帰還したから復習を
俺はそこまでやって帰ってきたのだった・・・
さて、思い出したところでググる先生に聞いてみようか・・・
ポチッと日本の歴史なる年表を開いてみた。太平洋戦争(1941年~1945年)とある。歴史は大きくは変わっていないらしい。
年表を開いてみると
1941年、12月8日、真珠湾攻撃、マレー半島上陸、フィリピン航空戦
そんな事が書かれている。記憶とのズレはない様だった。
そこからしばらくはそのままだ。
1942年4月18日、ドーリットル隊空襲とある。
中身をポチると、「米ハルゼー艦隊による日本本土空襲計画。エンタープライズ、ホーネットの空母2隻により実施された。陸軍のB25爆撃機16機により実施された。日本側はレーダーで早期探知していながら味方と誤認し有効な対策をとれず民間人にも被害を出す結果となった」
のだそうだ。レーダー稼働してんだな・・・
6月5日、ミッドウェイ海戦、日本軍の敗北
「日本は4月の本土空襲の衝撃からミッドウェイ攻略を目指し空母機動部隊を展開させる。ミッドウェイ島攻略のため航空攻撃を行っている最中、敵機動部隊発見の情報を受けるが、無線封止のため装備したレーダーを作動させることなく奇襲を受け、3空母はあえなく火災や爆発により戦闘力を失い、飛龍のみが反撃を行うも空母1隻を大破させたのみであった」
すでに艦艇にもレーダーは装備されていたらしい・・・
そのあとは一つ一つ語るのもすごいことになりそうだが、総評としては装備した電探を使うことをためらう場面が多く、敵味方識別装置の配備遅延から有効な戦果を出せていない。レーダーを有効に使用した米軍側の優勢だったようだ。
1943年は大規模な海戦と呼べるものはない様だ。
ソロモンの戦いは続いており、一部で電探の効果的な使用による効果もみられるが大体互角。戦術的には互角だが、戦略的な面で日本が劣勢か・・・
1944年、6月19日、マリアナ沖海戦
「圧倒的な米軍の攻勢で翔鶴、飛鷹の2空母を失うものの、圧倒的な米軍機に対して初めて効果的な防空管制を確立し、米軍航空隊にも多大な損害を強いる」
あら、歴史が変わった・・・
空母大鳳「竣工3か月でマリアナ海戦に参加し、潜水艦による雷撃で非防御区画にあったガソリンタンクを損傷、引火の危険を抱えながら航行を続ける。大鳳で初採用された舷側エレベータによる格納庫内の換気に成功したことで大爆発を防ぎ辛くも帰還を果たす」
お、採用されたのね。舷側エレベータ。歴史を変えたのは俺でした、はい・・・
10月23日レイテ沖海戦「瑞鶴、大鳳、紀伊という主力空母と多数の戦艦を失い、南方と本土に分離された日本海軍は以後、組織的な艦隊行動力を喪失する」
1945年・・・
8月15日、ポツダム宣言受諾
8月18日、北方戦争開始「8月11日からのソ連軍による南樺太侵攻に対する陸海軍が行ったポツダム宣言受諾後の防衛戦闘。レイテ作戦以後、日本海へ避難していた戦艦駿河、近江を基幹とした臨時艦隊による樺太艦砲射撃や千島列島でのソ連軍輸送船団撃沈、陸軍部隊による南樺太、千島における防御戦闘の総称。作戦は小野田慎吾陸軍少将と信也海軍中将兄弟による独断で行われ、米軍による戦闘停止勧告にも『米軍がソ連軍を止めてくれるというならいつでも交代する』と応え、マッカーサーが到着した30日にも、降伏文書調印まで防衛戦闘の権利は保証されるとして戦闘停止を拒否し、戦闘を停止したのは9月2日の調印を待ってからとなる」
9月3日北方戦争再開「降伏文書調印の翌日、樺太のソ連軍と日本軍の間では停戦交渉が未だ行えず、ソ連軍による使節射殺により戦闘が再燃、15日の米ソ協議の結果出されたスターリンによる戦闘収束命令まで戦闘が行われた」
?
空母紀伊?戦艦駿河、近江って?
どうやら歴史は変わってしまったらしい・・・
ついでにググってみる・・・
信濃型航空母艦
信濃は1940年4月7日横須賀において起工された大和型戦艦3番艦。
戦艦としての工事があまり進んでいない1941年11月、大型艦建造計画が見直され、建造を中断、ドックを開けるための工事のみを行い速やかにドックから引き出す旨の通達が行われるが、ミッドウェイ海戦ののち空母へ改装が議題に上る。すでにあった藤本喜久雄の大和型戦艦空母改装提案書の検討が行われ、「改装」案を基本とした建造が決定される。改装の手順による建造が開始され、進水は1943年11月23日、竣工は翌年6月16日。1945年7月28日沈没。
紀伊は1940年11月7日呉において大和の進水ののちに同じ船渠で起工された大和型戦艦4番艦。
信濃同様、1941年11月の大型艦艇建造見直しにより建造中止されるが、藤本喜久雄の提案書の中から「新規建造」案を基本とした建造が決定。空母への建造転換自体は信濃より先に行われたが、工事の進歩状態から進水は1944年2月22日、竣工は7月31日。10月25日沈没。
信濃型航空母艦の特徴は大鳳で試験導入された舷側エレベーターを後部左絃へも増設し、エレベーターを3基として装甲空母の昇降能力の強化を行ったことが最大の特徴としてあげられる。藤本案では飛行甲板面積を拡大して運用能率を上げることを狙っていたが工期短縮のためこれは行われていない。
駿河型戦艦
駿河型戦艦は扶桑型、伊勢型から下された8基の36センチ砲塔を活用して作られた中型戦艦。
日本海軍はマル5計画により米国のアラスカ級大型巡洋艦に対抗する艦を計画するが内容がなかなか定まらず、余剰になっていた36センチ砲を利用した藤本案に注目する。本格的な検討に入ったのは彼の死後であったが、ほとんど修正も行われず、軽量小型で高速力という目的のため、燃費の悪い島風型駆逐艦のガスタービン主機2組を搭載したオールガスタービン艦として1941年12月15日、大神工廠において2隻同時に起工された。
建造に際しては船体の大部分にブロック工法を適用、巡洋艦式で装甲の薄い艦橋構造物などもブロック工法で建造されている。そのため、戦艦としては異例に早く、駿河は1943年6月26日、近江は7月2日に進水している。砲塔が大神で保管されていたこともあり進水後の艤装も早く、12月には2隻とも試験航海に出ている。しかし、島風しか経験のないオールガスタービン主機の運用、調整に手間取り竣工にはさらに1年を要している。しかも、航続力が僅か3600浬でしかないという問題から作戦参加の機会はなく、日本海に疎開しており北方戦争以外の活躍はない。
駿河、1941年12月15日起工、1943年6月26日進水、1944年12月2日竣工。横須賀にて記念艦として保存。
近江、1941年12月15日起工、1943年7月2日進水、1944年12月2日竣工。呉にて記念艦として保存。
これでいいのかな?