4 赤い羊
顔をあげると、なかなかどうして理解できない状況に直面していた。パイプ椅子に座る自分の隣にはセーラー服で、長い髪を二つ縛りにした女の子が居て、目の前では坊主が御経を詠んでいる。線香の匂いにクラクラしながら目を凝らすと、遠く離れた父親の写真には黒いリボンがかかっていた。
ここはどこだろう? 前に来たことがあったかもしれない、なんだか懐かしい匂いがするもの。
ぼんやりと前方を向いたまま欠伸を噛み殺していると、隣の女の子が小さく腕を叩いてきた。
「なに?」
小声で返事をすると、可愛らしい容姿とは裏腹に、彼女は苛々と声を荒げた。
「いいから! ボサッとしてないで早く行って!」
ほとんど唇を動かさない早口。聞き覚えのあるそれに、高橋は首を傾げた。
「……もしかして、万里ちゃん?」
長年会っていなかった妹の名前を口にする。万里は眉に皺を寄せ、うんざりした様子でため息をついて見せた。
「はぁ? 頭大丈夫? まさか自分の親父が死んで悲しいとか?」
乾いた笑いで万里は言う。「自分の親父」という言い方には、明らかな侮蔑が含まれていて、まるで自身の父親は別に居るという意味合いを秘めていた。
「おとうさん、死んだの?」
万里の嫌味に気付かない高橋は、よろよろと立ち上がり、線香の前を通り過ぎた。棺の側に座り込み、何度か瞬きを繰り返す。
嘘、嘘だ。おとうさんが死ぬなんて……。たしかにお酒を飲んだり、色々と健康的な生活からは遠かったかもしれないけどでも、まだそんなに歳じゃなかったし、それにまだ、あのときは元気だったのに。
「何で、どうしてぼくより先に死ぬの? ぼくはおとうさんのこと、好きだったのに」
涙が込み上げるのが分かった。死にたいと思った。父と最後に会ったあのとき、殺されていたら良かったという考えが廻っていた。
「いいから早く線香あげてよ」
いつの間にか近くに来ていた万里が小声で耳打ちをする。周囲は静まりかえり、親族席からは知った顔がこちらを睨み付けていた。
「ごめん、すぐやるから」
のろのろと立ち上がり、見よう見まねで線香をあげる。席につくとまた、ぼんやりと前方を見つめた。
どんなふうに時間が経ったのか分からない。始終頭が痛み、何も考えてはいなかった。気がつくと、外は夕暮れで、田舎の風景を幻想的に見せていた。
――もう帰ってもいいのかな?
辺りを見渡すと、火葬場から煙が見え、大きな建物の近くに母親の姿があった。
「おかあさん」
近付いて遠慮がちに声をかけると、母親の祐子は無表情で視線を向けた。
「もう『お母さん』じゃないから」
面倒臭そうに言うと、大きくため息をつき、こちらを鋭く睨む。
分からなかった。自分が「おかあさん」と呼ぶと、家に来る大抵の女の人は喜んだ。なのに本当の母親である人はそう呼ばれるのをこんなにも嫌悪する。厄介を見る侮蔑を含んだ視線で見下ろして、死んで欲しいと言われたことがあったのを思い出した。
何かを言うために声をかけたはずなのに、台詞がすっかり飛んでしまった。おろおろと視線が左右に揺れる。
そんな高橋の様子に祐子は小さく舌打ちをした。何度目かのわざとらしいため息が、高橋を恐縮させる。
「どうしてあんたは昔から普通に出来ないの? あんたのせいで私がどれだけ大変だったか分かる? 皆の前であんなことして、恥かかせないでよ! ただでさえ――」
そこまで話すと祐子はまくし立てていた口を閉じ、ゆっくりと瞬きを繰り返し、落ち着くために深呼吸をした。怒りを抑える動作。
高橋には彼女がどうして口をつぐんだのかが分かった。彼女が何を考えているのかも、手に取るように分かるのだ。
「ごめんなさい」
全部分かっていた。親が離婚したのも、父が自分を殴ったり、ときにひどく優しくしたのも、全て自分に責任があるのだ。
「ごめん。もう帰るから」
結局ぼくは謝ることしかできない。ぼくは厄介者だから仕方ないんだ。……奇形だから。
踵を返し、建物から離れる。帰って良いのかどうか分からなかったが、喪主は叔父が務めていたから問題はないように思われた。
しかし、母に会ったら訊こうとしていたことを思い出し、足を止める。
「あの、」
振り返り、祐子を見ると、彼女は恐い表情を隠し、穏やかなそれを貼り付けていた。
