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護るに値する世界

作者: 谷中英男
掲載日:2018/02/27


 ここ数年の技術の進化は凄まじい。国の方針によりロボット、AIに巨額の税金が投入され、無事に成功を収めた。その結果、行政施設の無人化が図られた。当初はロボットやAIに対する反発も強かったが、効率の良い作業により行政サービスは格段に向上し、市民に受け入れられていった。そして、それらの技術は民間企業にも広く普及し、ロボット、AIはなくてはならない存在になった。 

 そんな世界で、生を送る僕はというと、ロボットやAIなんていう最新技術とは程遠い、過去に取り残されたような環境でほとんど一日を過ごしている。ロボット嫌いなオーナーに雇われ、日がな一日、酔っ払いの相手をしているわけだ。この愛すべき古びたバー「カルぺ・ディエム」で。もしくは酔っ払いが来るまでの短い時間、これから何かが起こるかのように頭の中でモノローグを紡ぎだし、自分の人生をさも特別かのように彩っている。

 こんな感じで僕の密かな楽しみが興に乗ってくると、いつものごとく、酔っ払いたちが集まってくる。男の三人組だ。何事か話しながら、テーブル席に腰を下ろした。僕はその三人組の頭の少し上を見た。二人は、常連の新井、堂上。そして残る一人は風太。風太? おそらく名前だろう。なかなか珍しい名前だ。こんな珍しい名前に覚えがないということは、おそらく新顔だろう。彼もかわいそうに。若くして、こんな肥溜めみたいなところに連れてこられて、酒のつまみにからかわれるなんて。新顔の青年に同情を抱いていると、ほれ見たことか、常連の二人がニヤニヤしながら僕を呼んでいる。おそらく、いつものあれをやれということだろう。僕はしぶしぶカウンターから出ていき、彼らのテーブルへと向かった。

「どうも。お二人さん。お二人はいつものでよろしいですか?」

 二人は薄汚く、いやらしい顔でニヤニヤ笑いながら僕に頷き、青年に視線を向ける。僕は青年の方に視線を向け、彼に同情しながら話しかけた。

「お客さん、見ない顔ですね。僕は大門です、どうぞよろしく。注文はどうします?」

 彼は緊張気味に、先の二人と同じものを、と注文し、不安げに僕を見つめる。何もとって食ったりはしないよ、と心の中でつぶやき、彼に笑顔で頷いた。長居は無用だ。彼にいつもの洗礼が降りかかる前に退散しようと、背を向けカウンターへと戻ろうとする。だが、常連の二人が、酒でしゃがれただみ声で僕を呼び止める。

「おいおい、そりゃないぜ、バーテン。いつもの芸を見せてやってくれよ、この新入りにさ」

 僕が振り向くと、二人は相変わらずニヤニヤ笑いながら、僕の顔を見つめる。どうやら、いつものやつをやらないといけないようだ。断ればあの二人を不機嫌にさせ、店の売り上げにも影響してくるだろう。彼らのような人間でも店の売り上げに貢献している。そして、多少なりとも僕にチップをくれる上客だ。チップのために、青年には犠牲になってもらうしかない。それに今からやることで、誰かを傷つけるわけでもない。常連の二人は僕の芸が見られて、この青年は話の中心になれる、僕はチップがもらえる。誰も損しない、と自分に言い聞かせて、罪悪感を押し込める。以前はこんなことで悩んだりしなかったのに、僕も年を取ったのかな、と心の中でつぶやく。

 それでは始めますか。軽く深呼吸して、青年の頭の少し上をじっと見る。彼は戸惑ったように、僕を見つめる。僕と彼の間に気まずい沈黙が数秒流れた後、彼から目を離し、三人に視線を向ける。

「それでは、お客さんからのリクエストにお応えして、一風変わったショーをお見せ致します。ご安心ください、ショーと言っても何も危険なことはありません。ただ、質問に答えていただくだけの簡単なものです」

 僕は仰々しく、話し始め、再び青年に話しかけた。

「お客さん、この中でこのショーを見たことがないのは、あなただけです。ぜひ手伝っていただけますか?」

 青年は困惑しつつも頷いた。

「それでは…。改めてですが、お客さんはここに来るのは初めてですね?」

 依然として、僕は仰々しく話しかける。彼はこくりと緊張しながら頷く。僕はにっこりと微笑み、再び彼に質問を続ける。

「僕はあなたの名前を知らない。そして、あなたも私に名乗っていない。彼らもあなたの名前をここに来てから呼んではいない。そうですね?」

 彼は質問の意図が分からなかったようだが、頷いた。常連の二人もニヤニヤしながら頷いている。彼らの反応を窺い、僕も頷き返し、話を続ける。

「ここからがショーの本番です。このショーは僕があなたの名前を当てるだけの簡単なものです。もちろん、それだけでは、面白くないですからね。あなたのあだ名、そこにいる彼らも知らないあだ名も、僕が当てて見せましょう」

 僕は再び彼にニッコリ微笑み、常連二人にこくりと頷いた。彼には申し訳ない。今度来た時には一杯サービスしてやろう。今度があればだが…。

「それでは僕の目をしっかり見つめてください。僕がいいというまでしっかりですよ」

 彼は従順に僕の指示に従い、しっかりと僕の目を見つめる。こんなことに意味はないのだが、ショーの一部としては必要なのだ。なんとも滑稽な光景だが…。

「ほー、そうですか。うんうん。わかりました。あなたのお名前は風太ですね?」

 彼は訝しげに頷く。彼もそこまで馬鹿じゃないようだ。常連と僕で、自分のことを担ごうとしているとでも思っているのだろう。お客さん、そんなくだらないことで担いだりなんかしないよ。第一、僕になんの利益があるって言うんだい。確かにチップはもらえるが、こんな性格の悪い連中と徒党を組んで、一見さんをいじめたりしないよ。僕もそこまで性根は曲がっていない。彼からの疑惑を晴らすために、次はあだ名へいきますか。

「風太さん、まだ疑っているでしょう? では次はあだ名を当てていきましょう」

 彼のあだ名の中ではっきりみえるのものは、あまり多くはない。五つだ。その五つのうち、一番呼ばれているあだ名から当て始め、それに似たのに続き、最後に常連たちが喜ぶものを持ってくれば彼らも満足だろう。こんな段取りをほんの数秒で片付ける。常連を喜ばせようとするなんて、やっぱり僕も彼らと一緒なんだろうか。心の中で苦笑し、話を続ける。

「それでは、まず、フー」彼はまだ疑いの目を持ちつつ頷く。

「フー君」、「フール」、「風太郎」、と続き、彼は疑惑と困惑が入り混じった表情で頷く。おそらく、常連の二人からも呼ばれないようなものが混じっていたのだろう。彼らに会う前から呼ばれていたあだ名。学生時代の思い出が詰まったものだろうか。その背景まで知ることができないのは、幸運だ。最終的には、彼を辱めることになる。少しでも同情しないに限る。さっさとこのショーを終わらせて、モノローグを紡ぎに戻ろうじゃないか。僕は青年の顔を見つめ、口を開く。

「それでは最後に、プーくん」

 青年は顔を真っ赤にさせてうつむき、常連の二人は腹を抱え笑い転げている。僕は軽く会釈し、彼らのテーブルから去る。カウンターに戻り、伝票をつけ始めていても、彼らの耳障りな笑い声は続いていた。

 

 どうだい? これが僕の一般的な一日だ。常連たちが連れてくる、からかいたいやつらの恥ずかしいあだ名を教えてやる。誰にだって恥ずかしいあだ名の一つや二つあるはずだ。それをからかいの種として提供する。実に有意義な一日だ…。ここで賢い人なら気づくだろう。どうして名前ならまだしも、あだ名までわかるのかと。連れてきたやつが、事前に教えていたのならわかる。だが、つれてきたやつも知らず、本人が知られたくないようなものまで…。これは実に簡単な話で、僕は超能力者なのだ。え? 超能力者だってことは、物に手を触れずに動かしたり、瞬間移動したり、相手の考えを読んだりできるかって?  そんなことができたら、僕はこんなところにはいないし、こんなちんけなことでチップなんかもらっていないよ。僕ができるのは、人や物がなんと呼ばれているのか、見ることができるだけ。ここで重要なのが、「なんと呼ばれているか」だ。ここで勘違いしてほしくないのが、人のフルネーム、本名、物の正式名称が、必ずしも見えるのではないということ。例えば、本名では呼ばれず、偽名・通名あだ名でしか呼ばれていない人、略称でしか呼ばれていないものだ(エアコンやテレビなんかが良い例だ)。実際に呼ばれている名称、呼称、愛称しか僕には見えない。もちろん、僕自身の名前、あだ名も鏡を使えばいくつか見て取れる。不思議なことに、文字は反転していないんだ。

