6 補習
「大変です!」
「何が?」
「お父さんが帰ってきてしまいました。どうしましょう……」
担任からいい加減補習に出ろと電話がかかってきてしまい、さすがに留年しそうなので仕方なく補習を受けた。夏休みだというのに、なんということだろう。
夏休みの補習は、午前中で終わる。午後はほとんどの部活動が、銘々文化祭の準備などをしているのだが、どうやら演劇部はそれほど活動熱心な部活動ではないらしい。夏休み中は、ずっと休みなのだ。三年の心も、いつ引退するか分からない。最近、「廃部」の二文字が妙に現実味を帯びてきた。
「親父が家に居て何か問題があるのか?」
補習が終わると、高橋は珍しく「一緒に帰りません?」と田島を誘った。あの、「友一を最近見ない」発言の日から、高橋の人間関係は、以前のように円滑とは言えなくなった。本人はそれを気にしているのか、それとも全く関係のない理由からか、口調がガラリと変わってしまった。
それにしても、親父が家に居るというのはそんなに困ったことか? 仕事クビになったとか?
「お父さんは、好きです。でも、お金がないと怒るから、だから――」
下校の道に、容赦なく太陽が照りつける。田島は、もう夏なんだなあ、と、呑気なことを考えていた。
高橋はゆっくりと息を吸い、決心したように田島を見上げる。
「――だから、お金を貸してください!」
「おいおい、金って……俺だって貧乏なんだよ。夏はただでさえ電気代が高いのに。今は除菌スプレーも切れてるし……」
金がないと怒る親父ってなんだ? 高橋はアルバイトもしていると言っていた。病院に行ったり手術をしたりという話は聞いたことがある。その所為で金に困っているのだろうか?
「そう、ですよね。すみません。今月は本当にピンチで……」
高橋はそう言って俯く。ただでさえ小柄な身体が、更に小さく見えた。
そういえば、高橋の家はどこなのだろう? 駅の方向に向かっているが、電車で通っているのだろうか? まぁ、俺もこっちの方向だから問題はないんだが……。
田島はゆっくりと息を吐き、額の汗を拭った。
それにしても、暑い。気にしてみると蝉の声は、うるさいほどだった。日本の夏は懐かしく、しかし苛立つものでもある。
「あれ? 田島さんじゃないですか。あの、川の向こうの県立の」
知らない人だった。特別外見に特徴はない男。大きめで、見覚えのある学生服を着ていた。多分近くの学校のものだろう。しかし田島には全く接点のない人物。
なぜ名前を知っているんだ?
「あの、僕、学校で写真部やってる中嶋といいます。是非田島さんの写真が撮りたいなあと常々思っていたんですよ。まさかこんなところで会えるなんて……あ、一枚いいですか?」
そう言いながら鞄から写真機を取り出す。思ったよりは小ぶりなものだ。写真部とはいっても、さすがに本格的な機材は持ち歩かないのだろう。
「いや、なんで俺の名前――」
「はい、いきますよ。はいチーズ」
中嶋は田島の言葉を無視し、シャッターを切る。携帯電話のような、派手なシャッター音はしなかった。
中嶋は数枚の写真を撮り終えると、素早く、慣れた手つきで写真機を仕舞った。
「ありがとうございます。僕の学校に、田島さんのファンクラブがあるんですよ。写真は校内新聞には載るかもですけど、悪用はしないんで、安心してください」
いやいや、何が「安心してください」だ。アレだぞ、肖像権とかに触れるぞ。まぁ、俺はかまわないけど……。
他校にファンクラブが存在すると聞いて、悪い気はしなかった。むしろ最近引っ越して来たばかりの自分が認められているようで、嬉しく思う気持ちが大きい。
「本当に、ありがとうございました。じゃあ、僕はこれで――」
中嶋は人当たりの良い笑顔を浮かべ、軽く会釈をした。写真機の入った肩の学生鞄を持ち直す。
「中嶋……、って、新聞部の中嶋君?」
高橋だった。自信のない声で「違ったかな?」と首を傾げている。中嶋の知り合いなのだろうか?