「……あの。どうして離婚、したんですか?」
「分かってるでしょ!」
間髪をいれない返事に驚く。恐怖を感じながらも、なんとか次の言葉を紡ごうと必死に頭を働かせた。
「おとうさんは、ずっと待っていたのに……」
そう、あれから変わってしまった。甘味を買ってくる政男も、仲の良い風景もなくなってしまった。自分自身が原因だということは分かっていたが、それでも納得はできていなかった。
「恋人がいたじゃない」
「でも、結婚しなかったです」
「できなかったの間違いじゃなくて?」
祐子の穏やかだった表情が崩れ、高橋を恐怖させるそれが覗く。
「そうだね、ごめん」
謝罪の言葉がしっかり声になっていたのか分からない。分からないまま、高橋は葬儀場をあとにし、足早に電車に乗り込んだ。寒くもないのに震える手足を無視して座席に腰かけると、窓の外は陽が落ち、視界の端で夕焼けが闇に吸い込まれているのが見えた。
おとうさんは決して、最後まで僕を見捨てなかった。おかあさんとは違う。おかあさんは僕のことが嫌いだったんだ。
目を閉じるが、眠気は来ない。それでも現実逃避のために、固く瞳を瞑る。耳からの雑音はむしろ心地好く、無駄な考えを排除してくれるような気がした。
電車に揺られること数時間。幸いにも乗り換えをせずに最寄り駅に到着することができた。疲れていて、家路を歩く足は覚束ない。
アパートにたどり着き、階段をそろそろと登って、やっとのことでドアノブに手をかける。
「あれ?」
開かない、咄嗟に鍵を取り出し鍵穴に差し込もうとしたが、それは叶わなかった。
――なんで……。
面食らって一歩下がってみると、ドアに紙が貼り付いていた。薄暗い所為で初めは分からなかったのだろう。暗闇の中、目を凝らす。
「……『差し押さえ』?」
――サシオサエ?
わけが分からなかった。とりあえず家の中には入れないらしいことだけは理解したが、とにかく頭が混乱していた。洗濯機に足をぶつける。
「……どうしよう」
また階段を降りなくちゃ。早くここを離れないと、こわいひとに会っちゃうかも。
回れ右をして、階段の手摺りを強く握ると、剥がれた鍍金が手の平に刺さった。
「痛ッ……」
顔を僅かに歪めるが、掴んだ手を離そうとはしなかった。地面が視界に入るせいか、登るときより下降するときのほうが恐ろしく感じる。
決して目を瞑ることなく階段を降り、やっと地上に辿り着いた。この前のように学校に入れればそうしたいが、安藤が一緒でないこの状況ではそれは難しそうだ。
「どうしよう」
ため息をつくと、白くなったそれが眼前に現れる。寒さはそれほど感じないが、気温は高くはないのだろう。いつもの公園に行こうと決め、決定した方向に足を向けたとき。
「ねぇ。君、高橋君? 高橋広海君? 万里ちゃんの、お兄さんの」
声のする方を見ると、サラリーマン風の、スーツを着た男が立っていた。
「だれ?」
見たところ、借金の取り立てではなさそうだが、安堵はできない。人は見かけによらないのだ。
「あぁ。ごめんごめん。名乗らないでこんなこと訊いたら吃驚するよね。私は有本泰史。祐子さんと結婚している」
聞きたくない名前に顔をしかめた。
――ユウコ。
よく耳にした名前。嫌いな名前。母親の名前。
「はぁ。万里ちゃんのお父さん、ですか。こんばんは」
しかめた顔のまま相手を睨み付けるが、身長差の所為で、いまいち迫力には欠けた。
「それで、広海君と一緒に暮らしたほうがいいと思って。お父さんもあんなことになったし……。本当は、迎えを祐子さんに頼んであったはずなんだけど、伝達ミスがあったみたいで」
一緒に暮らす? なんで? 一緒に暮らしたくないから離婚したんでしょう。この人は何がしたいの? わからない。
「おかあさんは僕のことが嫌いです」
混乱する頭でなんとか口を動かすと、泰史は目を細め、複雑そうに悩んだ表情を浮かべた。
「そうみたいだね。だけど私がちゃんと説得したから」
「やだ」
間髪を入れない返事は予想外だったのか、泰史は驚いたように、細めた瞳を見開いた。
「やだよ! こわいもん。おかあさんはぼくを殺すよ!」
「そんなことない!」
それまでとは違う泰史の強い口調に恐怖して口をつぐむ。殴られる! と、なぜか咄嗟に考えて固く目を閉じた。