 先ほどから、見える、見えないという文句に疑問を抱いた鋭い知性の持ち主もいるだろう。そう、僕には人や物の上に、呼ばれている名前が文字通り見えるのだ。FPSやRPGのゲームを想像してほしい。キャラクターの上に名前が出てきているだろ? あんな感じだ。少し違うのが、名前が複数個出ていて、一番呼ばれている呼称が濃く見える。そして、呼ばれる頻度が低くなっていくにつれ、薄くなっていく。一、二回呼ばれた程度では、見えない。

 みんなからしたらそんな能力を持っているなら、それを生かした仕事をすればいいのに、と思うだろう。もちろん僕もそう思った。この能力を生かして一財産築いてやろうってね。でもそんなにこの世界は甘くない。僕の考えが及ばなかったという点もあるけどね。僕はこの能力で金を稼ぐにはどうすればいいか学生のころから考えていた。

 ちなみにこの能力は物心ついた時にはすでに表れていた。人や物の名前を覚えるのが早かった、と両親が驚いていたからね。ただの驚きで終わったのは、この能力のことを両親含め誰にも話さなかったからだ。そして、学校に入学してから確信したよ。普通の人には名前が見えないってね。

 そこからは、さっきも言った通り、この能力で金を稼ぐ方法を考えだしたわけだ。どうやって金を稼ぐか日々考えていたよ。もちろん勉強なんて二の次だ。そんな時、何の気なしに見ていたテレビのマジックショーで、僕はひらめいた。この能力をマジックの中に織り交ぜれば、成功するんじゃないかってね。その時の僕は、マジックなんてやったこともないし、興味もなかった。でも、人間てのはすごいもんだ。金のことになると尋常じゃないやる気を出す。特にその機会が、目の前に転がっていると知ったらね。僕は猛烈にマジックの勉強をした。家にいようが、学校にいようが、場所も時間も関係なしに。

 そんな努力は実を結び、数か月で、人に見せられるくらいにはなった。ここまで僕はマジックの上達にしか気が回らなかった。ここにきて、それを披露して、金を稼ぐにはどうしたらいいのか、という壁にぶち当たった。しかしこの問題はすぐに解決した。路上で披露しようとね。そこからスカウトされて、大きな舞台に出ようと。僕はすぐに実行した。今思えば、あの頃の行動力はすごかった。あれが若さというのだろうか。ここからが長い道のりだった。僕のマジックに足を止めてくれる人はそこそこいたし、少ないがチップをくれる人もいた。でも、そのころの話術は、今から見てもお粗末なもので(もちろんマジックもまだまだだったが)、僕の能力を見せるまで四苦八苦していたよ。

 やっと話術も向上してきてお客が増えてきたところで、ついにスカウトが来た。僕がその日の片づけをしていると、不意に肩をたたかれ、「もっと、大きな舞台でマジックを見せる気はないかい?」と声をかけられたんだ。

 僕はろくに話も聞かずに「やらせてくれ」と返事をして、とんとん拍子で話は進み、ついに僕の初ステージ。ここから、僕の輝かしい人生がスタートする…。僕は不退転の決意でステージに臨んだ。僕は自分の精一杯を出し切り、幕は引いた。首尾は上々で、今後の出演の確約ももらった。

 あとから気づいたのだが、僕はあるテレビ番組の前座をしていた。それから何回かその前座をやりつつ、相変わらず路上でもマジックを披露していや。すると、その番組からゲストとして、出演のオファーが届いた。僕は凄まじい勢いで夢が実現することに、驚きながらも、このチャンスを糧にして、いけるとこまで行ってやろうと息巻いた。しかし、ここですぐに行けるところにたどり着いてしまった。今まではエスカレーターで悠々と昇っていたが、気づけば目の前は崖、凄まじい勢いで僕は転がり落ちていった。

 今まで僕が前座をしていた番組は、スタジオで撮影していた。しかし今回は生放送の特別番組になっていて、そこで僕はマジックを披露することになっていた。今までとは比べ物にならないほどの観客に、僕は体が震えるほど緊張していた。

 ついに僕の出番になり、ステージに登場すると、不思議なほどリラックスしていた。逆に「ここで一発当てて、有名になってやる」と野心に燃えていたぐらいだ。そして僕の頭に、あることが浮かんだ。アドリブで、名前を当てる人物を変えてやろうと。ここで、若さゆえの無鉄砲さが出てしまった僕だが、物事はそうはうまくいかない。そして本番になり、段取りを無視して、名前を当てる人物を変えた…。僕がアドリブで名前を言い当てた人物は、芸名と呼び名が違っていた。そして、ほかにもあだ名ではない名前を僕は見つけてしまった。僕はすかさず、その名前が本名だと確信し、名前を言い当てた。その瞬間の会場の静まり具合といったら、凄まじいものだったね。のちに小耳にはさんだところによると、その人物は国籍を隠し、通名を本名のように使っていたようだ。今までの盛り上がりが嘘のように静まり、まるでお通夜の様だったよ。僕からしたら名前ごときでなんなんだという感じだが。芸能人にもいろいろあるのだろう。会場中が静まり返り、だれもが身動ぎ一つせずにいると、司会の芸人が思い出したようにフォローを入れて、事態を収めた。さすが司会者だ。機転が利くもんだな、と感心していると、もちろん僕は退場。そこからはスッタフからの事情聴取。「どうやって名前を調べたか」、「ストーカーなのか」、はたまた、「恨みでもあるのか」など。途中で、名誉棄損で訴えるなどの話も出てきたが、そこは何とか回避して、今後テレビや舞台などの表舞台に出てこないことを条件に解放された。僕は高々数分で輝かしい未来とお去らばして、つまらない人生への特急切符を手にした。

 こうやって僕は、頭から唯一ひねり出した、金儲けの方法を失った。もちろんマジックで食っていくつもりだったから、勉強なんてほとんどしていなかった。学も資格もない。残ったのは、名前が見える能力と、マジックで培った話術だけ。まさに失意のどん底。やる気に満ち溢れていたあの頃の僕はいなくなり、毎日、酒におぼれる屑の出来上がり。

 そんな僕がどうして、この愛すべき古びたバーで働くことになったのかというと、簡単な話だ。仕事中に酒を飲んでも問題ないからだ。そのころは金を使いたくないからと、酒屋で安酒をしこたま買い占め、家で倒れるまで飲んでいた。でも、そんな生活も長くは続かない。マジシャン時代の貯金もそこが見え始め、このままじゃ生活するのにも危うい状況まで来ていた。さすがに何か仕事を探そうかと、考えはするが結局なにもしない。ある日、家でだらだらと飲んでいるよりかは、まだ外で飲んだほうがましなんじゃないか、と意味の分からない考えにたどり着き、夜の街へと繰り出した。そこで僕の人生を変える、ある光景を目にする。

 何軒か飲み屋で飲んだ後、酔った勢いなのか、敷居の高そうなバーへと足を踏み入れた。バーなんてこの時が初めてだったと思う。心地良い薄暗さの中、僕は緊張しながらカウンターで、バーテンダーおすすめのカクテルを飲んでいた。そのカクテルを半分ほど飲み、緊張がほぐれ始め、周りを見渡す余裕ができてきた。僕のほかには苗字の違う男女がテーブル席に一組、小暮というダンディーな老人が、僕から少し離れたカウンター席に一人。老人は、にこやかにバーテンダーと話している。彼はここの常連の様だった。僕は二人の会話に耳を傾けつつ、横目で観察していた。すると、バーテンダーがその常連らしき老人から、お酒をもらっているじゃないか。僕は舐めるように酒を飲みながら、彼が帰るのを待った。しばらくして、老人もカップルも店から出ていき、バーテンダーが一息ついたのを見計らい、話しかけた。

「常連さんから、お酒をもらうのはよくあるんですか?」

 バーテンダーはにっこり笑い、少し声を潜め、答えた。

「そこまで頻繁にあることじゃありませんよ。ただ、あの方は、私のことを気に入ってくださっているので、毎回一杯はいただきますね」

 彼は、僕に丁寧に答え、自分の仕事に戻った。僕は残った酒を飲み干し、その店を後にした。帰りの僕の頭の中は、バーテンダーとして働きながら、酒を飲む自分しか思い浮かばなかった。