中嶋の方に目をやると、彼は驚いた顔で振り替えっていた。
「あの、覚えてます? 三年で一緒だった高橋です」
二人の反応から判断するに、どうやら高橋と中嶋は知り合いのようだった。しかしなぜ、高橋は友一のことを忘れている癖に、中学時代の知り合いを覚えているのだろうか。
高橋の言葉で、中嶋も昔を思い出したらしく、「あぁ、あの勉強のできる奴かぁ」と返事をした。
「女みたいな名前だったよな。なんだっけ? 円。……いや、由美子? じゃなくて正美?」
「広海です」
へぇ、高橋って下の名前広海っつたのかぁ。知らなかった。
「そうそう、『ひろみちゃん』って、よく言われてたよな」
中嶋は楽しそうに笑ったが、高橋は顔をしかめていた。確かに「女みたいな名前」と言われて、良い気分になる人間は珍しいだろう。
中嶋は、そんな高橋の様子を気に留める様子もなく、言葉を続けた。
「でも田島さんと知り合いなんて凄えなぁ。うちの学校では本当に有名人だぞ、田島さんは」
そう言って、中嶋は田島の方へ、視線を移す。人を不快にさせない爽やかな笑み。写真が撮れたことが相当嬉しかったようだ。
「あの、じゃあ僕はこれで」
高橋だった。なんだよ、中嶋君を引き止めておいて帰る気かよ。そもそも急いでるんだったら一緒に帰ろうとか言うなよな。男と帰ったって楽しくも何ともないんだから……、そういえば先輩は何してるのだろう? 三年生だから、学校には来ていないかもしれない。そもそも、補習を受けなければならない成績なんて取らない人だ。
「え、いいのか? てか家そっちだっけ?」
中嶋は、田島とは異なり、引き止められたことを気にしている様子はなかった。屈託のない笑顔で、首を傾げる。
「あの、今日は妹と会うんです。じゃあ僕、急ぐので」
高橋は、そう言い残すと、駅の方向へ走っていった。小柄な身体が雑踏へと消えていく。
「妹に金たかるんですかね……」
高橋の姿が消えると、中嶋はぼそりと小さく呟いた。さっきまで見せていた、人当たりの良い人物とは思えない。
「はい?」
金、とはどういうことだろう? いや、ただのクラスメイトである俺にまで金を貸せと言ってきた奴だ。妹にも平気で借金の申し込みをするに違いない。しかし、どうして中嶋君は高橋が金に困っていることを知っているのだろう?
「昔からですよ。『金がない』って常に言ってました。あそこの家、離婚してから大変らしいし――」
どういうことだろう? 中嶋の台詞が正しいなら、中学時代から高橋は金に困っていたということになる。いや、バイトのできない中学生のほうが今より幾分貧乏だろう。
「――お父さんがアル中とかいう噂が流れてましたけどねぇ、当時は。僕、取材したことあるんで結構詳しいですよ」
そうしみじみと語る。そこまで言い終えると、中嶋はハッ、と驚いた表情を見せる。目線を動かし、先ほどまでの愛想笑いを田島に向けた。
「でも、今は違うかもしれません。ほんとすみません。関係ない話を勝手に始めてしまって。今はもう取材とかしてないんです。僕、ホラ写真部だし」
そう言いながら写真機の入った鞄を持ち直す。そのまま立ち去ろうと、田島から数歩離れたが、何かを思い出したようにくるりと振り返り、再び戻る。
「あの、田島さん」
「はぁ。なんすか?」
中嶋は視線をせわしなく動かし、そして大きく深呼吸をした。掌を握り、決心したように口を開く。
「田島さん、うちの学校では女子に人気があるんです」
「それは。まぁ、喜ばしいことだと思います」
なにを言い出すのだろう? もしかしてもっと写真を撮らせろとか要求してくるつもりじゃないだろうな。
「田島さんは女の人しか好きじゃないですよね」
一瞬、中嶋の言わんとしていることが理解できなかった。
「女の人が好き」――先輩は女の人だろう。清楚で美人だ。スラリとしていて、利発で聡明で、憧れる。お酒を飲むと敬語になったりするが、可愛いと思う。それを好きだというのなら、女の人が好きだということで差し支えないだろうか? 中嶋は何を言いたいのだろう? 女の人「しか」。しか、とはどういう……?
「はぁ。まぁ、多分、おそらく、つゆ、おおかた」
その返事に、中嶋は安心したように息を吐く。しかしそれは一瞬で、すぐに人当たりの良い笑顔に戻った。
「ですよね。すみません、あの……忘れてください。今の」
そう返事をして、そそくさと立ち去る。
いったい彼は何が言いたかったのだろう? 気にはなったが、きっとたいした意味はない。田島は鞄を持ち直すと、早足で家路へと進む。
「ふう、暑い」
駅の雑踏を睨み付け、夏のジリジリとした陽射しを疎ましく感じた。