下り坂
キーンコーンカーンコーン
4限の終了の合図であるチャイムが鳴った。それに伴い担任である英語の教師が教室から出ていく。ドアが閉まるのと同時に教室は喧騒に包まれる。我先にと購買に走る者、他のクラスへと弁当を片手に向かう者、机を寄せ合い弁当を広げる者、それぞれが行動を起こす中で少年、清下 仁は幼馴染みの親友である霧浦 智也の席に体を向ける。清下は、霧浦とは小学校1年からの付き合いで毎年同じクラスで、前に清下、その後ろに霧浦というのがお馴染みであった。
「あぁー、英語めんどくせぇ」
「そうかな?僕は好きだけど」
「トモは真面目だよなぁ。あんなに訳わかんねぇのに。大体英語なんて分かんなくても困んねぇし」
呆れたといった表情で清下は、鞄から弁当を取りだしながら愚痴る。
「将来必要になるから覚えなきゃダメだよ」
「いいや。本当に必要なら小学校で習う。よって中学から始まる英語は必要ない。証明終了」
友人の理不尽な証明に思わず苦笑いする霧浦。清下はそのまま英語に対する憤りを垂れ流し続けていると、
「そうだそうだ。英語なんざ頑張んなくてもいいんだよ」
その言葉とともに3人の男子が二人が挟む机を中心に集まってきた。彼らは清下や霧浦と同じくサッカー部の部員である。3人は他のクラスなので部活しか学校での接点はないが、清下にとってはノリのいい友達だ。
彼らの同調に気をよくした清下は、更に弁舌を振るう。そんなこんなで騒がしい昼休みは過ぎていった。
ところで、清下 仁は小学生時代では、クラスの中心人物、所謂クラスカーストの頂点にいた。そのコミュニケーション能力は群を抜いており、2年生になるころには、既に同学年のほぼ全員と知り合いで、クラス内では全員の家に遊びに行ったことがあるほどだった。
その影響力は同学年は勿論、他学年にまで及んでいた。1年生にして6年生の教室に遊びに行ったり、入学して1年で学校で誰よりも有名だった。
無論、彼をよく思わない者も少なからずいたが、それほどの人脈を有する彼に歯向かおうとする愚者は居なかった。何をやるにも彼を中心に回る6年間で、彼は我が儘なガキ大将になることなく、楽観的な思考と、フランクな態度であり続けたことも6年もの間、蹴落とされることもなく中心に居続けることができた理由かもしれない。
そんな彼が、私立中学で幼馴染みである霧浦以外に知り合いのいない中、入学し僅か3ヵ月で再びクラスカーストトップに君臨していることは当然と言えば当然だろう。
そんな彼が、一人の女子が複数の男子に囲まれる状況に遭遇すればどんな対応をするか。答えは簡単だ。
「お前ら何やってんだよ!」
そう叫びながら彼は、被害者である少女を背に、立ち塞がった。
その場に出くわしたのは全くの偶然だった。
部活に向かう途中で教室に英語のプリントを忘れたことを思いだし戻ってみると、髪の長い女子が数人の男子に囲まれているという状況だった。何やら剣呑な雰囲気を感じとり清下はその場に割り込んだのだ。
「何やってんだって聞いてんだよ!」
思わぬ登場人物に呆然とする男子達に清下は声を荒げる。
「…橋田って胸でけぇから俺らが揉んでもっと大きくしてやろうと思ってよ。清下もやるか?」
全体的にチャラチャラした印象の男子、池野が答える。
「ふざけんな!橋田は嫌に決まってんだろ!」
「本当に嫌ならもっと暴れるなりするだろ。そうじゃないならOKってことだろ?」
清下の知る限り橋田は大人しく体の一部を除き自己主張が苦手な少女だ。そんな彼女がこんな状況でまともに声がでなくなっていることは清下にも容易に想像できた。そんな橋田を守るため清下は叫ぶ。
「そんな理屈が通る訳ねぇだろ!お前らがやってんのは犯罪だぞ!」
「う、うるせぇ。いい子ぶりやがって!」
3人の中でも一際背の低い平岡という男子が叫ぶが、犯罪と言われて事の大きさに気づいたのか声が震えていた。
池野も気後れしているようだし、このままいけば彼らは引き下がるだろう。多少恨みを買うだろうが一先ずは解決、と清下が思っていると、
「…ちょうどいい。お前のことムカついてたんだ。ちょいとサンドバッグになりやがれ!」
そう言ってここまで無言だった男子がいきなり清下に殴りかかる。不意の一撃に清下は対応できず、その拳は清下の鳩尾を正確に打ち抜いた。殴りかかった男子は笑みを深め、腹を抱え蹲る清下を更に蹴りつける。
「お、おい有保」
池野が止めようとするが、有保と呼ばれた少年は清下を蹴ることを止めない。橋田がひっと悲鳴をあげるが、有保は彼女を無視して清下を蹴る。