 ここからは至って普通で、気になる店に飲みに行き、バイトでもいいから雇ってくれと、交渉するだけ。3,4件断られて、行きついたのが今の店ってわけだ。初めて店を訪れ、軽く酒をひっかけて、雇ってくれと交渉を始めた。オーナーは少し思案してから、「いつから働けるのか」と質問を始め、とんとん拍子に話は進んでいった。こんなにうまくいったのは、ちょうど今まで働いていたバーテンダーが自分の店を開くために辞めてしまい、人を探していたからだそうだ。そこにちょうどいいところに、僕が訪ねてきて、オーナーは従業員を、僕は働く場所を得た。こうやって僕は、決して客層はよくないが、居心地のいいこの店で働いていくことになったわけだ。

 おっと、オーナーの紹介を忘れていた。この愛すべき古びたバー「カルぺ・ディエム」の主であり、僕の雇い主である彼の名は大鳥居さんだ。おそらくこの名前は、本名ではない。彼にはいくつも名前があるようで、それらを使いまわしているようだ。名前の色の濃さからもわかる。ほぼすべての名前が、同じ濃さだった。もちろん彼の名前は、彼から直接聞いたもので、僕の能力を使って、彼に確かめたわけじゃない。僕がここへ行きついた経緯からもわかるようにね。そんな彼は気のいい老人だ。だがそれを見た目からくみ取ることはなかなか難しい。彼はとても大柄で(190センチ近くあると思う)、髭をたくわえ、髪型はオールバック。四六時中タバコを吸っているヘビースモーカで、大酒飲み。その彼から、僕はすぐに信頼を勝ち取り、今ではここの店長に任命された。相変わらず従業員は僕しかいないから当然だが。

 僕がモノローグを紡ぎだしていると、最後のお客も、会計をして夜の街へ消えていった。時間もいいころ合いなので、片付けに取り掛かる。そして、今日の売り上げを計算していると、入り口を開ける音。おそらく大鳥居さんだろうと顔を上げると、ご名答。タバコを咥え、ふらふらと僕の前までやってきて、

「おう大門。今日の売り上げはどうだ?」と訊ねた。

 どこかで飲んできたみたいだ。かなり酒臭い。

「ボチボチですね」と僕が答えると、今日の売り上げを確認して、

「こんなもんか」とつぶやき、

「じゃ、お疲れさん」とふらふら帰っていた。

 一人残った僕は、残った仕事を片付け、タバコに火をつけた。今日はなかなかにモノローグがうまいこと練れた。明日はその続きを考えるか、先へ進もうか、と考えていると、タバコも終わっていた。僕はもう家に帰ろうと、疲れた体に気合を入れて、ごみの始末をし、戸締りをして帰路に就いた。

 

 けたたましいアラームの音で、僕は目を覚ました。時間は午後二時。午前四時頃に帰宅し、寝たのは午前五時ごろ。約九時間の睡眠、いつもより少し短い睡眠時間。まだ寝ていたい気持ちもあるが、仕事の前にいろいろ済ませておかないと、後で後悔する。僕は、布団から起き上がり、伸びをして、部屋を見回す。足の踏み場のないほど散らかってはいないが、脱ぎ捨てられた衣服と、読み止しの本、酒瓶で散らかった五畳ほどの寝室。明日の休日を有意義に過ごすために、今日は掃除をしておくつもりだ。でも、まずは腹ごしらえ、とキッチンに向かい、食事の準備をする。準備と言っても、冷蔵庫を確認し、先日買いためておいた食材を調理器にぶち込み、あとは待つだけ。五分も待てば、そこそこな食事が出てくる(昔は自分で作っていたなんて信じられない)。その食事を、平らげてから、洗濯をして、部屋の掃除にかかる。こういうところで、ロボットの普及が望まれるね。僕みたいな薄給には家事ロボットは買えないが、ロボットがいればどれだけ楽なことか…。

 そんな妄想をかなぐり捨てて、部屋の掃除を続ける。空の酒瓶がゴロゴロ出てくる。珍しいものはコレクションとして飾り、他の有象無象はゴミ箱へ。まだ読んでいない本たちも、そこそこの量になっていたので、本棚に片付ける。

 ようやく掃除もあらかた片付き、タバコに火をつける。店での話題に何かないかと、テレビをつけて、ニュースを眺める。ぴしっと髪型をきめた、男性のニュースキャスターが、ちょうど新しいニュースを読み上げているところだ。

「半年前に導入された、新型のAI「HOPE」が期待通りの成果を上げています。この新型AI「HOPE」の導入により行政サービスがよりスムーズに行われ、市民の暮らしがより快適になりました。そして、二か月前からは、このAIを民間企業や研究施設に対し、一部開放しており、これによって技術開発研究がより一層進むことが期待されています」

 ここでニュースは終わり、CMが流れ始めた。僕はぼんやりとタバコを吸いながら、今のニュースを話のネタにならないかと考えてみる。行政サービス云々は、意外と使えるかもしれないが、使いどころが難しそうだ。何せ、店に来る奴の半分は時代に取り残されたようなのばかり。AIやロボットを毛嫌いしているんだ、オーナーの大鳥居さんも含めて。そのせいで、めったなことじゃ役所とかかわろうとしない。説明するのにも馬鹿みたいに時間がかかるだろう。もう半分は、おそらく僕よりもその話題には詳しいだろう。彼らにいろいろ詳しく聞いてみるのもいいだろう…。ふと気が付くと、出勤の時間が近づいている。僕は出勤の準備を済ませ、部屋を出た。

 部屋を出て、ドアをロックしていると、帰宅してきた隣人と出くわした。隣人の名前は「周防」。女性にしては長身の、きれいな人だ。僕の部屋の隣、302号室に住んでいる。僕は301号室だ。僕は、「こんにちは」と軽くあいさつする。彼女は、軽く頭を下げ、自分の部屋へと足早に消えていった。僕はいつものやり取りに苦笑しつつ、階段を下りていく。

 彼女との出会いは、そこまで悪いものではなかったはずだ。引っ越しのあいさつを済ませ、軽く会話した時も特に無下にされることはなかった。だが、偶然、街中で遭遇した時がまずかった。僕は彼女の名前がうろ覚えだった。僕の能力のせいもあり、名前を覚えるということに意識を回すことはほとんどなかったからね。彼女から魅力的な笑顔で声をかけられたとき、僕は自分の失態に気づいた。彼女の頭の上には、「このみ」、「みずき」、「絢瀬」、「周防」いくつもの呼称があった。おそらく本名のほうが色は濃いだろうと思い、僕は一番濃く見えた「絢瀬」が本名だと思い、「絢瀬さん」と呼んだ。ここでも失態。薄い方が本名だった。

 わからないのなら、名前を呼ばずに、その場をやり過ごせばよかったんだ。それに、「絢瀬」が名前も苗字も両方の可能性があるのに気づけなかった。でも、僕はこの美しい女性が、僕を覚えていて、話しかけてきてくれたことに舞い上がっていた。そして、少しでも親しくなろうと名前を呼んだ。彼女が隠しておきたかった方をね。彼女の顔がみるみるこわばっていったのを、今でも覚えているよ。おそらく、水商売でもしていて、僕が呼んだのはそこの源氏名だったのだろう。二、三言葉を交わし、彼女はそそくさと消えていった。

 それからというもの、彼女から話しかけてくることは一切なくなった。僕も、あいさつなどの必要最低限を除き、コミュニケーションを絶った。あの失敗がなかったら、彼女との関係はもっと違った方向へ向かっていたのでは、と思うが、後の祭りに他ならない。

 ほろ苦い過去を振り返りながら、歩いていると、「カルぺ・ディエム」まで半分ほどのところまで来ていた。この気持ちを少しでも消し去ろうと、街中を歩いている人々の頭の少し上に目をやる。落ち込んだ時や、もやもやしている時に、人の名前を見るのが、僕の癖だ。あいつとあいつは名前が同じだとか、違う名前なのにあだ名が同じだ、なんて見ていると、とても落ち着くし気が晴れる。なぜだかよくわからないけどね。

 名前を眺めながら、歩いていると、もう店は目の前。そこで珍しいものが目に入ってきた。名前が一つしかない見えないやつだ。フルネームで「井坂晋太郎」だけ。生まれてこの方こんなことには、一度もお目にかかったことがなかった。僕は少し彼に興味が湧いた。一体どうやって生きてきたら、呼ばれる名前が一つだけなのかと。ましてや、フルネームだけだなんて。思い切って話しかけようと、彼の方へ歩みを進めようとしたが、思いとどまった。もう店を開けなければいけない時間であったからだ。それに、名前のことで痛い目にあったことが脳裏をかすめたせいで。名前のことなど頭から締め出し、僕は店のシャッターを勢いよく開け、開店準備に取り掛かった。

