胸懐タイムマシン
元町の坂の途中にある小さな骨董屋。風の強い日は海からの潮の香りが、坂を吹き抜け店の中にまで漂ってくる。潮の香りは飾られている様々な骨董品の隙間を漂い、古いチェアに座って珈琲を飲んでいる老人の鼻までとどいた。
老人は顔をあげ、店の中に漂う春先の風とそれが運んでくる潮の香りを少しの間楽しんだ後、チェアから重い腰をあげ店の一番奥にある棚を眺めた。
店の奥にある棚には、売れ残りの骨董を並べていた。象牙の龍の置物や青磁のちいさな壺、たいした価値のあるものではない。しかし老人はその奥の隠れた所、棚の中央に置かれている物を見つめていた。そのレンズにひびが入った使い古されたカメラを、さも価値のあるお宝の様に眺め、そして手に取り大事そうにその上のホコリを払う仕草をした。もちろんホコリなど積もってはいない。老人は毎日のように店の骨董品を磨き、そしてそのカメラを拭いていた。
そのカメラには、長年誰が使っていたのか、様々な汚れと傷が付いていた。
割れたレンズ、カメラ本体についた大きなひっかき傷。
老人はその壊れたカメラをさも大事そうに手にとって、そして目を瞑った。
そして想った。
「あ、あの……ごめんください」
店の入り口に一組の年かさの男女が立ち、目を瞑っている老人に遠慮がちに声をかけた。
老人はハッと目をあけ、二人の方を振り向いた。
「いらっしゃいませ」
老人は二人を見た。夫婦だろうか。 身なりのいい服を着ている所を見ると上客に見える。
しかし老人はそんなことをおくびにも出さず、黙ってカメラをもとの棚に戻し、再びチェアに座った。
最初、客にはあれこれ話しかけはしない。黙ったまま並んである骨董を好きなだけ見せて、客の目利きを判断した上で、こちらからアプローチする。それが老人のやり方だった。
久方ぶりの上客と見ていた。だからヘマはしない。しかし、もしかしてこの夫婦は……
「あの、紹介を受けまして、あ、芦屋の椿本さんからの紹介で……」
やはりと老人思った。椿本さんと言えば、古くからの馴染みの上客だった。しかしあの人が紹介と言えば、それは骨董の事では無いだろう。
「あ、あの私ども、二十年前に子供を亡くしておりませて」
骨董の事ではない以上、事情を詳しく聞くことはしない。それも老人のやり方だった。
「お話は無用です、人それぞれ事情はおありですし、聞いたところで私にはどうにも答えようのない話ですので」
先程棚に隠すようにしてしまった壊れたカメラを、老人は皺だらけの手で再び取り出した。
「椿本さんからお聞きなら、これが何かお分かりでしょう」
夫婦はカメラを覗きこんだ。婦人は不安そうに傍らの夫の腕を握っていた。
「私にはあまり信用できない話でしたが、妻がどうしてもと言うもので」
男は婦人の肩を抱き言った。婦人はカメラを凝視し続けていた。
「ちなみに、代金はいくらになりますか?」
「椿本さんのご紹介なら、二十万と言うところでしょうか」
上客だ、二十万などと言うのは夫婦にとってはした金だろう。
しかし老人は信用を第一にしていた。ボッタクリなどと言う行為は彼のやり方に反している。
それに二十万払う価値があるかどうかは、客が決めることだった。それは骨董も同じだ。
価値を決めるのは、他人が決めた評価ではない。この夫婦が自分達にとってその価値があると考えたら、きっと夫婦にとって価値のあるものになるだろう。
そもそもこのカメラを使っても、事実は何も変わりはしない。だがこのカメラには価値がある。だから神戸中からこの骨董屋に人々はやってくるのだ。
「あなた……」
すでに婦人の目には涙の粒か浮かんでいた。
老人は静かに口を開いて言った。
「最初にお断りをしておきます。すでにお聞きとは思いますが、このカメラを使っても、過去は変わりません、変わるわけがない。お二人の亡くなったご子息が、むろん生き返ることなどはない、それでも、よろしいですかな?」
婦人はハンカチで目頭を押さえながら答えた。
「ええ、椿本さんから、伺っております」
「冴子、本当に大丈夫か?」
「大丈夫って?」
「あの椿本さんが嘘を言っているとは思わないが、何も変化がないってことだろう? それに二十万もかけるなんて……」
ご主人は心配そうに婦人の顔をのぞき込む様にして言った。
「お二人で相談なさってお決めください」
老人は二人にそう言い、再びチェアーに腰を下ろした。二人は長い間カメラを見つめそして話し合っていた。
「あの……すみません。やはりお願いします」
ご主人がそう声をかけてきた。