「なんだよ?お前らも、こいつのこと、うっとうしいとか、言ってただろ?一緒に、こいつ、ボコろうぜ」
「で、でもよぉ…」
一言置きに蹴りを入れつつ、遊びに誘う気楽さでリンチに誘う有保を見て、二人はどうすればいいのか決めあぐねていた。
中々実行に移さない二人に苛立ちを覚え、蹴るのを止め有保はそちらに意識を向ける。そこで、有保は右足に違和感を覚えた。
「あ?」
見てみると違和感の正体は、腕だった。有保の隙を突いて清下の腕が彼の右足を掴んでいたのだ。清下はそのまま掴んだ足を一気に引く。重心を崩され有保は尻餅をつく。仰向けに倒れた有保に対してマウントポジションを取った清下はそのまま、左右の拳を交互に降り下ろす。それを見て池野と平岡は慌てて清下を止めようとする。
そこからは泥沼だった。1対3とはいえ、清下はサッカーで鍛えている。対してあちらは有保は喧嘩慣れしているが、後の二人は大した戦力ではなかったのだ。
気づいたら橋田はおらず、時計は完全下校時刻スレスレだった。橋田を守るという目的を達成し、少しばかり安堵した清下は、何とか立ち上がり、同じように倒れて肩で息をする3人を見下ろす。
「今回のことを俺は先生に言う気はない。けど、橋田にはちゃんと謝っとけ」
そう言って清下は、立ち去ろうとした。が、有保の堪えきれないというような笑い声を聞き思わず振り返った。
「何がおかしいんだ?」
「おかしいに決まってんだろ。一人で、勝手に解決したと思い込みやがって。これで終わると思ったら大間違いだぜ」
「橋田にまたちょっかいかけるつもりかよ。懲りねぇな」
それを聞いて、有保は更に嗤う。
「あんな女どうだっていいんだよ。今の獲物はお前だよ。清下」
明日が楽しみだ。嗤いながら呟いた有保は、池野達を置いて一人教室を出ていった。一連の流れを聞いているだけだった二人は、ナチュラルに置いていかれたことに遅まきながら気づき慌てて有保を追った。
一人残された清下は有保の残した言葉の意味を考え、明日また喧嘩を吹っ掛けられるのかと思い、肩をすくめるが、橋田が狙われないのならまだ良いかと、楽観視することにし、教室を後にした。
清下は自他共に認める楽観主義者だ。大抵のことはどうにかなると思っているし、実際どうにかなってきた。
喧嘩をするのも別に先日が初めてではない。今までだって様々な理由で喧嘩したことはあった。給食のプリンをとられただったり、サッカーでボールをわざとぶつけられたなんて言いがかりをつけられたり、好きな子をとられたなんて理由で喧嘩を吹っ掛けられたこともあった。だが、どんな理由であれ喧嘩のあとは丸く収まっていた。
だから、彼は今回も何だかんだで丸く収まって、有保達とも仲良くなれると考えていた。だが、彼の今までの常識はここで大きく覆された。
8時5分。いつも通りの時間にいつもより騒がしさを感じる教室に入ると先程までの騒ぎが嘘のように静かになる。と思ったらヒソヒソという擬音が教室を包み込んだ。不思議に思いつつも清下は幼馴染みにして親友の霧浦 智也に挨拶した。
「よっ、トモ」
「あ、あぁおはよう仁」
「どうかしたのか?」
「い、いや。何でもないよ。ちょっと用事があるから。ごめんね」
挨拶を受け狼狽する親友を心配し尋ねてみるが、生返事を返すと彼はそそくさと教室から出ていってしまった。親友の行動を疑問に思いつつも深く考えることはせず、清下は自身の席に着いた。
結局、HRが始まるギリギリまで霧浦は教室に戻ることはなかった。戻った後も清下と顔を合わせようとせず、うつむいたままだった。
「──それと清下、HRの後に職員室に来なさい。以上」
清下が親友の心配をしているうちに、HRが終わった。自身が呼び出される原因を考えるが直ぐに思い当たる。恐らく昨日の喧嘩のことだろう。今までも少なからず教師から、たしなめられることはあったので別段狼狽えることなく、清下は職員室に向かった。
「失礼しまーす」
清下が職員室に入るとプリントとにらめっこしていた担任の教師が顔を上げ、手を招く。清下は平然と担任の前へ向かい、相対する。
「清下、昨日有保達と喧嘩したそうだな」
「はい」
清下が、あっさりと認めたことで担任の眉が上がる。
「…確かに男子たるもの喧嘩の一つや二つするだろう。だが、一方的に彼らを殴るのはいくらなんでもやりすぎだ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!俺は一方的に殴ってなんかない!あいつらが!」