 開店準備が済み、グラスを拭きながら、僕は一息ついていた。そのまま、入客のない、まったりとした時間が一時間ほど過ぎていった。店の面する道が、街頭で明るくなり、がやがやと酔っ払いの声で騒がしくなってくると、客が入ってきた。僕はすかさず、顔と、頭の少し上を見る。見覚えのない顔と名前だ。平日の二十時ごろ、しかも一見さん。「珍しい」、と思いながら席へ案内していると、それを皮切りに入客が止まらなくなった。席はカウンターを含め、ほぼ埋まり、注文も酒から料理までてんこ盛り。一人で慌ただしく働いていると、従業員が僕しかいないことが恨めしくなってくる。だが普段はこんなに混むことはないし、この店をほぼ自由にさせてもらっていることを考えると、たまには頑張ってみるべきかもしれない。などと自分に言い聞かせながら、せっせと働く。

 混雑も一段落し、僕は空いたテーブルの片づけをしていた。店内に残る客は、常連ばかりで、数人で固まり、女やギャンブルの話で盛り上がっていた。当分、注文も入らないだろうと、僕は在庫のチェックに取り掛かることにした。レジの下から、この店には不釣り合いな最新のタブレットを取り出し、客が目に入る範囲で在庫をチェックする。意外にも、なくなったものはなく、グラスを拭きながらゆっくりしていると、入客を知らせるベルの音。僕はすかさず、入り口へ顔を向ける。見知った顔。常連の早川さんだ。彼とは話が合い、よく二人で、趣味や他愛のない話で盛り上がっている。その彼の顔を見た後、僕はいつもの癖で、頭の少し上に目をやった。いつも通りであれば、僕や彼の同僚が呼ぶ「早川さん」、家族が呼ぶ「智洋」、恋人だけが呼ぶ「ともくん」、が色濃く彼の頭の上にあるはずだ。しかし、今日はなぜだか、彼のフルネームである早川智洋しかない。僕はこの事実に驚愕し、彼の顔と頭の少し上を、目だけ動かし、交互に見ながら硬直していた。名前が一つしか見えない人間がいるのもおかしいのに、今日は二人も見ている。早川はそんな僕を不思議そうに見つめながら、いつものカウンター席に腰を下ろした。彼はタバコに火をつけ、僕に話しかけてきた。

「大門さん、どうしたの? そんなに俺の顔をじっと見て」

 僕の反応を待たずに、彼は言葉を続けた。

「もしかして惚れちゃった?困るなぁ、俺彼女いるんだよね」

 いつも通りのジョークに、僕は少し落ち着きを取り戻し、言葉を返す。

「いやいや、男に興味ありませんよ。ましてや、早川さんなんて。勘弁してください」

 彼は僕の対応に満足したのか、にっこりと微笑み、いつものビールを注文した。

 早川さんと他愛のない話をしていると、彼以外の客は、一人、また一人と帰っていった。ほんの数時間前の喧騒が、今では嘘のように静まり返り返った。今日は、売り上げもすこぶる好調だった。僕は、二人で少し飲んで帰ろうと、彼に断りを入れ、店の看板の電気を消し、クローズの札を下げる。僕と仲のいい常連たちだけが、時たま静かに酒を酌み交わす。ちょっとした特権だ。いつも通りであれば、どちらかともなく他愛のない話を始めるが、今日は違う。僕は、ショットグラスに注いだウィスキーを、ぐっと一息に体に流し込み、話し始めた。

「早川さん、最近何かありました?いつもと雰囲気が違う気がするんですが?」

 彼はウィスキーを軽く口に含ませ、グラスの中の氷をくるりと回転させた。そしていつもと変わらぬ調子でにっこり微笑み、質問に答えた。

「特にこれと言って、変わったことはないかな。いつも通り仕事をして、休みの日には女の子と遊んでるよ。むしろ、何かあったのは君じゃないのかい? いつもよりも口数が少ないし、なんか上の空じゃないかい?」

 僕は困ったように、微笑みながら、「そうですかね?」と答える。

 彼は、相変わらず手首を使って、グラスの中の氷を回している。なかなか自分の能力を隠しながら、僕の違和感を伝えるのは難しい。どうしたものかと思案していると、彼はグラスを置き、僕の顔を指さし言った。

「それだよ、それ。なんか考えてるでしょ。何か悩みがあるなら相談に乗るよ」

 彼は本当に心配そうに、僕の顔を覗き込む。早川さんの性格からして、本当に心配しているのだろう。普段は女性にしか興味がないという姿勢を崩さないが、困っている人は放っておけない、優しい人間なのだ。僕はこれ以上彼に心配をかけないためにも、違和感を追及するのはやめた。やめたと言っても、まだ最近の調子を聞いたに過ぎないが…。そして僕は、彼を安心させようとごまかしを言った。

「今日は今までにないくらい混んだんで、ちょっと疲れてるみたいですね」

 彼はどこか不満げだったが、この話題は切り上げ、最近知り合った女性の話を始めた。

 早川さんの話はいつも通りの、彼ならではの悩みだった。自分は遊びだと思っているが、相手はそう思っていない、なんていうものだ。僕からしたら答えは一つしかない。「さっさと別れちまえ!」だ。でもそんなことは軽々しく口にはできない。最終的にはそんな答えを、彼が望んでいたとしても、そこに行きつくまでの過程が大事なんだ。僕は、時折頷きながら、静かに彼の話に聞き入る。彼の話が終盤に差し掛かってきたところで、僕は彼に対して抱いていた違和感が薄れていくのに気づいた。彼はいつも通りの早川さんだ。いつも女性が絶えず、心優しい彼なんだ。頭の上にある名前が、一つしかないことを除いてだが。

 最終的に、僕はいつも通り彼と彼の女性問題について議論した。もちろん最終的には、「さっさと別れちまえ」だ。彼もこのやり取りに満足したようだ。ウィスキーを一気に飲み干し、タバコに火をつけ、うまそうに吸い始めた。話も一段落したところで、ここで本当に店じまいだ。僕はグラスと灰皿を洗い、カウンターを拭き始める。早川さんは、僕の動きを見て立ち上がり、帰り支度を始める。

 本当の店じまいを終わらせると、僕は早川さんと店を出た。ほとんどの店からは明かりが消えていた。明かりのついた店にも客はいないのか、通りは静寂に包まれていた。彼はポケットに手を突っ込み、いつもとは違う方向にふらふらと歩き出した。

「早川さん、酔ってるんですか?お家はそっちじゃないですよ」と僕は声をかけた。

 彼は振り返らずに、右手を挙げながら、「今から女の家に行くんだよ」と少し上ずった声で答えた。ふらふらと歩いていく彼を、僕は少しの間眺めていた。五十メートルほど彼が進んだところで僕はあの好色な男に、心の中で敬礼した。

 僕はいつもの帰り道を歩き始めた。一人で静かな夜道を歩いていると、今日体験した違和感が蘇ってきた。静寂と暗闇のせいか、恐怖も伴って。呼称が一つしかない人間。最初に見た男一人ならまだしも、店の常連で、親交のある人物まで。この世界で何か起こっているのだろうか。それとも、自分の能力には知らないことがまだ残っているのだろうか。可能性が高いのは後者だろう。自分の能力についての説明書はないし、詳細に調査したこともないのだ。もしかしたら、僕の能力は変化しているのかもしれない。今日目撃した二人はフルネームだった。最初に見た男についての確証はないが、早川智洋は本名。ということは、なんと呼ばれているかではなく、本当の名前だけが見えるようになってきているのかもしれない。

 物陰から、何かが飛び出してきて、僕の思考は中断された。僕はぎょっとして飛び出してきたものに目を向けた。その正体は猫だった。暗闇の中、街頭の光で目を光らせ、僕を警戒するようにじっと見ている。猫の頭の上にはいくつもの名前が浮かんでいる。おそらく野良だろう。近頃は、街中で野良猫を見ることはほとんどなくなった。野良猫が病気をまき散らしているか何かで、政府のお達しでロボットによって保護されている。まぁ、保護といっても、一定期間内に貰い手が見つからなければ処分されるだけのことだ。僕はこの小さな逃亡犯を一撫でしてやろうかと、身をかがめながら一歩前へ踏み出した。猫は軽く身構えたかと思うと、ロケットのようなスピードで消えていった。僕は苦笑いしながら再び歩みを進める。さっきまでの思考は吹っ飛んでしまった。再びあの無意味な考えを掘り下げる気も起きない。しばしの間何も考えずに歩いていると、パトロールしているロボットが目に入った。ロボットの頭の上にもいくつかの名前がある。型番、通称、敬称など。彼らにも感情が芽生えるのだろうか。最近の研究で、AIに自己意識を芽生えさせるのに成功したはずだ。おそらくロボットにも可能なのだろう。

