見学に行ってみた
最終回なのでちょっと長めです。
次の日起きたら何もなく元通り。
そんなことを思っていたんだけれど、そうではないことを今現在実感している・・・
あのまま昼過ぎまでゲームをやって、あいつ、うん、名前は那奈という。が冷蔵庫の余り物でちゃっちゃと昼飯を作りやがった。
片田舎の集落、いや、例のド田舎アニメほど田舎ではない!なので、幼馴染といえば昔からの付き合いでこういうこともある。だろ?
その合間にくろがね館について調べていたのだが、艦内見学の大部分は見学ツアーとして行われているらしい。まあ、広いから迷子になっちゃ困るしな。午前と午後に各一回、一班2~4人のグループごとの10班、一度の募集は40人程度らしい。早速予約状況を見たのだが、そんなに混んではいない。まあ、開館15年で一時の擬人化ゲームの混乱も過ぎ去ったのだろう。これならすぐにでも予約は取れそうだが、問題は時間だ。朝は開館と同時の8時半から回りだすらしい。結構早い、昼は13時半だが、艦内ツアーは最低2時間半、艦内から甲板、艦橋トップまでの全ルートを回ると3時間半~4時間。つまり、開館から閉館までずっとツアーガイドは歩き回ってるのね・・・
次の日曜は1日で10班の予定、まだ空きはあるようだ。
「あれ?それ、近江見学?」
後ろから覗き込んできた。できたようだ。
「ああ、最低二人から応募だって」
「じゃあ、行こう」
俺の意見はなし?うん、無いよね・・・、午後を選んでポチりましたとさ。
そして今に至るのである。
俺の知っている大和ミュージアム、鉄のくじら館とは配置が違う。まず、近江ありきで配置されており、大和ミュージアムからも鉄のくじら館からもそのままアクセスできるようになっている。というか、大和ミュージアムから近江、鉄のくじら館と回るか、その逆を回るのがセオリー。ツアーはそれができんけどね・・・
そんなわけで、午後予約の俺たちは前夜のうちから出発して鉄のくじら館と大和ミュージアムを午前中に攻略した。だって、大和ミュージアムには「閃電」の実物があるんだもの。3施設が見事に連携していて、大和ミュージアムは呉の歴史や造船についてが主体で近江にアクセスするルート直前が戦史展示、近江は近江の歴史や太平洋戦争が主体で、鉄のくじら館が自衛隊の歩みとなっている。
そして今は近江艦内見学ツアーの真っ最中。
まずは狭くて急な階段を下りてガスタービンを見学し、次に中央指令所、2番砲塔弾薬庫、2番砲塔と上がって、艦橋、そして射撃指揮所まではエレベータで上がった。
なるほど、こりゃ少人数で回らんとどうしようもない、中は狭くて一度に大人数はさすがに無理。
射撃指揮所から上を見上げればそこには10m測距儀と31号電測儀が見える。言うことはできないが設計者である俺はあちこちで事細かな質問をしてきた。どうやら熱心な艦艇ファンと思われているらしい。
「お兄さん、あれは何か分かるかい?」
上ではなく、下を指しておじさんが言う。下にも31号電測儀が見えた。
「31号ですよね?」
俺が不思議そうに聞くと、ちょっと嬉しそうな顔をしてから説明してくれた。
「形はほとんど31号と変わらないけれど、高射測距に対応した改良型の32号電波測距儀。私が駿河に乗り組んだころには戦後のFCS1に換装された後で、あれを見るのはここの仕事を始めてからだけどね」
そう説明してくれた。まあそうだ、このおじさんが説明するまでもなくほとんどは俺が知っていて、設計が変更された部分や戦後の改修部分しか説明できなかったんだから、仕方がない。
俺はわずかにのぞくOPS11を指してあれはどっちかと尋ねたら、OPS11だそうだ。
「あのレーダーは戦後、米国からの新技術を導入して改良したOPS11っていうレーダーだけど、基本的な外観は21号電探と変わりはないんですよ」
そう説明してくれた。そうすると、21号の試作から近江の退役まで60年ほども外見に違いがないのか・・
どうやら、独り言が聞こえたようで
「そう、駿河や近江、ミサイル護衛艦まで装備したんだから、すごいでしょ。あれを戦前に作った人たちがいなければ、今の日本はないんだから」
