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■32 キーツの右腕

 骨折音がした。首が折れた音だ。


「命とはかくも脆いものだな……私の国もそうだった……誰もが無意味に死んでゆく」


 執事の首根っこをその革袋の腕で巻きつけ折ったキーツは嘲笑う。キーツは絶命した執事を塵芥のように投げ捨てた。

 アッペテンの別荘は燃え上がっていた。火竜如し影が廊下を闊歩すると、火焔が迸り、壮絶な悲鳴が聞こえる。赤騎士によって、館にいたもの全てが焼かれ殺されていた。


「……絵の裏だったか。場所を変えてないとは大胆不敵だな」


 絵画の裏から緑のキンマ盤を見つけ、赤々と照らされたキーツが魔性の笑みを浮かべた。


「返せ! ワシのキンマ盤じゃ! キンマの晩餐はワシが食うのじゃ!」


 キーツの部下によって、柱に縛りつけられたアッペテンが叫んだ。


「まだキンマの晩餐を求めるか? お前は何も解ってない……」

「なにをいうか! キンマの晩餐は最も贅のかぎりをつくした料理じゃ!」

「それが間違いなのだ……キンマの晩餐。その食事は水だけ……」

「何か、何か、特別な水なんじゃろう? 不老長寿の食事と伝えられている!」

「ただの水だ」

「そんな惨な食事が伝わるわけがなかろう! これほど伝説になった……うぎゃあ!」

「惨めな食事だと!」


 キーツは激昂し、アッペテンの喉元に蹴りを食らわした。後頭部が柱に衝突する。キーツの美脚がアッペテンのたるみきった顎をぐりぐりと踏みつけあげた。


「この飽食をほしいものにした化物が! 連合も帝国もそうだ。年端もいかぬ少年達を浮雲製錬所で強制労働させ、少女達は売春婦扱い……化物はいつも人の皮をかぶっている! 誰がとめる! この化物達の所業を! だが、この化物達に私達が適うはずがない。私達は人間だ! 人間が化物にかなうものか!」


 静寂。ふと潮がひいたように怒りをおさめ、キーツは脚を降ろした。


「そうだ……お前にも与えてやろう……」


 キーツはキンマ盤を胸の間にはさみ、二つ豆を指先に挟み取りだした。

 赤豆と青豆だ。みょうなテカリがあって輝いている。


「アッペテンよ。キンマの晩餐とは、追い詰められたある一族が最後に食べた食事のこと。朝露に乗った葉の水を、純真さ、優しさを、人間として食したのだ。私たちは人間だったと! それこそが、キンマの晩餐と伝えられた由縁!」


 キーツはアッペテンの咽奥へ豆二つを突き入れ、腹を強烈に蹴った。


「ぐわ、おえ……ワシに、何を、食わせた! 毒か!」

「我々用に儀式調節されたキンマの『豆』だ。これを手に入れるには苦労したよ。戦乱によって城の宝物庫は荒らされ、キンマ盤が各地に流されてしまったからな。第一、こんなお伽話など誰も信じない。私も、そうだった。でも、な。それが実在した……」


 キーツはヘリコニア兄王との一騎打ちすえ、奈落へと落ちた。奈落に落ちれば【古き竜の雲神(デウスドラゴー)】に喰われる。しかしキーツは間際にあった絶壁の横穴に落ちたことで生き延びた。その横穴には白、赤、青の鎧数体と『豆』二つが安置され、燃える都、石像化した兄妹、鎧の起動方法、三枚の盤がキンマへ導くことを示した壁画や書物があった。


「鎧は、元は敵のものだったらしい。残念ながらほとんどが力を失い、三体しか機動できなかった。だがこの事実は、世界に魔具(コスタ)という遺物が残っていることを知らしめた」

「ワシはワシは……ワシはどうなるのじゃ!」


 全身に異常ともいえる血管を浮かび上がらせたアッペテンが唸る。


「儀式調節されぬ『豆』は、個が持つ潜在能力の限界まで高めてゆくだけだ。私が、な。前の『豆』を試しに食したとき、どうなったと思う? ヘリコニア人の誇りである褐色の肌を失い、性別すら失ったよ。だが、得たものもある。青真鱗(サフィリナレピド)は銀色に近づき、生まれつき未熟であったこの右手も……」


 そういいキーツは右手を包む革袋を外した。


「うおぉ! その手は!」


 アッペテンは愕然と叫んだ。焔に照らされ、その影が壁にぬるぬると踊っていた。


 キーツの右腕は、生々しい薄桃色をして吸盤もある、タコの触手と化していた。蛸腕を持つ人間。身の毛もよだつおぞましい姿であった。

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