こわいこわい。この人こわい。いたいのは嫌だ。
「ごめんなさい」
泣くのはよくない。面倒だとか思われるし、頭が悪いみたいに見えるもの。
涙こそ零れなかったが、全身が震え、呼吸が乱れた。そんな高橋の様子に、泰史は困惑したように、頭を掻く。
「あー、ごめん。怖がらせるつもりはなかったんだ」
よかった。いたいことはされないみたい。でも怒らせることはしたくないから、逆らっちゃいけない。
「大丈夫です。すいません」
なんとか落ち着きを取り戻そうとゆっくりと呼吸を繰り返す。
「ここだと寒いし、車に乗る?」
「あ、はい。」
車に乗ったら母親のところに連れて行かれるのは分かっていた。しかしそれ以上に、泰史に抵抗することが恐ろしく思われたので、敢えて言う通りにする。
導かれるままに車に乗車し、柔らかい座席に身を沈めると、思いの外心地好く、眠気を誘発された。運転席に座る泰史は、運転に集中しているらしく、高橋のことは気にかけていない。
――すこし眠っても、いいよね。
久しぶりに乗る車は、眠るのに丁度良い温度を保っていた。
強く揺すられて初めて、それまで聞こえていたエンジン音がなくなっていることに気がついた。少しまどろんでいただけで、完全には眠っていなかったらしい。
「着いたよ」
泰史の言葉で、高橋は目を開けた。車に乗っていたのはそれほど長い時間ではないが、先ほどまで居た田舎町とは異なる、高層ビルがあちこちに建っている、確実に都市のそれだった。
「法事だから明日まで学校休みでしょ。ここなら通えない距離じゃないし……」
駐車場に停めた車から降りると、泰史は話をしながら歩き出した。どうやら自宅までは距離があるらしい。高橋は黙って彼に着いていく。話の内容は右から左にすり抜け、ほとんど頭に入らなかった。
「あ、そうそう。借金は精算しておくから、大丈夫だよ。広海君の家にも、明日には入れるようになるんじゃないかな」
「え?」
驚いて泰史を見上げる。差し押さえのことも、借金のことも、どうしてこの人が知っているのだろう?
高橋の様子の変化に気づいたのか、泰史は苦笑いを浮かべ、人差し指で頬を引っ掻いた。
「いやー、万里ちゃんが私の口座からお金を引き落としていてね、知らない口座に横流ししていたんだよ。二年くらい前からかなぁ……」
コウザ? なにそれ。万里ちゃんがお金をくれたってこと?
「あのう、大丈夫です。おとうさんもちゃんと返すって言っていたし……」
「……?」
高橋の返事に、泰史は戸惑いの表情を覗かせる。小さく息を吐いたあと、視線を落とした。
「……まぁ、いいけどさ」
一人言のように呟いて、口元を歪める。大きな一軒家の前で立ち止まると、ゴソゴソとポケットをあさった。
高橋は、ぼんやりと目の前の建造物を眺めた。都会の家なのに、随分と大きな外観だ。庭こそないが、敷地には、いくつかの鉢植えを置くスペースがあり、駐輪された自転車の側にはピンク色のシクラメンが雪を被っていた。
「あったあった」
泰史はそう言いながら、取り出した鍵で扉を開ける。
「おじゃまします」
促されるまま玄関に入ると、石鹸に似たいい匂いがした。靴を脱いで、泰史に続いて廊下を進む。
「何か食べる? カップ麺くらいしかないけど。あの二人、今日は外で食べてきたから」
長い廊下を進むと、リビングとおぼしき場所に着いた。薄暗い廊下とは異なり、煌々と灯が点いている。大きなテレビやソファーの置かれた広い空間に圧倒される。壁にかけられた時計は十一時を指していた。
「あの、いただきます」
言われてみると空腹だ。いつから食事をしていないかは分からないが、とりあえず夕飯はまだ食べていないことは確信できる。
「あ、そう。じゃあお湯沸かすから、待ってて」
泰史はそう言うと、リビングと繋がった大きなシステムキッチンへ姿を消した。どこかに座ろうと辺りを見渡すが、誰かの席かもしれない場所に腰をおろすのは気が引けたので、そのまま立っていることにした。
広いリビングに突っ立っているのはなんだか気まずい。泰史はコンロに火を点けたまま、どこかへ行ってしまったようだ。
どうしよう。このままだと家に帰れなくなっちゃうかもしれない。おとうさんが死んだからこうなっちゃったのかな? ぼくが悪いの?