おじさんはそう熱く語ってくれた。ちなみに、そこまで興味がない那奈は引き気味だった。いや、ガスタービンの時点でそうだったかもしれん・・・
前半パートはこれでおしまい。2班くらい追い越された気はするが気にしてはいけない。
ツアーに参加しなくとも入ることができる艦内の展示、休憩コーナーでまずは一休み。
そこには駿河型に関する資料が展示されていて、藤本氏や小野田君の写真も飾ってあった。
設計コンセプトの説明や設計に至る経緯が説明されているが、コンセプトは後付け。単に砲塔が余ってたから設計しちゃっただけなんだから。
と、そんなことを思いながら見ていくと、北方艦隊から自衛隊への移管に至るまでの資料に出くわした。
1945年の北方戦争の後、米ソ間で国境線策定協議が行われたが、日本側は南樺太、千島列島の維持を主張。なにせ、守り切ったのだからそうなるべきだと主張したのだが、ソ連は北海道割譲すら要求してきた。
米国としても北海道割譲などは承諾できず、南樺太と千島の大半をソ連が領有するという妥協案を提示した。
交渉は平行線をたどりなかなか妥結できない。日本は南樺太すら譲れないという態度を変えない。ソ連が軍を動かし威嚇に出ることもしばしばあったが、日本軍は10月15日で解散をしているものの、ソ連軍の軍事行動に対しての備えとして北方艦隊は維持された。これは米ソが直接交戦しないための緩衝材としての役割を米側も認めていたからできたことだった。建前上、米軍の管理下に入っているが、艦隊はマッカーサー司令部が臨時に定めた訓令で旭日旗の掲揚を認められ、日本政府に独自の裁量権も認められていた。そのため、ソ連軍が威嚇する都度、北方艦隊が動いた。なんせ、極東ソ連軍は北方艦隊と対峙するだけの海上戦力を持たなかったのだから、北方艦隊の存在と行動は有効で、米国自身もそれを利用していた。
この状態が1950年6月に朝鮮戦争が始まったことで急変した。
南樺太や千島に米軍はいない。当然、北方艦隊に地上兵力の保有は許されていない。
朝鮮戦争開戦から2週間、突如としてソ連軍が南樺太に進軍してきたのである。それに対し、米国政府や日本政府は抗議したが降伏文書に則った措置としてソ連は全く聞く耳を持たなかった。地上部隊を持たない北方艦隊は、この事態に、ただ避難民の移送や護衛を行うことしかできなかった。北朝鮮優勢な半島情勢の中で、中国による台湾侵攻を恐れた米海軍が東シナ海、台湾海峡に艦隊を展開し、東日本に隙ができた瞬間を狙うようにソ連は千島列島への進軍も始めたが、守占島到着の時点で北方艦隊が海上封鎖を行う事態となった。一触即発のこの事態に米国政府は北方艦隊への撤退要求を行うが、日本政府はそれを拒否、
「ポツダム宣言における破棄すべき島嶼に千島列島は含まれていない。千島列島は日清戦争以前の公正な環境で日露間が締結した千島・樺太交換条約の効力によるものだ」
と主張し、開戦辞さずの姿勢を米国に示すのだった。
一見、これでは米国が統治する沖縄や小笠原の問題はどうなのだとなるのだが、日米両政府は、事前に占領政策が解かれた後、適切な時期に返還を行うものとするという覚書を交わし、ソ連の反論を封じていたのだった。曰く「ソ連は一時占領した千島を適切な時期に日本に還す意思は有りや無しや?」と問うたのだが、ソ連政府の、いや、スターリンはそのような明確な合意を行う意思など持ち合わせてはいなかった。
もちろん、半島における仁川上陸作戦という反攻作戦が大きな影響を及ぼしていたのは間違いない。
結果、ソ連軍は一度は上陸したものの、朝鮮における北朝鮮の劣勢という状況を前に撤退していくこととなる。残念ながら、自ら主張した根拠のため、日本は南樺太を放棄するしかなくなった。
そのような喧騒の中でサンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本の再軍備とそれを担保する日米安保条約の締結が行われることとなる。