婦人はなにやらハンドバッグから小さな包みを取り出していた。
「わかりました。ではお二人とも、このカメラに手を添えてください。ちなみに申し上げますと、あの日にしかもどれません、あの日の朝、ご子息がおられた場所を思い浮かべてください」
二人は老人の言葉を黙って聞き、そして彼が言った様に、あの日、息子がいたであろう場所を思う浮かべた。
それは彼らが住む家から少し離れた集合住宅地だった。
朝の五時、あのとき息子は出勤前ですでに起きていたはずだった。
婦人のつむった瞳から涙がこぼれていた。
彼らが手を添えているカメラ、そのカメラの横にに置いた、婦人の小包、それがゆっくり、色を失う、そして老人の見ている前で、その姿を消していった。
彼らはそれに気づきもしないまま、壊れたカメラを指すって、必死にあの日のことを思い出そうとしていた。
彼がそれに気がついたのは、眠気をさますために洗面台の冷たい水で、顔を洗った後だった。
朝の五時、今から出かけないと仕事に間に合わない。急いでワイシャツを羽織って、ネクタイを閉めていたとき、誰もいないキッチンのテーブルの上で、ガタリと音を立てる物があった。冬の寒い朝で、台所のヤカンからゆっくりと湯気が上がっていた。彼がテーブルの上を見つめると、そこには小包と古いカメラが無造作に置かれていた。
「だれのだ?」
彼はカメラを手に取った。古いカメラ。傷だらけで、レンズもなんだか割れている。
カメラをつかんだまま、何気なくシャッターを押してみる。
ガチャリ
カメラは小気味いい音を立てた。
こんな朝早くから、誰がこんな物持ってきたんだろう。彼はカメラの横に置いてあった小包を開いた。中には朱塗りの箱があった。彼はその箱をひらいた。
箱の中には、大きな三つのおにぎりと、彼が子供の時から好きだった唐揚げが詰められていた。
「なんだ、お袋が持ってきたのかな?」
彼はおにぎりを一つ箱から取り出して、自分の口に入れた。
やっぱり、お袋が作ったおにぎりの味だ、ちょっと塩気が利いていてお茶が飲みたくなる。彼は湯気の立つヤカンから急須にお湯を入れる。そしておにぎりをほおばりながら、急須のお茶を湯飲みに入れた。
冷えたおにぎりの塩味が、口の中でぱっと広がり、そしてお茶と一緒に消えていった。
「やっぱり、お袋のおにぎりだ」
来たのなら、声の一つもかけていけばいいのに。とは言え、家を飛び出して来た手前、彼も母親に会うのは気が引けた。
「お袋、元気にしてるかな?」
そうひとりつぶやいて、おにぎりをほおばる。中身は塩鮭だ。塩鮭の強烈な塩味。彼は子供の頃のことを思い出していた。運動会のとき、いつもこのおにぎりを持ってきてくれていたこと。お袋はおにぎりをほおばる俺を見て、いつも笑っていた。食べながら、彼はネクタイを締めた。そろそろ家を出ないと遅刻する。天王寺の事務所まで阪神高速にのって行く。早く行かないと配達の時間に間に合わない。彼はお弁当箱を掴んで、シャツの上に厚手のダウンジャケットを羽織って玄関を出た。まだ真っ暗な明け方前、彼は駐車場に止めている社用車に乗り込んだ。
助手席に残った弁当箱をおいた。
そしてエンジンをかける。そのとたん前日からつけっぱなしのFMラジオが鳴りだした。
「今日は一月十七日、まだまだ寒いけど、みんな風邪引いていないかな?」
DJがそんな風にしゃべり出した。
彼は車を駐車場から出しながら、助手席においた弁当箱のふたを開け、おにぎりを一つ取り出した。それを口にほおばりながら、お袋さんのことを思い浮かべていた。
今度の日曜日、ひさしぶりに家に返るか。
お袋も、それに親父だって、ひさしぶりに合うんだ。きっと喜んで、俺を迎えてくれるだろう。
彼はそう考えながら、二号線に車を走らせ、阪神高速の入り口を目指した。
老人が見ている前で、カメラが色を取り戻した。婦人の小包は戻ってこなかった。
彼は夫婦に声をかけた。婦人の両目から涙がこぼれている。
「終わったみたいですね」
婦人はハンカチで目を押さえながら答えた。
「……あの子姿が……見えた気がします」
「このカメラは、お二人の思いを過去に伝えるためのカメラです。あの日の、あの日の朝だけに戻れるカメラ。きっと思いは伝わったでしょう」
老人はおかれたカメラを手に取り、フィルムを巻き戻し、それを取り出した。
「フィルム、1枚だけ撮られていたようです。もしかしたら何か写っているかもしれませんよ。よかったら持って行ってください」
婦人は手渡されたフィルムを胸に抱き、そして大声を出してその場に泣き崩れた。
終