第一話 黒い四階 ~前金三万じゃ足りません!~(1)
「前金、三万寄こせ」
昼休みの貴重な眠りを妨げられた湊斗は、不機嫌に言い放った。
――鏑木湊斗には霊感がある。
それは、大学内で広まっている噂だった。本人も否定したことはない。
『なあ、鏑木。お前霊感あるんだって? マジで?』
『ねえねえ、オーラとかわかるの? 私って何色?』
『鏑木くーん、私の守護霊見てよー』
『今度さ、○△町の廃ホテルに行くんだけどさ、お前も来いよ。ほら、霊感少年がいると盛り上がるじゃん?』
そんな軽いノリの“ひやかし”連中が声を掛けてきたときは決まって、
『前金三万。くれないと視ないから』
と、高い前金を要求して断る。
まあ、額はその時の気分と相手次第で変わるが、基本は二万から五万。苛つきが半端なかったときは十万を吹っ掛けたこともある。
単なる大学生に過ぎない彼らが、万札をぽんと気軽には出せない。ただの遊びのノリで、本気で幽霊なんて信じていない――一度もそういうモノで悩んだことなんてない連中は、そこで悪態をつきながら引き下がるものだ。
――ノリが悪い、守銭奴、嘘つき、インチキ霊感野郎、痛いヤツ、オカルトオタク……。
何と呼ばれようと、湊斗は気にしたことはない。ひやかし連中がそれで毛嫌いして寄り付かなくなれば、そちらの方がいい。
だが、大学に入学して一年経つ今でも、オカルト研究会からの勧誘は続いているし、ひやかしも減ったとはいえ、いまだに声を掛けられる。
それに付き合うのが面倒で、湊斗はキャンパス内では人気のない所を好んだ。
今日だって、ドラッグストアで買った安い菓子パン二個と、自宅で淹れた麦茶を詰めたマイボトルを手に、非常階段の片隅で昼食を終えたところだった。
五月の連休明けの、熱くもなく寒くもない、程よい外気温。心地よい風がそよそよと吹く中、階段の踊り場で黒いウィンドブレーカーを枕代わりにして、いい感じで熟睡モードに入りかけた時――
肩を揺すられて起こされたのである。そうして眠りを邪魔されたうえ、「霊視してくれないか」と開口一番告げられた。
これで不機嫌にならないはずがない。
湊斗は肩に置かれた手を払い、目を閉じたまま、いつもよりちょい高めの「前金三万」を吹っ掛けてやった。もはや相手を追い払う口実だ。
ところが、思いもかけない答えが返ってくる。
「うん、用意しているよ」
「…………は?」
思わず目を開けると、間近に男の顔があってぎょっとした。
まず目についたのは、綺麗なアーモンド形の大きな目だった。
青みがかった灰色の虹彩は、影の中にあるというのに不思議な光を湛えている。通った鼻筋に形のよい唇。彫りの深い顔立ちは、目の色も含めてハーフっぽい。
髪も柔らかそうな茶色い猫っ毛で、くしゃっとした無造作ヘアとかいうやつだろうに、雑誌の一面を飾ってそうなくらい似合っていた。そこらの男性アイドルなんて目じゃないくらい格好いい。
ていうか、近すぎて顔の輪郭ぼやけてんだけど。パーソナルスペースを考えろ。
湊斗の顔を覗き込んでいる相手の肩を無意識に押しやると、ようやく彼の顔の全容が見られた。そして、気づいた。
……あ、本当に雑誌に載っているヤツじゃないか、こいつ。
人の顔と名前を覚えるのが苦手――というか覚える気のない湊斗でも、彼のことは知っている。
教室で講義が始まるのを待つ際、女子達がしょっちゅう雑誌を広げて彼について話しているからだ。五月蠅くて苛々して、逆に覚えてしまった。
確か名前は、水宮慧。
親は金持ち、ハーフの母親の血を継いだイケメンクォーター、と生まれつきのスペック持ちの彼は、現役大学生モデルとして知られている。
顔もよければ身体も良く、180センチを超す長身に広い肩幅と長い手足。四捨五入して170センチの湊斗にとっては、羨ましい限りだ。もっとも、彼のようになりたいとは思わないが。
そんな有名人である水宮は、湊斗の隣に座ると、ショルダーバッグから財布を出した。
諭吉の描かれた万札を三枚取り出し、甘いマスクに甘ったるい笑みを浮かべて差し出してきた。甘党の湊斗だが、こんな甘さは求めていない。
「はい、三万円」
「……」
ぽんと気軽に出された万札。実家が金持ちであるうえ、モデルで稼いでいる水宮にとっては、きっと大した額じゃないのだろう。
だが、貧乏学生にとっては一か月の食費が充分賄える額だ。自炊でうまく切り盛りすれば、憧れの某高級ホテルのケーキビュッフェのための費用も捻出できる。あるいは、湊斗の住む学生向けオンボロアパートの一か月の家賃になる。
このまま素直に受け取ってしまえばいいのだろうが、湊斗は手を伸ばす前に、水宮の目を見返した。
「……知らないなら、一応言っとくけど。俺は、霊がいるかいないか視るだけだから。除霊とか呪い返しとかは全然できない」
「知ってるよ。他の人から聞いた」
「お祓いしたいなら、知り合いを紹介するだけだし。そもそも霊がいなかったら、そこで終わりだけど、それでもいいんだな?」
念を押すが、水宮は笑顔を崩すことはない。
その綺麗な笑顔に若干の胡散臭さを覚えつつ、湊斗は三万円を受け取った。
「まいど。……んで、霊視しろってことだけど」
そう言えば、水宮は『霊視』という言葉を普通に使っていた。別に専門用語というわけじゃないが、だいたいの人は『霊を見てくれ』と言ってくるのに――。
少し不思議に思いながらも、湊斗は三万円を自分のボディバッグに突っ込んだ。
そして、きっぱりと言う。
「あんた、霊なんか憑いてないよ」