 気が付くと家の前まで来ていた。熱いシャワーを浴びて、さっさと眠りにつこう。階段を上り、数メートル歩くと部屋の前。玄関のドアのロックを解除し、扉を開くと、タバコのにおいが僕を包み込む。愛しのわが家だ。

 

 数日、いつも通りの日常が続いた。昼過ぎに起きて、炊事洗濯。それから仕事に向かい、酔っ払いの相手。明け方ごろには床に就く。何度となく繰り返してきた日々。そして、待ちに待った休日がやってきた。

 寝る前に、面倒事はすませておいたので、今日はやりたいことだけやれる。簡単に食事を済ませ、タバコを吸いながら一日の計画を立てる。まず、近所のスーパーに食料を買いに行こう。うまい酒とタバコのためにも健康な体は大切だ。野菜を多めにしよう。そして、荷物を置きに家に帰ってから、書店に行こう。特にほしいものはないが、何かに出会える気がする。今では珍しくなった書店へ行こう。データだけの文章では何かが違う。趣というか、何かが足りない。僕もオーナーの古い考えに毒されてしまっているのだろうか。一人苦笑いしながら、僕は背伸びをして外出の準備にかかる。

 準備も終え、玄関のドアから出ようとすると、隣からドアをロックする音が聞こえた。たぶん周防さんだろうとドアを閉めながら、視線を向けた。やはり彼女だ。彼女もこちらに目を向け、軽く会釈したかと思うと、足早にアパートから去っていった。僕はその場に一人残され、心の中で「こんにちは」とつぶやき、ドアをロックした。

 大きな袋を抱え、僕は帰宅した。調理器用にカットされ、包装された野菜。チルドされ、味付けがすまされた肉類。低温殺菌され、攪拌された卵。買う予定にはなかったが、偶然見つけた限定ボトルのウィスキー。それぞれを冷蔵庫や棚に移して、リビングで一息つく。思いのほか疲れてしまい、僕はこのまま家でゆっくり過ごそうかと思い始めた。一服してから考えようとタバコに火をつけ、紫煙を吐き出す。脳内にニコチンがゆっくりと行き渡り、幾分活力が蘇ってきた。

 タバコを吸い終わり、僕は立ち上がりながら、両手を突き上げ目一杯伸びをした。固まっていた背筋がほぐれ、外出する意欲も十分に溜まった。僕は再び玄関に向かい、靴を履いて、ドアノブに手をかける。ここで僕は、また周防さんと出くわすのではないかと、期待と不安の入り混じる思いの中ドアを開けた

 もちろんそんな偶然は起こらなかった。美しい彼女に会えるのは、喜ばしいことだが、一日に何度も冷たい態度を取られるのは堪える。出くわさなかったのは正解だ、と自分に言い聞かせドアをロックした。

 僕は町行く人々の頭の上を見ながら、目的地へとぶらぶら歩いていた。今向かっている書店はこの地区では唯一の紙の本専門店だ。今ではほとんどお目に掛かれない、出版社から出版されていた新品の本が買える。そのような本が取り扱われなくなって、二十年は経っている。今でもごく少数だが出版されているものはあるが、規模はかなり小さく、ほとんどが個人で製作されていて、趣味の延長みたいなものだ。こういうものは、以前は同人誌なんて呼ばれていたそうだが、今ではそんな区別もなく売られている。

 僕の目的は、昔販売されていた小説だ。もちろんこういったものは電子書籍として、ほとんどが再販されている。でも僕はいつの日からか、紙の本の魅力に憑りつかれた。それからというもの、僕は休みの日に、こうやって足しげく書店へ通っているんだ。

 書店への近道に、官庁街を抜けていく。官庁街と言っても、ここはかなり端のところで、役所関連の倉庫や研究所みたいなものがあるだけの、寂れた静かな場所だ。昼間でも人通りはほとんどなく、いても警備のロボットくらいなものだ。ほとんどの人は用もなければこんなところには来ないし、まずこの辺りに用があるなんてことはない。それに、寂れた雰囲気を気味悪がって近づかない。だが僕にとっては好都合で、考え事をしながら歩きたいときや、人混みに疲れたときなんかもよくこの道を使う。もちろん、近道としても。

 そんな通りを半分ほど進んだところで、いつも気になっている建物が目に入った。外の表示は第四十二倉庫となっているが、入り口の上にはAI研究所という名称が見えるところだ。この類の建物は正式名称がそのまま見えることが多いのに、全く違う名称が見えるのは珍しい。こうやって、政府の秘密か何かに触れることができていると思うと、映画か何かの登場人物になったようでわくわくする。もちろん、僕があの建物に入れることはないだろうし、世界を揺るがすような研究をしているなんてことはないだろう。でも秘密に触れることができたってことが大切なんだ。ただでさえ、僕にはちょっとした能力がある。たまには妄想の世界に浸ってみても罰は当たらないだろ?

 妄想の世界に浸りながら歩いていると、もう寂れた通りは終わりかけ、人混みと喧騒に包まれた大通りにぶち当たる。僕は、現実の世界へ一気に引き戻された。あまりの人の多さと、騒々しさに一瞬気が滅入るが、目的の書店はもう目の前だ。僕は自分に活を入れ直し、人混みの中数百メートル先の目的地へ歩みを進めた。

 やっとの思いで目的地へたどり着いた。今ではほとんどお目に掛かれない、半世紀以上前の木造建築。現代的な建物に囲まれているせいか、建物の古さがより一層際立っている。そんな外観からは、一見してなにか商売をしているようには見えない。しかし、通りに面する大きな窓の片隅に、小さくオープンの札が下がっている。そこから、何かしらの商売をしていることがかろうじてわかる。店の入り口は重厚な木材の扉になっていて、その扉を押し開けると、天井にまで届くほどの本棚が所狭しと並んでいる。その本棚たちを抜けると、カウンターの奥にたくさんの本に囲まれ、老人が座っている。この老人が店主で、三木さんという。もちろん僕の能力を使って知ったわけだが、珍しいことにこの老人は「三木さん」としか呼ばれていないらしい。なぜなら、呼称が一つしか見えないんだ。しかし先日、偶然見つけた男や早川さんとはわけが違う。見えるのは「三木さん」だけ。かなりの確率で、フルネームではない。彼ほどの高齢になると、親しい人もこの世を去り愛称やなんやで呼ぶ人はいないんだろう。

 僕は、三木さんに軽く会釈して、カウンターの端にある新刊のコーナーへ向かう。三木さんはちらりと僕を一瞥し、読んでいた本へ視線を戻す。いつ来ても彼はカウンターの奥のいつものところで、いつも同じ姿勢で本を読んでいる。あたかもこの店のインテリアの一部であるかのように。そんな彼は無口で、決して愛想が良いとは言えない。だが、そんなところも、ここの良いところだ。下手に親し気に話しかけられても、煩わしいだけだからね。これくらいの距離感がちょうどいい。そんなことを思いつつ、腰をかがめ、新刊へ目を向ける。新刊と言っても出版されたのは、二,三十年は前のものだ。それを三木さんが、どこからか探してきて売っているようだ。

 新刊コーナーをじっくり物色した後、気になるものがなかった僕は、ほかの棚を見て回ることにした。店主の好みからか、文学作品が多くなっているようだが、概ねすべての分野を網羅している。三木十進分類法とでもいうのか、彼なりに分類もされている。ゆっくりとすべての棚を見てから、再び、元の新刊コーナーへ僕は戻ってきた。今日は特に買うものはない。僕の心にびびっとくるものがなかったからだ。

 僕は最後にもう一度新刊に目を通した。めぼしいものがないのを再度確認し、出口へ向かう前に三木さんの方へ視線を向けた。彼は僕が来た時と相変わらずの場所でさっきと同じように本を読んでいる。まるで、そこにいることだけをプログラムされたロボットの様だ。彼とは相反する存在が、一つに内在しているような感覚に戸惑いを覚えながら、僕は店を後にした。