1951年に再軍備を認められたものの、憲法に規定によりすぐさま再軍備というわけにはいかず、国内は与野党の大議論、国内各地での賛否双方の騒動を経て1952年11月に憲法9条が改正され、軍の不保持を唄った2項は「国連憲章に則った国土の防衛に関する権利を認め、必要最小限の自衛組織を保有する」という条文に改正された。
これにより再軍備が可能となったが、反対派は軍という名称を認めず、組織名は自衛隊とすることが決定し、翌年春には北方艦隊を海上自衛隊として正式に日本に指揮権を復帰させ、陸奥湾において北方防衛部隊として新たなスタートを切ることになった。
当時の新聞記事や北方艦隊の写真などとともにそのような展示が行われていた。
なるほど、そんな経緯を経ているんだな。ん?すでに改憲されてんだ、この世界・・・
さて、後半である。
「これからについてなんですが、このまま甲板に出て艦首から艦尾まで回るルートともう一度降りて副砲や高角砲を回って降りるルートがありますがどうしますか?」
と、おじさんが聞いてきた。いや、聞くまでもない。
「副砲と高角砲見に行きましょう」
即断する俺。
このルートは副砲や高角砲を間近に見たい層にしか人気はないらしい。そりゃあね、狭い階段や通路を延々あるかされて小難しい説明をさらに聞こうなんて言うもの好きは限られるよ。ここにも嫌な顔するのが一人・・・
「え~、まだ見るの?」
今日は2番砲塔弾薬庫あたりから着ぐるみを脱ぎ捨てている。
「副砲見に行けるんだから行かなきゃ損だ」
俺は絶対譲らない。
おじさんもまあまあと宥めながら副砲へと向かう。
「で、副砲って?」
おい、こいつ知らんかったんかいな・・・、また階段を下りて下へ向かう。副砲下部も見ることができるようだ。
「上がってきてすぐそこにあったろ、連装砲が」
そういうと納得したように頷き
「あ、連装砲ちゃん!」
そういって元気になっているが、俺とおじさんは階段滑り降りるところだったよ!
「悪いが、あの姉妹のファン○ルじゃない。あのファ○ネルは12.7センチ、こっちは特一四だから」
ん?ところで、おじさんまで何で滑りそうだったのかな??
それ以前におじさんは驚いていた。
「お兄さん、本当に詳しいね。今時、特一四なんていう人はなかなか出会わないよ」
そう言って驚いていた。
「そうなんですか?ゲーム関連できた人とか使ってません?」
そう聞いたのだが、使わないそうだ。後から調べて分かったが、特一四という言い方は戦前から駿河型の戦後改装までしか使われていないらしい。もちろん、擬人化ゲーム解説サイトの駿河型ページにはその用語も存在するが、キャラ自体が特一四でゃなく、制式年である九六式五五口径一四センチ速射砲から96をもじってクロちゃんと呼んでるそうな。戦艦のくせに軽巡容姿がそうさせたのか?まあ、扶桑姉妹や伊勢姉妹をお母さんと呼ぶようなキャラだからな・・・、砲塔分けてもらってるから否定はできんが。
「ゲームブームで来た子たちはクロちゃんとよんでたよ。なんでも、駿河や近江自身がそう呼んでるとか。私も見たけど、かわいいね。まあ、私は長門かな」
すいません、貧乳ポニテで僕っ娘の駿河がマジ好みっす!舷側装甲281ミリあるのに貧乳ってよくわからんけどさ。近江もショートの無口系だから(以下略
おじさんとは話が合わなそうだ。なぜか那奈はこの時だけは元気だった。
特一四こと九六式五五口径一四センチ速射砲は三年式一四センチ速射砲を長砲身化して扶桑型までの一五センチと同等の射程を持つ砲として改良したもので、天竜、龍田の代艦案用の砲として提案したものだった。一応七五度まで角度をつける事ができるので対空射撃もでき、電波信管が実用化されて以後なら一応の性能を示すことができただろうが、いかんせん、軽巡計画が一五センチ砲に拘ったがために搭載されたのは駿河型のみとなっている。
弾薬庫から砲塔に上がる。
「この砲は七五度まで仰角がつけられるから対空砲にもできたんだけど、戦後はこんな大口径砲は必要性が無くなって、下そうって話が何度も出ていたんだけど、そりゃ、米英の自動砲ほどの速射力はないけれど、速射性能が評価されて、おろされることはなかったんだ」
