5 プラトニック・ラヴ
いつからだったろう。昔は土曜日も普通に学校があった。たしか小学校一年の途中まではあったはずだ。たしかその頃から“ゆとり”と言う言葉が出現した気がする。円周率は3・14だったのに、3だったのではないかと問われる。好きでゆとりになったわけでもないのに、どういう訳か非難される。何も悪いことはしていないのに、人格を否定される。これはどういう因果だろうか?
土曜日の夜九時。田島はコンビニで煙草を買った。自分で吸うのではなく、母に頼まれてのことだった。買えないだろう、と、なかば冗談半分で買いに行ったのだが、あっさり購入できてしまって、驚愕する。
「いいのかよ、こんなんで……」
マイルドセブンの入った袋を見て、誰ともなしに呟いた。ふと、“タスポ”とかいう無意味の産物の存在に気が付く。未成年でもコンビニで煙草が買えるのだから、わざわざ発行に金のかかるぺらぺらのカードを購入する物好きは、はたして居るのだろうか。夏の涼しい風が心地よく、田島は気分が良かった。
土曜日は補習がある。田島も補習の常連ではあるのだが、最近、たびたびそれをサボるようになっていた。中間試験のあと、担任に、進級がドウタラとか言われた記憶はあったのだが、どうにも勉強する気力がなくなってしまったのだった。きっと高橋は真面目に補習を受けたのだろう。真面目で勉強ができるのに、色々ともったいない奴だ。
補習のことを思い出すと、それまでの良い気分が全く嘘のように消えてしまった。なんだか、焦れば焦るほど、何もできなくなってしまう――遅刻する時刻になると、走ることをせず、普段よりもゆっくりと歩いてしまう心理に似ているような気がした。また、溜まっていく夏休みの宿題を放置している感覚にも類似するものがあった。
そういえば、そろそろ夏休みの課題が出るころか……。
補習といい、課題といい、頭の痛いことばかりだ。田島は後頭部を掻き毟り、家路を急ぐ。駅前を通過するコースがいつもの道なのだが、一刻も早く帰宅したい田島は、近道である路地を通過することにした。最近引っ越したばかりと言っても、数ヶ月もすれば、自宅近くの道くらいは頭に入るものだ。
裏路地は、昼間は何度か通ったことはあるのだが日の落ちた時間に通るのは初めてだった。須藤のような変な人に絡まれるのではないかと不安に思っていたが、よく考えれば金もない貧乏学生に絡んでも何も良いことはない。それに、路地の雰囲気は昼間とさほど変化はなく、思ったほど危険な場所ではない様子だった。
田島が胸をなでおろし、歩を進めていると、前方から派手な服を着た、明らかに酔っ払っているお姉さんが歩いて来た。いや、歩いているというよりは、彷徨っているという表現のほうが正しいだろう。ふらふらと歌いがら近づいてくる様は、いくら綺麗なお姉さんであっても形容し難い恐怖心を煽った。田島にとって、酔っ払いに絡まれることは、詐欺に引っかかることと同等に嫌なことだった。
話しかけられないように、行動したいが、生憎狭い路地。避けることはほぼ不可能に近かった。かといって引き返すのも気が引ける。どうしたものかと思案しているうちに、お姉さんはどんどんこちらに近づいてくるではないか。
あぁ、もう無理だ。ここはお姉さんが俺の存在に気付かずに通り過ぎてくれることを願おう。こう、無機物みたいに扱ってもらえるようにできるだけ存在感を消せばいいんだ。いや、しかし無機物のように扱われて、吐瀉物塗れというオチは勘弁願いたいものだ。
やはり、引き返そうかと、後退さったときにはもう遅かった。綺麗な服を着たお姉さんが田島にぶつかる。
考えている時間が長いとはよく言われるが、今回の場合、お姉さんの彷徨うスピードが速かったというのも理由の一つになるだろう。
「あれ? 田島……たじま、じょうじ。君、ですよね?」
お姉さんは、呂律の回っていない口調で信じがたいことを口にした。
なんで俺の名前知ってんだ? もしかしてもうブラックリストが回ったのか。それにしては早い。そもそも携帯の電話番号だけでここまで個人情報が出回るとは、今の世の中、発達しすぎだろ!
「わーたーし、志摩心。忘れちゃった感じですかぁ? ニコチンが切れて今、イライラ。なーんて」
先輩? あの清楚な先輩とこの酔っ払いが同一人物なのか?
田島は眉間に皺を寄せ、お姉さん――もとい心を凝視する。
そうだ確かにあのとき安藤先輩と一緒に帰っていった人だ。酔っ払うとこういう口調になるのだろうか?
「田島君も煙草吸うんですか。意外だなぁ」
「ふーん」と、田島の手にした袋を一瞥して呟く。
「一本下さいよ」
「いや、駄目ですよ。これは俺のじゃなくて、頼まれたものなんです」
田島は本当に煙草を吸わない。母が吸ったあと、家の中に臭いが残るのが最近の悩みの種だった。
「あぁ、でもいいや。私、それじゃないから」
ビニール袋越しでも銘柄は判別できたようで、心は少しつまらなそうに唇を尖らせた。焦点の定まっていない瞳で田島を見つめ、「外人さんみたい」と楽しそうに笑う。
ひょっとするとこれはチャンスなのではないだろうか? 今なら訊けるかもしれない。高橋の言っていることは正しいのかどうか、確かめることができるかもしれない。
「あのう、先輩は安藤先輩と、いつから付き合ってるんですか?」
昨日の様子では、そうとしか見えなかった。しかし、もし高橋の言うことが正しければ、少なくとも安藤と付き合い始めたのは最近ということになるはずだ。
「はい? 安藤君? あぁ、あれはねぇ、付き合って欲しいっていうから……。先週くらいに。でも、もう別れるかも、嫌いじゃないんだけど、面倒くさいんだもの。色々と。戻れるかもって思ったんだけど、やっぱり私は無理みたい」
そういって、小さく息を吐く。なんとも酒臭い。いったいどれだけ飲んだのだろう?
