8 死合わせ
ダルかった。とてもダルかった。暑いというのも理由の一つだが、日を重ねるごとに減っていく教室の人数に対する焦りも混じっていた。成績の悪いはずの高橋も、八月に入るころにはテストをパスしていた。
補習教室に向かっているはずの足は、どういうわけか全くの反対方向へと進んでいる。ジリジリと焼けて、対象物を焦がしてしまうほどの日光が、東の窓から射し込んで、左半身が異様に熱かった。
家帰ろうかなぁ、一日くらいサボってもきっと大丈夫だろう。夏風邪でも引いたことにして、電話をかければ完璧だ。携帯からかけてもいいよな。
鞄の中から携帯電話を取り出す。しかし、校舎内から電話をして、学校に来ていることがバレたら後々面倒なことになる。仮病を使うというのも、案外気を遣うものだ。
――部室は空いてないよな、家にはお袋が居るし……。どうしたものか。早くしないと家に連絡が回ってしまう!
無意識に、涼しいほうへと足を進める。気がつくと、階段をどんどん登り、日陰になっている西の校舎に迷いこんでしまったようだった。
先生に見つかるのはかなり面倒だ。携帯電話を確認すると、いよいよ時間がなくなってしまっていることに気づく。
どうしたものか。と迷っているうちに、目の前から知っている教師が歩いて来るではないか! 慌てて、階段を登り、最悪の事態を回避する。
気がつくと、自分の通っている学校だというのに、全く知らない場所に辿り着いてしまった。
仕方ない、このまま迷って一日を潰すのはあまりにも不本意だ。どこか適当にドアを開けてみよう。教室に入れば、道を知っている人が居るかもしれない。
しかし、辺りを見渡してもそれらしい教室は見当たらない。人の気配が一切しないのだ。昼前だというのに、このだだっ広い校舎に一人取り残された気分になって、突然心細く感じた。
困り果てて小さくため息をつく、そうして項垂れていた顔を前に向ける。すると視界の端に見慣れた女生徒の制服が見えた。夏のセーラー服は涼しげだが、しかしなんだか機能的には優れていないところがある。その矛盾した服装は、もはや神秘的ですらあった。
――あの人に道を訊こう!
教師に訊くより数倍もマシだ。そう思うと田島はすぐに、その人物を追いかけた。
女生徒は階段を登り続けている。進む速度は一定だが、追いつくのは至難の技だった。気づかれても構わないとは思っていたが、どうにも話かけるタイミングが掴み辛い。
「ふう、」
ゼエゼエと息を切らし、女生徒が曲がった廊下の角にもたれかかる。視線を彼女の向かった方向へ向けてみると、うんざりするほど登った階段の上に、見慣れない扉がポツリと存在していた。
こんな場所、学校に存在することすら知らない。もっとも、この西側の校舎に侵入するのも初めてなのだから当然と言えば当然だ。
呼吸を整えると、もう何回も登った階段に足を乗せる。
重たい足をゆっくりと進めていくと、大きな扉が視界に入る。スチール製のそれは、存外軽く開けることができた。
扉の向こう側は、それまでのダルい暑さを吹き飛ばすほどの強い風が吹いていた。しかし頭上からは全ての元凶である太陽が、ジリジリと光線を放っている。
――ここは、屋上?
そうとしか考えられない。音をたてないように扉を閉めると、田島は改めて屋上を見渡した。
学校の屋上なんて小学生のとき以来だ。しかし、記憶にある屋上の景色と、目の前にあるそれを比べると、唯一違和感を覚える箇所があった。
――柵がない。
「あれ? 田島?」
心だった。長い髪に淡い色のセーラー服。
「どうしたんだよ、ここは立ち入り禁止だぞ」
心だった。本来あるはずなフェンスが存在しないにも関わらず、さながら絶壁のそこに腰かけている。少し背中を倒すだけであの世逝きだ。
「せ、先輩だってここにいるじゃないですか! その言葉、そのままお返しします。ここは立ち入り禁止ですよ」
その通りだ。友一が屋上から落ちて死んだということで、屋上の出入りが禁止された。春の終わりにそれを聞かされたときは、まさか自分がこんなところにやって来ることになろうとは全く予想していなかった。屋上の場所すらさっきまで知らなかったのだから当然といえば当然だ。
田島の軽い言葉に、心は「そうだよな……」とひどく重々しく返事をした。
「前までは、禁止じゃなかったんだよ。でも……」
「でも」のあとにどんな言葉が続くのか、薄々気がついていた。
どうしよう、これは話題を逸らすべきなのか? しかし何を話したら……。
「先輩は、高橋を疑っているんですか?」
頭を今までにないほど回転させて出した自分の返答に、田島は心から視線を外した。
何か喋ろうと考えているうちに、本音が出てしまったからだ。初めて会ったときの、心の台詞が思い出される――高橋を憎む、あの言葉。