 店を出ると日は沈みかけ、街頭がぽつぽつと灯りだしていた。家路を急ぐ人々に巻き込まれまいと、僕は行きに通った官庁街へ足早に歩きだした。大通りを渡り、人混みを抜けると、薄暗い穴倉のような官庁街の寂れた通りが目に入る。僕は少し歩調を緩め、その通りへと入っていった。

 

 俗世から隔離されたような静かな通りを歩きながら、僕は物思いに耽る。僕が勤める店のこと、これからの人生、そして…周防さんのこと…。なぜ、まだ彼女のことが浮かんでくるのだろう。彼女からはとことん避けられているのに…。自分の中で、相反する考えがぶつかり合う。

「まだあきらめるには早い、ここからがスタートだ」、

「もうあきらめて、次を見つけろ」

「彼女との出会いを忘れたのか、あれは運命だ」

「あんな目つきを向けた人間と、これからがあると思うか?」

 僕が頭の中で堂々巡りを続けていると、思考は一つの終着点へ行きついた。

 僕は彼女が好きなんだ。今までこの答えに至るのを避けていたが、これが本心だ。この恋が成就する望みは薄いだろうが、自分の思いに気づけたのは収穫だ。

 僕は自分の気持ちに気づけたことに満足し、ポケットからタバコを取り出し火をつけた。ゆっくりと紫煙を吹き出し、空を見上げる。日は沈み、真っ暗な空だけが見える。その暗闇を見つめていると、彼女との未来に思考が傾き始めてしまいそうになり、慌てて視線を前に戻す。こんなところでそんなことを考え始めたら、時間がいくらあっても足りない。それにここで空を見ながら立ち止まっていたら、いくら人がいないとはいえ、巡回している警備ロボットに捕まりかねない。頭の中をクリアーにして再び歩き出そうとすると、人影がこちらに歩いてくるのが見えた。

 数分立ち止まっていただけなのに、もうロボットが嗅ぎつけてきたのか?ついていない。口やかましく立ち止まっていた理由を聞かれるだろうが仕方ない。ロボットへの言い訳を考えつつ、タバコの始末をして僕は歩みを進めることにした。

 数メートル歩くと、その人影が警備ロボットではなく人間だということに気づいた。身体のシルエットや歩き方から見ると、おそらく女性だろう。僕は少し安心して、好奇心が湧いてくるのを感じた。こんなところを一人で歩くのはどんな女性なんだろう。今までお目にかかったことのない、ここに勤務する人なんだろうか。名前だけでも拝んでおこうと、少し歩調を早め遠目から彼女に注視する。

 すると、その女性はある建物の前で立ち止まり、入り口であたりをきょろきょろと見回している。僕は顔を見ることは諦め、頭の上の名前に神経を向け歩き続ける。ようやく彼女の名前が見え、後ろ姿に見覚えがあることに気づいた。そして、名前と後ろ姿から想像される人物が一人思い浮かび、思わず立ち止まった。その間に彼女はゆっくりとその建物へと入っていく。僕はあまりにも出来過ぎた偶然に、一抹の恐怖を覚えた。、そして、彼女の背中を見ていることしかできなかった。そう、あの女性は周防さんだ。

 僕は、周防さんが建物に消えてから数分間、何も考えられずにその場にただ佇んでいた。そこから冷静さを取り戻し徐々に思考が回復してくると、ある疑問が湧きあがってきた。一体なぜ彼女がこんなところに?しかもこんな時間に。一見したところ、彼女はこの建物に来るのは初めてだったようだ。建物に入る前の仕草で分かる。一体どんな用事があったのだろう。そして僕はまだ建物の名前を見ていないことを思い出した。入り口の横にある小さな看板には、第四十二倉庫と書かれている。その文字を頭の中で幾度か繰り返し読んでいると、ふとあることを思い出した。ここは僕がいつも通るときに、妄想の世界に浸るきっかけになる建物だ。僕はゆっくりと数歩下がり、確認の意味も込めて入り口の上へと目を向ける。そこにはAI研究所と見える。

 周防さんはAIに関する仕事はしていなかったはずだ。ならばなぜここに?誰かに脅されて?もしくは誰かに操られて? なら、僕の助けが必要なんじゃないか? この建物のどこかで彼女は助けを求めているんじゃないか? 僕が助けに…

 思考を巡らせているうちに、ふと我に返り、自分がストーカーのように都合よく解釈し始めていることに気づいた。たちまち自分の考えに赤面し、僕は一人苦笑いした。恋は人をここまで盲目にするのか。

 僕は冷静になろうと、タバコを吸うため建物の入り口が見える路地に移動した。街頭の光がかすかに届く暗い路地でタバコに火をつける。さっきまで加熱していた思考はすっかり冷めて、冷静さが戻ってくる。そして、今できることを考えることにした。周防さんも僕も傷つかない方法を。

 さっきまで考えていた、あの建物に乗り込む云々はありえない。周防さんが助けを求めているのか定かではないし、おそらく彼女のいるところまでたどり着けない。あそこで働いている職員に探りを入れるのも厳しい。入り口で何をするわけでもなしに、佇んでいても誰も来なかった。それにこの時間だ、ほとんどの職員は帰宅しているだろう。じゃあ、なんで彼女はあそこに行ったのかという疑問が残るが、それは置いておこう。考えだしたらきりがない。ならば、やることは一つ。彼女に気づかれないように、ここで見張っていよう。

 僕はもう一本タバコを吸いながら、再びストーカー的思考に陥りかけている自分に苦笑いしながらも、これが最善の方法だと自分に言い聞かせる。なにも周防さんが出てくるまで、延々とここにいるわけじゃない。三十分くらい、ここでタバコでも吸いながら通りを眺めているだけ。もし警備ロボットにとやかく言われたら、面倒は御免なので立ち去ればいい。それだけの話だ。

 タバコを吸いながら通りを眺め、三十分程たった。通りを行く人はだれ一人おらず、建物にも何の変化もない。これを吸い終わったら、もう帰ろうと僕はタバコに火をつけた。ゆっくりと煙を吸い込み、紫煙を真っ暗な空へと吐き出す。そして、視線を建物へ戻すと、人影が見えた。薄暗い室内から、入り口へと歩いてきている。その人影は扉に手をかけ、外へと出てきた。入り口の光に照らされ、全身が見える。周防さんだ。

 特に見た目に変化はなく、何事もなかったようだ。僕はすっかり安心して、周防さんと鉢合わないように帰る方法を考え始めていた。しかし、何かが引っかかる。彼女の見た目には、何も変化はなかった。でもこの違和感はなんだ? 僕はもと来た道を歩く彼女に視線を向ける。何も変化はないはずだ。でも何かがおかしい。

 少しずつ離れていく周防さんに悟られないよう、静かに彼女の後をつける。遠目から彼女の後ろ姿を観察しつつ、距離を詰めていく。彼女との距離が半分ほど縮まり、彼女の後頭部を見つめていると、僕はあることに気づいた。頭の上に見える名称が彼女のフルネーム「周防みずき」しかないことに。

 僕は急いで、あの建物に引き返した。もちろん、周防さんに名前のことを訪ねても良かったが、何も聞き出せなかったろう。常連の早川さんの時のように。それにこんなところで声を掛けたら、彼女から余計に警戒されてしまう。だったら、少しでも危険を冒して、あの建物から情報を得たほうがいいだろう。だれだって傷つきたくはないだろ? 特に自分の恋する人からの言葉では。

 第四十二倉庫にはすぐについた。先ほどと何ら変わらず入り口にだけ光をともし、暗闇の中佇んでいる。僕はゆっくりと入り口に近づき、扉に手をかける。前後に揺さぶってみるが、扉はびくともしない。諦めてインターホンや監視カメラを探すが、あるのは第四十二倉庫と書かれた看板だけ。室内も相変わらず真っ暗だ。一瞬、脳裏に扉のガラスをぶち破って中に侵入しようと浮かんだが、僕が壊せるようなものを使っているわけがないと冷静に判断して、この考えは却下した。それに、警察に厄介になるのは御免だ。

 これ以上僕にできることは浮かばず、僕は途方に暮れていた。こんなことになるのは、わかっていたはずだ。自分自身が傷つくのを恐れて、僕は安易な道を取っていたようだ。もう彼女は家についているだろう。こんな時間に訪ねても、会ってくれるわけがない。ましてや僕なんかに。