駿河の副砲が初めての配置だったというこのおじさんは嬉しそうにそう語ってくれた。
「本当なら、特一四は阿賀野型の主砲になるはずで、そうなっていたら対空能力がもっと向上していたはずなのに・・・」
俺も周りを見ながらそう呟いていた。自分がかかわった軽巡だけに悔しい。
これはおじさんには聞こえなかったらしい。まあ、おじさんは長門型が一四センチ速射砲を装備していたというゲームの話で那奈と盛り上がっていたから聞いていなかったのだろう。
また大移動して、高角砲である。
長八センチが片側5基。
「なんで、連装砲ちゃんや単装砲ちゃんじゃないの?」
とは、那奈である。
「それはね、副砲に14センチ砲を採用したからなの。長門型までの戦艦の副砲は舷側の装甲帯に専用の砲座を拵えていたけど、大和型以降はああいう砲塔にしたから設備が重くなったのが一つ。もう一つは、副砲として14センチや15センチを積むのか、対空、対水上兼用で12センチを積むのかって論争があって、アメリカやフランスの戦艦は兼用砲、専門用語で両用砲というのを積んだけど、それだと駆逐艦を追い払えない可能性があったんだよ」
確かに、おじさんの言う通りだ。ただ、副砲あるから追い払えましたという例も無いんだけど・・・
「それに、両用砲となると、九八式一二センチ砲、まあ、単装砲ちゃんしかないんだけど、これが重量17tもあって、必要量搭載しようと思うと副砲の重量を超えてしまう上に、載せる位置が高い。そうすると船が揺れやすくなるから避けられたんだよ」
そうそう。俺も本当は長一二センチで統一しようと思った、そうすると14~16門欲しいが、許容重量超過するんだよな。おじさんが言っていたのは駆逐用の軽量砲塔の重量で、戦艦乗せる重装甲だと1門25tになってしまうから、副砲と高角砲の組み合わせにした場合、長一二センチなんてありあえない、長一〇センチや八九式だって重量は大して違いはない。やっぱり10t切る長八センチしかないんだよなぁ~
おじさんも女の子には優しい。着ぐるみ脱いでも外見が変わるわけじゃないしな。
それを横目に見ながら長八センチ砲を観察する。確かにMk33の毎分45発なんていうチートには及ばないが安定して25~30発を維持できるんだから、瞬間火力を別にすれば大差ないはずだ。それでいて射高は八九式を凌駕するんだから、口径が小さくとも電波信管を使う分には問題ない。
見上げれば、ここにも高射測距装置と32号電測儀がある。
「おじさん、長八センチはずっと装備されてたの?」
俺は疑問に思ったので聞いてみた。Mk33に換装してたりしたんじゃないかと。
「いや、戦後二回目の改装でここにはファランクスが装備されて、長八センチはその際すべて撤去されて、後日装備でチャパラル、あ、サイドワインダーミサイルを撃てる発射機を装備するって話もあったけど実現しないまま退役してる」
「じゃあ、今ある長八センチや二五ミリは退役後に取り付けられたんですね?」
「そう、退役間際は副砲こそあるけどなんだか寂しい状態だったな」
おじさんはそう説明してくれた。
そうすると、駿河型ってミサイル積んだことないんだ・・・
どうやら最長コースを巡ったようで、ツアー終了は閉館時間ぎりぎりだった。本来休憩は一度らしいけど、甲板上を一切歩くことなく二度も休憩挟むことは前代未聞だとおじさんも言っていた。でも、その分楽しかったらしいからよかったんじゃないのかな。
帰りが辛いなと思っていたら、ホテル予約していると言い出した奴が居る。うん、確かに明日は成人の日だ。だから強行軍に決めたんだが、さらに上がいたようだ。
翌日帰宅したらニヤニヤ顔の母親に出迎えられた。すまないが期待に応えられてはいない。が、顔を見るに結託していることを悟ったからこの戦いもそう長くはもちそうにないと思う。
駆け足でやって来ましたが、これ、元は正月にヤフーblogに思い付きで載せた作品です。
たった2日で作っただけあって大雑把です。
さて、今夜、架空戦記創作大会用に書いた外伝を投稿します。宜しければ、そちらもお願いします。