先週から、ということは本当につい最近の出来事だったのか。だとしたら、友一と恋人関係にあったという高橋の言っていたことも、あながち嘘とは言い切れない。
心は酒臭い息をゆっくりと吐き出し、そして新鮮な空気を大きく吸った。夏の夜の涼しいか風は酔っ払いにとって、とても心地の良いものなのだろう。
「田島君となら、付き合ってもいいですよ」
心の言葉に思考が止まる。付き合ってもいいと、そう言っただろうか?
いや、でも酔った勢いだからなぁ。俺が今告白したら、本当にオッケーしそうだし……、そもそもまだ安藤先輩と付き合ってんだろ。駄目だろ普通にこういうことは! なんだかおかしな雰囲気になってきている気がするぞ……。
唐突に、心の腕が動いた。細くて華奢な腕。普段の見慣れたものであるはずなのに、纏っている華美な服のせいか、とても優美なものに見えた。
心の右手の平が頬に触れる。田島は困惑し、心を直視することができなかった。
「先輩……ふざけるのは止めてください」
田島は精一杯の勇気で、その言葉を絞り出した。出来るだけシリアスな雰囲気にしたくなかったのだ。
強い口調で言ったつもりが、語尾は掠れ、聞き取り難いものになってしまったかもしれない。しかし、それでも意図は伝わるはずだ。いや、絶対に、百パーセント伝わっている。
カチカチと、点いては消える安っぽい色の電灯が不安感を煽った。
「ふざけてないよ」
心の右手が、今度は首筋をなぞった。身体を近付けて、肌が密着する。アルコールの香りが鼻をついた。
田島は言い様のない恐ろしさに、寒いわけではないのに歯ぎしりを繰り返す。焦点の合わない目はどこを見ているか分からない。
そんな田島の様子に、心も配慮したのだろう。首筋に触れていた手を肩に置くと、背伸びをして、田島の耳元で囁いた。
「『姉さん』って呼んでください」
――怖い。
こんなのは俺の知っている先輩じゃない! そもそも先輩は何が目的なんだ?
「キスしてください」
はい? 今なんと? 俺に「姉さん」と呼び、接吻をしろと? 意味が分からないどころの騒ぎじゃないぞ、これは!
「無理です。絶対」
勇気を振り絞りそう言うと、可能な限り、心との距離と取ろうと図る。顔を背け、彼女の焦点の合っていない目を絶対に見ないようにした。
「なぜ?」
可愛らしい仕草で、心底不思議そうに首を傾げる。きっと、こういった状況で断られた経験がないのだろう。自分が綺麗で若いのは当然の事実だから、接吻を断るなんてもってのほかなのだ。
確かに先輩は綺麗だし、俺だって嫌いではない。むしろ好きだけれども、しかし……。
「潔癖症なんです。細菌のこととか、考えるだけで、もう」
「駄目なんです」と繰り返す。どうしたって無理なのだ。気持ちが悪くて近づけない。生物の教科書に、吐き気を覚える。潔癖症というよりは、そもそも人体そのものが苦手といった方が正しいのかもしれない。
黙っている田島に、心は「冗談ですよお」と言葉を返した。そして、何が可笑しいのか、唐突に笑い出す。
「あぁ、それ、ブラックジョークってやつですか? ほら、田島君は外人さんみたいだからそう言うの、よく言うの?」
「面白いですねえ」と、更に声を上げて笑う。気が付くと、あんなに密着していた身体は、あっさりと離されていた。
「外人というか、ハーフなんです」
「うそだあ、そのジョークは笑えませんよ」
あぁ、もうこの酔っ払いに関わるのはもう止めよう。時間も遅いし、補導されたら色々と面倒なことになる。
田島がそう考えていると、心も腕の時計に目を遣り、「こんな時間……」と表情を曇らせる。腕時計は珍しいものではないが、携帯電話の普及した今、所持している人間はめっきり減った。
先輩も時計持ってるのか、結構高そうだなアレ。俺も欲しいなぁ、腕時計。
「それじゃあ、田島君、さようなら。変な人に付いて行っちゃあ駄目ですよ。あと、車とか自転車に轢かれないように、それと、おまわりさんは殴っちゃ駄目ですよ。あと、駐車場には――」
「はいはい、分かりました。さようなら」
心はまだ何か言いたそうに口を動かしていたが、再び腕時計に視線を移すと、覚束ない足取りで路地を進んだ。
大丈夫かなぁ、アレ。しかし俺も急いでるし……。早くしないとドラマが終わってしまう。
最終回なので、絶対に見逃したくはなかった。ビデオデッキが壊れてしまい、とうとう録画機能が使えなくなってしまった。アナログ放送終了だとか世間はのたまっているが、実際にテレビの視聴が不可能になってしまわないと、田島家では新たな電化製品を買う予定はありそうもない。
心の様子は気がかりだったが、酔っ払いの介抱で最終回を見逃すなんて真っ平だ。田島はポケットから携帯電話を引っ張り出し、時間を確認する――二十三時十二分。
「……嘘だろ。ドラマ、見損ねた」
冷たい夏の風。それはとても心地よい。