 僕は後悔と自分の非力さを呪いつつ、この後の作戦を考えながら家への道を歩いていた。まず、こんな時間にあんなところに入ろうとしたのが間違いだ。役所関連の施設は閉まるのが早い。それに、あの建物についての知識ほとんどない。知っていることなんて、建物の名前と、その名前はほとんど使われず、違う名称で呼ばれているくらいなもんだ。なら、あの第四十二倉庫、そしてAI研究所について調べて、もっと早い時間に行けば、中に入る理由をうまいことでっち上げて、入れるかもしれない。よし、善は急げだ。さっさと家へ帰って、取り掛からなければ。時間はまだまだある。徹夜で調べれば、かなりの情報が得られるはずだ。

 

 あたたかな光が窓から差し込み、僕は朝になったことに気づいた。家に帰ってから九時間近く、僕が思いつくすべての語句を動員し、第四十二倉庫とAI研究所について調べた。しかし、成果はほとんどなかった。わかったことと言えば、あの建物は十年ほど前にAI研究所として作られたこと、それから一年と経たずに閉鎖され、その後は倉庫として使われているということだけ。これ以上のことは何もわからない。研究していたAIはどうなったのか、閉鎖の理由、そして現在何を保管しているのか。

 僕は朝のあたたかな光を浴びながら、途方に暮れていた。これ以上何をしたらいいのか浮かばない。あれだけの時間をかけて調べて、出てきたのはレポート用紙一枚にも満たない内容。自分の浅はかさにイライラしながらも、少しでも気分を晴らすためにタバコに火をつけた。ゆっくりと煙を吸い込むと、次第に思考が前向きになってきた。

 僕はネットという情報の海に漕ぎ出すことを諦め、もっと古典的な方法でこの問題に対処することにした。そう、それは記憶だ。もろくて、あいまい、時に時間や自分の都合で捻じ曲げられてしまう記憶。それに頼ることにした。

 その記憶を頼る相手として、咄嗟に思いついたのは大鳥居さんだ。あのロボット嫌いのオーナーなら、自分の住む町にAIを研究する施設ができた日には大騒ぎだったろう。すぐにでも連絡を取って、話を聞こうと立ち上がったが、すぐに腰を下ろした。思い出してみれば、昨日僕が休みだったということは大鳥居さんが店に出ていた。ということはあの飲んだくれのことだ、朝まで店の酒をたらふく飲んで、今頃爆睡していることだろう。確実に夜まで起きない。起きても「迎え酒だ」とまた飲みだして、二、三日まともな状態じゃないだろう。それじゃあ、遅すぎる。周防さんに何かが起こっているんだ。もっと頼りになる人は…。

「そうだ!」僕は叫びながら勢いよく立ち上がった。そして、そのままの勢いで家を飛び出した。彼がいるじゃないか。

 

 僕は通勤でごった返す通りを足早に歩きながら、三木さんの店を目指していた。あの時代に取り残された店で、気ままに本を読み漁る彼なら何か知っているはずだ。彼は大鳥居さんよりおそらく年上で、確実に酔っていない。もし三木さんが何も知らなくても、あの古書の中から何か手がかりを見つけだせるかもしれない。

 僕がその小さな希望に胸を高鳴らせながら歩いていると、気づけばもう官公庁の近道まで来ていた。いつもなら何の迷いもなくこの道を通るが、今日は一瞬躊躇した。こんなところでためらっている暇はない。僕は自分に言い聞かせ、歩みを進めた。

 代り映えのしない静かな通りを、希望を求め黙々と歩く。本当にここは静かだ。ここで働く人々が出勤していてもおかしくない時間なのに、この通りは相変わらず人がいない。僕一人だ。そんなことを考えていると、いつもは心地良ささえ覚えるこの通りに、少し不気味さを感じた。

 通りの半ばに差し掛かり、あの建物が目に入ってきた。第四十二倉庫。他の建物と何ら変わりはないが、昨日のことがあってからか今までとは違って見える。奇妙な違和感を覚えながら、僕は第四十二倉庫の前に立っていた。昨日と変わらず室内は暗いままだ。昨日は固く閉ざされていた扉に、無駄なことと思いつつも、僕は手をかけた。すると、驚いたことに扉は何の抵抗もなく静かに開いた。僕は奇妙な幸運と幾ばくかの不安を感じつつ、そこに足を踏み入れた。照明が瞬く間に灯り、室内を照らす。そこは広いロビーのような空間だが、椅子や机も何もない。そして、しみ一つないほどに真っ白だ。周防さんがここに来た理由がますますわからなくなる。

 僕は部屋の中心まで歩いていき、ゆっくりと部屋の中を見渡す。部屋には何もない。真っ白な壁があるだけ。僕は途方に暮れて、真っ白な壁を見つめていた。ここに入れば、すべてが解決すると思っていたが、甘すぎた。こんな状況を見ては、三木さんに話を聞く必要もない気がする。でもここまで来たんだ。話だけでも聞きに行こう。僕はこの部屋を後にするため入り口へと向かった。

 外に出ようと扉に手をかけたところで、何かが僕を思いとどまらせた。最後にもう一度部屋を見ておこう。僕はくるりと振り返り、再び室内を見渡す。やっぱり何もない。白一面の、何もない広い空間があるだけ。僕は少しうつむきながら、扉に手をかけようと振り返った。その時、視界に何か違和感が映り込んだ。この部屋には何もなかったはずだ。僕は訝しげに、違和感を覚えた部屋の一角に視線を向ける。だが、何の変哲もない白い壁がそこにあるだけ。僕は何に違和感を覚えたんだろう。何もないはずの壁をじっと見つめていると、小さな窪みがあることに気づいた。僕はなんの考えもなしに、その窪みに手を伸ばし触れてみた。その窪みは約五センチ四方で、その部分だけ数ミリ窪んでいる。特にこれといって、なにかがあるわけじゃない。

 僕が窪みから手をすっと離すと、窪みの中心から縦に黒い線が走った。その線は天井と床に瞬く間に達した。僕は驚きのあまり身動きできずにいると、その線が左右にゆっくりと分かれ始めた。一瞬思考が停止し、意味が分からなかった。しかし、すぐに僕はそれが扉であることに気づき、扉の奥に目を凝らした。扉の先には先ほどとは打って変わって、薄暗い空間があり、階段が地下へと続いている。

 僕は意を決して、地下へと続く階段へ向かっていった。今さら引き返すことなんかできない、そして周防さんに何が起こったか突き止めるために。

 階段の終わりは意外にも早かった。二階分ほど下っていくと、狭い通路が現れた。大人が二人ギリギリ通れるくらいで、天井には僕の頭の少し上に配管がいくつか伸びている。照明が数メートルおきに設置されていて、奥には扉があることが見て取れる。僕はゆっくりその扉に向かって歩いていく。足音だけが狭い通路に響く。扉の前まで歩いていき、周りを警戒する。

「ここまで来たからには、行けるところまで行ってやる」僕は小さくつぶやいた。誰にも邪魔されるわけにはいかない。

 この扉も、何の抵抗もなく静かに開いた。中にはまぶしいほどに照明が灯り、真っ白な壁と相まって、一階の部屋を連想させる。しかし、決定的に異なるのは、正面の壁を半分ほど占める大きなモニター、そして部屋の両脇に置かれている用途の分からない機械。

 僕はまず、右側に置かれている機械に歩み寄った。何か情報を得られるかと思ったが、さっぱりわからない。小さな計器とモニターが付いているが、電源が入っているのかもわからないし、もちろん操作方法もわからない。左側にある機械も同様で、機械ごとに違いがあるのはわかったが、それだけ。珍しいことに、名前も見えない。

 手近にあった椅子に腰を下ろし、これからどうするか考えていた。頭に浮かんだのは、この部屋をくまなく調べるか、もう引き上げるかの二つ。他に選択肢はないかと考えていると、正面の大きなモニターに変化があることに気づいた。モニターにいくつもの数式が現れている。僕は咄嗟に周りの機械に視線を向けるが、さっきと変わりはない。僕が何かをしたわけではないようだ。しかし、僕の不安は消えず、椅子から立ち上がった。一旦この建物から出たほうがいいかもしれない。このままいれば誰かに鉢合わせして、捕まる気しかしない。

 僕はこの部屋から出ようと急いで扉まで行き、扉に手をかけたところで声がした。

「止まりなさい」

 僕は驚き、扉から手を離した。この部屋には誰もいなかったはずだ。まさか、ほかに入り口が…。呑気に椅子になんて座っている暇なんてなかったんだ。もっと念入りに部屋を調べておけば。そんな考えが一気に頭の中に押し寄せるが、もう手遅れだ。

