ以外はだらだらとするだけで暇だったからだ。それに、家事をしなくていいのは楽だったが、母親に毎日何かと口やかましく言われるのが鬱陶しくなってきて、早めに帰省を切り上げることにしたのだ。
もう帰るのか、と残念そうな両親に夕食まで引き留められたため、アパートの最寄り駅に着いた頃には夜九時を回っていた。駅から歩いて、三階建てのアパートが見えてきたときはホッとする。
帰ってきた、と感慨深く思いながら、自分の部屋を見上げる。
「あれ?」
二階の右端、二〇五が英美の部屋だが、その前の外付けの廊下に誰かが立っていた。
ドアの方を向いているため、後ろ姿しか見えないがたぶん女性だ。というか、そもそも女性専用アパートに男性は入れない。
廊下の灯りに照らされているのは、長い黒髪の女性で、ラベンダー色の薄手のニットを着ているようだ。もうすぐ四月とはいえ、夜は気温がぐんと下がる。寒そうな格好だと頭の片隅で思いながら、誰だろうかと首を傾げる。
このアパートの住人のほとんどは、英美と同じ大学に通う女子だ。
しかし、英美の知る中には、あんなに長い黒髪の子はいない。たいていは髪を染めていたり、パーマをかけていたりしているから、ストレートの長い黒髪はむしろ印象に残りやすい。
また、英美の友人がアパートに訪ねてきたのかとも考えたが、当の英美は不在なのだからアパート内には入れない。このアパートのエントランスは、部屋の鍵を差し込んで解錠するか、部屋番号を押してその部屋の住人が解錠するシステムになっている。
じゃあ、あれは誰なのだろう?
英美が考えている間も、女性はじっとドアの前に立って微動だにしない。
立っている位置もやけにドアに近くて、なんだか気味が悪い。まさか幽霊とか――。
そこまで考えて、慌てて首を横に振った。
……きっと他の部屋の子の友達が遊びに来て、部屋を間違えているんだ。きっとそうだ。
怖い考えを振り払って、英美は廊下から視線を外し、エントランスに小走りで向かった。解錠して中に入り、自分の郵便受けを確認して、いらないチラシなどは近くのゴミ箱に捨てる。そうしている間に、あの女性が降りてくるのではと思っていたが、誰も来ない。
少し不安になりつつ、階段をそろそろと上がった。誰ともすれ違わずに、二階の廊下についてしまう。
英美は深呼吸して、廊下にえいやと踏み出した。そうして、自分の部屋の方を見る。まっすぐに伸びる廊下の一番奥には――誰もいなかった。
「……」
なぁんだ、と英美は息を吐き出す。やっぱり部屋を間違っただけなのだろう。
ほっとしながらも、疑問が浮かび上がる。
――なぜ誰ともすれ違わなかったのか、階段で誰の足音も聞こえなかったのか。
考え出すと恐ろしく、ぞっと背筋を粟立たせながら、英美は急いで部屋の中に入った。
その後は別に何も起きず、一晩経ったら記憶も恐怖も薄れ、英美はそこまであの黒髪の女性のことが気にならなくなっていた。
きっと、三階の誰かの友達だったのだろうと、そう思って数日が過ぎた頃である。
同じく実家への帰省を早々に切り上げていた友達二人と、ショッピングモールで遊んできた帰りのことだった。
せっかく春休みで明日も休みだから、今夜はパジャマパーティーだと盛り上がり、会場は英美の部屋になった。レンタル屋で海外ドラマのDVDを借り、ドラッグストアでジュースやお菓子を大量に買い込み、コンビニで総菜や限定のスイーツも買って、三人できゃあきゃあと帰路についていた。
ふと、友達の一人の幸奈が「あれ?」と声を上げる。
「英美の部屋の前、誰かいるよ」
何度も遊びに来たことのある彼女が、二階の端を指さした。その指さす方を見た英美は、ぎょっとした。
長い黒髪の女性が立っている。
あの時と同じ、ラベンダー色のニットを着た、女性が。
「っ……」
後ろ姿だけれど、いや、後ろ姿だからこそ、数日前と同じ女性だとわかった。
ざっと、頭から血の気が引く。
頬を強張らせた英美に気づいたのは、もう一人の友達の彩子だ。
「英美ちゃん、どうしたの?」
「あ……あの人、この間も、私の部屋の前にいて……」
掠れた声で英美が答えると、幸奈が眉を顰める。
「え? もしかしてストーカーか何か?」
「わかんない、けど……」
顔を青ざめさせた英美のただならぬ様子に気づいたのだろう。二人は顔を見合わせ、やがて幸奈が「これ持ってて」と荷物を彩子に渡す。
「英美、鍵貸して。私がちょっと様子見てくるから」
「でも」
「いいから。二人はエントランスで待っててよ」
幸奈は英美が持っていた鍵を取ると、エントランスに先頭を切って入っていく。その後に英美と彩子が続いた。
幸奈はエントランスに入ると、早足でまっすぐに階段に向かい、たたっと駆け上がる。後ろ姿を見送ることになった英美の震える肩を、彩子が支えた。
「大丈夫だよ。幸奈ちゃん、空手有段者だし、それにそんなに無茶はしないから」
「うん……」
そうして待っていると、ふと、階段を誰かが降りてくる足音がした。二人がそちらをはっと見ると、降りてきたのは幸奈だった。どこか硬い表情をしている。
「幸奈ちゃん、どうだった?」
「……二階の廊下、誰もいなかった」
じゃあ、あの女性は三階に向かったのだろうか。そんな考えは、次の幸奈の言葉で打ち消される。
「だから、一応すぐに三階に上がってみたけど、やっぱり誰もいなかった。……ねえ、二人とも、こっちには誰も降りてこなかった? ……ていうか、あれ、誰なの?」
勝気な幸奈も、どこか不安そうに顔を顰めている。英美は嫌な感じが的中したことを悟り、持っていたコンビニの袋を恐怖で取り落とした。
――その後、英美達はエントランスを出て、彩子の住むアパートへと移動したものの、皆の気分が晴れることは無かった。