「だって……だっておかしいじゃないか! 記憶喪失なんて!」
心の強い口調に、逸らしていた視線を戻す。
びっくりした。こんなにも取り乱した先輩を見るのは初めてだ。まぁ酔っぱらった先輩なら見たことあったけど。
心はひどく困ったような顔で田島を見つめたが、すぐに普段の表情に戻した。
「ごめん、それより今日補習なんじゃないのか? あんまりサボると留年するぞ」
「うわ、そうだ。今日休むって電話しないと!」
僅かな違和感を胸に残しながらも、田島は携帯電話を取り出し、登録してある学校の番号に電話をかけた。屋上からは電波がよく届く。
電話を終えると、肩から力が抜けた。今まで休んでいなかったこともあり、サボりを疑われることはなかった。家に連絡が行っていなかったことは幸いだ。
心は相変わらず景色の良い場所に腰かけたまま、そこから数十メートル下のコンクリートを見つめていた。
帰りたいけれど、帰り道が分からない。田島は心にそれとなく声をかけた。
「ていうか先輩三年でしたよね、受験大丈夫なんですか?」
「何も手につかないんだよ、もうバイトも止めようと思ってる」
ボソボソと、まるで地面に語りかけているように返事をする。話題を提供したにも関わらず、心の関心を逸らすことには失敗したようだ。田島は、なんとか話を膨らませようと、口を動かした。
「バイトやってたんですか?」
この学校はアルバイトは禁止されていないが、実際問題それをしている生徒は少ない。皆、部活やら、勉強やらが忙しいのだ。
そう言えば俺、バイトも部活もろくにしてないのに頭悪いって最悪じゃん。嗚呼、このままでは先輩に嫌われてしまう……。
田島が目を見開いて、自分の現状を再確認したとき、心は視線を田島のほうへ戻した。しかし相変わらず危険な場所に腰かけている事実は変わらない。
「そうそう、キャバクラだけどな。先輩がよくお菓子くれるし、楽しいよ」
「楽しい」という言葉とは裏腹に、心の語気に力はなかった。疲れきったように自分の足元を凝っと見つめている。何も手につかないというのは本当のことだろう。
「そ、そういえば、台本をたくさん書いていたんですよね。凄いです。文化祭は先輩がやるんですか?」
そう唇を動かしながら、以前高橋に言われたことを思い出す。自分が役者になるような事態は絶対に避けたい。
「文化祭は辞退しようと思う。もうあそこは廃部だよ。まぁあの話は結構気に入ってるけどさ、安藤君に聞いた話に脚色をしたんだよ」
は、廃部だと? じゃあ俺が入部した意味って何だったんだ! メリットなんて先輩と知り合いになれたことくらいじゃないか! あ、まぁそれだけのメリットがあればいっか。
「廃部」という単語に些か動揺したものの、自分が役者をやらずに済みそうだという事実に、安心していた。
「二年生の安藤先輩ですか? たしか、付き合ってるんですよね」
「あれはもう別れたよ、そんなに長い間付き合うわけないだろ。奴オカルト研究部だから面白いには面白かったけどな」
夏に会ったとき、言っていたことは本当みたいだな。あのときの様子から判断すると、先輩がフラれたのか? 安藤先輩があんな綺麗な先輩を? なんて奴だ!
「オカルト研究部……ですか」
そんな部活初めて聞いた。廃部寸前の演劇部すら、まだ学校内での知名度はある。きっと比較的新しい部活なんだろう。
「そう、それで悪魔召喚だかなんだかの儀式に、人間の手が必要なんだってさ。面白いよな」
はぁ、まぁたしかに面白いですけど……。わりと冴えない感じの人だったような。
心はおもむろにまた、後ろを振り返り、地上のコンクリートに視線を注ぐ。嘆息の音が僅かに聞こえた。
「私も、一緒に死にたかったのに」
「え?」
とんでもない台詞が聞こえた……。先輩は志摩君とどういう関係なんだ?
“姉さんがこわい”と書かれた切れ端のことを思い出す。あれはいったい誰が書いたものだろう。
「『あめつちほしそら』って知ってる? 手習い歌の」
「いいえ……『いろは』とは違うんですか?」
古文のテストで、選択肢がイ・ロ・ハ……であることを思い出す。教科書には、たしか全文が載っていたはずだ。しかし、“あめつち”というのは初めて聞いた。
「そっちのほうが完成度は高いけど、私は『あめつち』のほうが好きだな」
空を見上げて、眩しそうに目を細める。白い肌が、少しだけいつもより赤く日に焼けていた。
「天地星空は、春を表しているんだ。だからうつぶせで死んでいるのはありえない」
その言葉は、田島に話しかけているというよりは、むしろ自分自身に言い聞かせているように聞こえた。
どういう意味だ? 春がどうとか、うつぶせとか、よく分からないな。それより俺は早く家に帰りたい!
屋上を吹く風は生ぬるい。心の長い髪は、幻想的に揺れていた。