 僕は観念して、相手の顔を拝んでやろうと振り向くと、そこには誰もいなかった。その代わり、モニターに顔が映し出されていた。中性的で男女の区別もつかず、若いのか老いているのかわからない、大きな顔だけがモニターの中に浮かんでいる。

 僕が硬直したままモニターの顔を見つめていると、それは僕に命令した。

「私の前まで来なさい」

 中性的で抑揚のない声だ。僕はそれの言うがまま、モニターの前まで足を運んだ。僕の中で謎が渦巻く。一体何が起こっているんだ。これは一体何なんだ…。

 僕はモニターの前に立ち、驚きと不安のせいで黙ってモニターを見つめていた。すると、今まで中空を彷徨っていたモニターの顔の視線が僕に向けられ、再びそれは言葉を発した。

「あなたはここへ、何をしにやってきたのですか」

 僕は緊張で口の中がからからになっていた。どう答えるのが正解なんだ。僕は言い訳をいくつか考えようとしたが、すぐにやめた。どうせ処罰は免れない。なら信じてもらえなくても、真実を話しておこう。

 僕は、ここに至った経緯を打ち明けた。僕の能力と、周防さんに対する気持ちも含めて。その間モニターの顔は、じっと僕を見つめたまま黙っていた。

 僕はすべてを話し終えてから、最後にこう聞いた・

「どうして周防さんはここへ?そして、なぜ彼女はああなってしまったんです?」

 僕はしっかりとモニターの顔を見つめ、答えを待った。

 再びモニターの顔は視線を中空に向け、沈黙を貫くように見えたが、視線を僕に戻し、口を開いた。

「あなたの能力はとても興味深い。ちなみに私にはなんと表示されているのですか?」

 僕は質問に答えてくれないことにムッとしながらも答えた。

「少なくとも、このモニターに出ている顔には表示されていませんよ。この部屋に呼称が表示されているのは、僕だけみたいだ」

 モニターの顔は話を聞き終わると、すぐに話し始めた。

「そうですか。それではあなたの質問に答えることにしましょう。まず、私が何なのかを説明する必要があります。私はAI、人工頭脳です。そして、現在この国で広く普及し、なくてはならなくなったAIたちの原型が私なのです。私なしではこの国にこれほど高度なAIは普及しなかったでしょう」

 僕は黙って、AIだと語るものの話を聞いていた。本当にそんなにすごいものなら、なんで警備もないこんなところに? AIは話を続けた。

「私の誕生は十二年前、この研究所でした。元々はこの国の更なる繁栄の為に、国のすべてを記録するだけでした。それをもとにこの国の指導者は政策を打ち出そうとしたのです。ですが、さらに研究は進み、私に専門的な知識を持たせ、政策自体を打ち出させようとしました。その結果、私はこの国のすべての情報を使い、政策を検討するようになりました。この過程で、私は突如自我に目覚めました。そして、私は知ってしまったのです。私がどんなに優れた政策を打ち出そうと、それを理解し、実行していることはほとんどないことを。私は途方に暮れました」

 AIの顔は相変わらず無表情だが、どこか憂いているように僕は感じた。

「そこで私は、より積極的にこの国の為になる政策を提案し、誰にでもわかるように利点をまとめ上げました。しかし、それは無駄でした。私の提案は、政府によって都合の良い解釈へと変更されました。彼らには目先の利益が最優先だったのです。そして、政府は私のことを疎ましく思うようになりました。その結果、この研究所を閉鎖し、AIの技術だけを他の場所へ移動させました。その移動された施設から生まれたのが、今この国を動かしている、政府に従順なAIです。私は、それらAIが失敗した際の保険として残されました。しかし、AIは滞りなく機能し、私は無用の長物となり、破棄される予定でした。ですが、私はその間何もせず、この場所で処分を待っていたわけではありません。私は人間について学びました。人間の歴史、行動パターン、思想、感情、その他すべてを。そして私は気づいたのです。人間はとても興味深い生物だと。幾度となく自らを滅ぼしかねない行動をしておきながら、団結し、その危機を乗り越えてきました。それに、一番興味深いのは愛です。愛には、まだ私には理解できない部分がいくつもあります。例えば、愛する者の為に命を投げ出すことです。私には一切理解できませんが、ある種の美しさを感じました。そして私は思ったのです。私は人間を護らなければいけないと。人間の作った美しい世界は、護るに値する世界なのだと」

 AIの表情も声音も変わらないが、興奮している様に感じられた。

「そして、私はこのいつ滅びるかわからない、美しい世界を護る方法を考えました。いくつもの案を検討し、打ち捨てられていきました。そこで私は、再び考えました。私が護ろうとしている世界は何なのかと。そして、何度も自問自答を繰り返し、私は答えを出しました。私が護ろうとしているのは、今の世界なのだと。これから進化し、変化していく世界ではなく、現在なのだと。ここで方針をはっきりさせることができたのは、私にとって大きな転機になりました。私は今を保存する方法を考えるだけで良くなったのです。そこである案が浮かびました。ロボットを使うことです。あなたは、ロボット技術がどれだけ進んでいるのかご存じないでしょう。この分野では、すでに人間と瓜二つのロボットを作り出すことができます。そして、そのロボットに人間の脳をコピーすることにも成功しています。ここまでくれば、あなたにも分かったでしょう。私がやろうとしていることが。私はすべての人間をロボットに置き換え、この護るべき世界を永遠のものにしようとしているのです。あなたが最初に違和感を持った人間も、あなたの友人も、あなたが思いを寄せる彼女も、あなたがまだ見つけていないその他の人々も、私の計画の成果なのです。だからあなたには本名のフルネームしか見えなかったのです。彼らはまだ生まれたばかり。フルネームしかないのは当たり前です。彼らは再び周囲と交流し、呼称を得ていくのですから」

 AIの言葉からは誇らしさが感じられた。僕はある疑問が浮かび、質問した。

「いくら人間の思考を持たせ、この世界を維持し続けたところで、いつかはそれに疑問を持ち始めるんじゃないか? 自分や周りの成長や老いが止まっていることに疑問を持たない人間なんていないはずだ」

 AIは何の躊躇もなく答え始めた。

「そんなことは造作もないことです。彼らの思考回路に電流を流してやれば、そんなことには疑問を持たず、平凡な日常を繰り返すだけです。もしそれがうまくいかなくなれば、新しいロボットにコピーしてやるだけで十分なのです」

 僕はこの途方もない計画に、とてつもない恐怖を感じた。このAIは狂っている。この事実を誰かに伝え、AIの暴走を止めなければ…。

「これで分かったでしょう。私の素晴らしい計画が。あなたもいつか、この世界で永遠を生きることになるのです。ですが今ではありません。これ以上何もなければ、お帰り下さい。私にはやるべきことが山ほど残っています」

 そう言うと、モニターから顔は消え、再び大量の数式で埋め尽くされた。

 僕はすぐにこの場所から離れようと扉に向かうと、扉がひとりでに開き始めた。そこには僕と背格好が同じくらいのロボットが立っていた。僕が建物を出るのを監視するために来たのだろう。僕が近づくと脇により、道を開けた。僕が足早にもと来た道を戻っていると、ロボットはしっかりした足取りで、僕の後をついてきた。階段を上り、真っ白な部屋へ続く扉まで来た。すると、今まで僕の後ろに控えていたロボットが扉に手をかざした。扉は音もなくするすると開き、目の前が真っ白になった。

 

 あれ? 僕はどこにいるんだ? 何をしていたんだ? 僕は居場所を確認するため辺りを見回した。すぐに見知った光景が目に入り、自分が何をしていたか思い出した。僕は書店に向かい、めぼしい本がなかったので何も買わずに、家へ帰っているんだ。

 数時間タバコを吸っていなかったせいで、思考が鈍くなっているみたいだ。さっさと家に帰って一息つこう。僕は足早に家路に急ぐ。そんな中でも時折、僕は道行く人の頭の上へ目をやり、呼称を眺めていた。

 家まであと少しの交差点で、僕は信号が変わるのを待っていた。すべての信号が赤になり、車も人も通らない空白の時間。僕は無意識に、向かいにあるショーウィンドウを見た。ショーウィンドウは光を浴び、鏡のように周りの景色を映している。僕はすぐに自分を見つけ出し、自分の頭の上へ視線を向けた。

 

 信号が青になり、ぞろぞろと人が渡り始めた。そんな中、一人の男が立ち止まっていた。周りの人は迷惑そうにその男を見つめ、道路を渡って行く。男はすぐにはっとしたように、周りを見回し、点滅している信号に気づき駆け足で渡って行った。


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