担任の思わぬ発言に慌てて弁解をするが、担任は既に清下の反論を言い訳と断じて、聞く耳を持たない。挙げ句、次は停学を覚悟しろと言われ、反省文の提出を命じられた清下の頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。
ふらつく足取りで教室に戻っていると、教室から有保の声が聞こえる。嫌な予感がして急いでドアを開ける。すると、頬に大きなガーゼを貼った有保がクラスメイト達に囲まれ何かを話しているようだった。ドアの開けられた音に皆が振り向く。その視線は清下の経験したことのない酷く嫌なものだった。
「な…何を話してやがった有保!」
「何ってよぉ。皆が俺の頬のガーゼの理由を聞いてくるからよぉ。説明してたんじゃねぇか。てめぇにやられたってな」
その言葉を聞いて清下の頭が沸騰する。
「ふ、ふざけんな!てめぇが先に殴りかかったんじゃねぇか!」
「何を言ってんだ。てめぇに殴られて俺らはこんなにボロボロなんだぜ?池野と平岡なんて今日は学校を休まなきゃいけねぇほどなんだぜ?」
白を切る有保に掴みかかろうとするが、周りがそれを阻んだ。振りほどこうとするが、10を越える腕に押さえ込まれる。
「橋田!昨日の一件は見てただろ!頼む!皆に言ってやってくれ!」
身動きのできなくなった清下は、最後の手段である橋田に証言を頼む。だが、橋田は顔を背け、何も言わない。
「いくら何でも完全に無関係な橋田を巻き込むなんてよぉ。なんてひでぇ奴だ」
笑みを深め、嘯く有保の言葉に、周りの視線に含まれる嫌なものが更に強くなるのを清下は感じとった。これまで経験したことのない視線に耐えきれなくなった清下は、この場で最も信頼できる人物に助けを求めた。
「トモォ!お前なら信じてくれるよな!幼馴染みのお前なら!」
この場で唯一の味方であろう親友に向けて叫ぶ。しかし、彼は何も言わない。周りから注目されるのを避けるように目を合わせようとしない。彼は親友に明確に拒絶された。
この時、清下は信じられないといった顔で周りを見た。誰もが清下の言葉に耳を傾けることはなかった。誰もが清下に嫌悪を、侮蔑を、悪意を、もって彼を見下していた。
この日、初めて彼は独りになった。
その後は坂を転げ落ちるように一気に進んだ。
清下の悪評は光の速さで学校中に広がっていったのだ。彼は教室での立場を失い、部活での居場所を失った。学校のどこにも彼の居場所はどこにも残されていなかった。
唯一の救いは家から離れた私立中学だったことだろう。彼の家から中学は電車で2駅程離れており地元でこのことを知っているのは彼と霧浦の二人だけだった。
確かに、彼は誰よりも広い人間関係を持っていただろう。だが、広いだけだった。広げることだけを続けた結果、彼は関係を深めることをしなかった。だから、一人も味方は現れなかった。だから、親友と思っていた幼馴染みに裏切られた。清下は、その事実を遅まきながらに理解した。
もし、もしも彼がより交友を深めようとしていれば、誰もが彼の言葉を信じないなんてことにはならなかっただろう。もしかしたら清下を庇う人がいたかもしれない。しかし、そうはならなかった。誰もが彼を信じなかった。誰もが彼を悪と断じた。
たった一人の悪意によって全てを失い、ようやく自身の失敗に気づいた。しかし、気づいたところでもう遅い。
それでも、彼はまだ信じていた。噂なんてしばらくすれば無くなると、少しの辛抱だと。そしたら今度は間違えないようにしようと、そう考えていた。
しかし、現実は甘くなかった。彼にとって初めての悪意は大きすぎた。噂は留まるこたなく広がり、尾ひれがつき、終には彼の地元へと届いた。
耐えきれなくなった彼は、学校の屋上にいた。空は雲一つなく晴れ渡っていたが、その暗さを感じさせない爽やかさが、彼は昔の自分を見てるようで憎たらしかった。
あれ以来清下は変わってしまった。心も、体も。耳にかからない程度まで短くしていた髪は肩にかかるほどボサボサになり、目の下にはくっきりとクマができていた。昔のように誰かといることを何よりも恐れ、人混みに近付けなくなった。たった半月だ。半月で彼は、ここまで変わってしまった。いや、変えられてしまった。悪意によって。
そんな彼が、屋上にいる理由は至ってシンプルだ。彼はどこまでも青い空を一瞥するとその身を空へと投げ出した。