涙が出そうになったが、なんとか堪える。おもむろにリビングのドアが開き、パジャマ姿の万里が姿を見せた。
「あ、……」
万里は軽蔑や見下しとも違う、かといって哀れみや同情でもない、そんな視線で高橋を瞳に写した。
「何でいるの?」
「何でって言われても……」
狼狽で視線がそわそわと移動する。万里は大きくため息をついて見せ、苛々と怒ったような表情を覗かせた。
「そういえば、口座、バレたから」
「……うん」
よく分からなかったがそう返事をした。万里はチラリと高橋の表情を伺ったが、変化がないことを悟ると、眉に皺を寄せ、再びため息をついた。
「じゃあ私、寝るから。……おやすみ」
「うん、おやすみ」
普通すぎる久々の会話に笑みがこぼれる。一緒に住んでいなければ、互いに「おやすみ」なんて言えるはずがない。
「何笑ってんの? キモいんだけど」
万里は高橋の横を通り抜けながら辛辣に言葉を放った。
「ごめん」
早足で去っていく万里の背中に謝罪するが、小さい声が、彼女に届いたのか不明だ。大きな音をたててドアが閉まり、万里は姿を消した。
こわかった。万里ちゃん。おかあさんに似てきてないかな。怒り方とかソックリだし。
「あ、もう沸騰してるじゃん。カレー味しかないけどいい?」
キッチンのほうから扉が開く音がして、顔を向けると、泰史の姿が見えた。片手にはカップ麺を握っている。探しに行っていたのだろうか。
「あ、はい」
高橋の返事を聞いた泰史は、一瞬キッチンの奥に消え、再び姿を見せた。
「じゃあ適当に、三分経ったら食べて」
「ありがとうございます」
テーブルに置かれる“カレー味”と大きく書かれたカップと箸。おずおずと椅子に座ると、フカフカした感触に驚愕した。
「あとで着替え、持ってくるよ」
泰史はそう言い残し、リビングから出ていった。
三分か、短いようで長い。それにしても、有本さんはどうしてぼくに優しいんだろう? なんだかこわい。きっと本当は嫌いなんだろうけど、だったら優しくしなくていいのに。
ため息をついて時計を見るが、まだ一分も経っていない。部屋の中は暖房が効いていて、暑いくらいだったので、制服のブレザーを脱いで、椅子に引っ掛けた。ドアの開く大きな音に驚き、首を捻った。
泰史が戻って来たのかと思ったが、ドアの側に立っていたのは小学生くらいの少年だった。
「だれ?」
眠たそうに目を擦りながら尋ねる。
「高橋……です」
緊張で手の平を強く握ると、階段で怪我をした右手からだらりと温度が垂れたので、それを咄嗟にズボンで拭き取る。
――この子、誰?
目の前の子供は、名乗ったにも関わらずきょとんとした表情を崩さない。
「あなたは?」
「有本孝平」
ありもと? 有本ってことは、この家の人だよね。
もしかしたら泰史の子供なのかもしれない、という考えが浮かんだ。高橋は孝平を一瞥したあと、テーブルの上のカップ麺に手を伸ばした。蓋を捲ってみると、カレーの香りが鼻をつき、食欲をそそる。
孝平は高橋の隣の椅子に腰掛けたが、気にせずに箸を動かす。麺をすすると葱の食感が広がり、懐かしさを覚えた。徐々に空腹が満たされる久々の感覚にうっとりと目を細める。
「誰か、死んじゃったみたい。今日、お葬式だったんだって」
冷水をかけられたような心地がした。背中を冷や汗が流れ、敵に見つかった捕食者の気分に浸る。歯ががちがち震えて、喉が痛んだ。
「死んでない」
「え?」
ゆっくりと孝平のほうを向くと、彼は大きな目に疑問を乗せ、首を傾げていた。そんな様子にとんでもない怒りが込み上げたが、なんとか堪えて、抑えた声を絞り出す。
「おとうさんは死んでない……!」
孝平のあどけないさまを見ていると、羨望を含んだ怒り――嫉妬のような醜い感情――に支配された。
「もう眠ったら? 明日学校でしょ」
「高橋さんは?」
「ぼくは明日休みですから」
平常心を保つため、彼を視界から外す。カップ麺に意識を集中させ、義務的に箸を動かした。
「眠れないの」
媚びるような声色に、無意識に視線が動く。視界の端に捉えた孝平の手の平は、高橋の制服を掴んでいた。
「眠れないから……本を読んで」
可愛らしい仕草は、絶対に自分には真似できないものだ。女の子みたいな名前と言われる度に、両親の期待に沿えない自身を嫌悪したことが思い出された。
こんな風に可愛いことができたら、良かったのに。こういうことができたら、ぼくにも本を読んでくれる人がいたのかもしれないのに。
「ぼくじゃなくてもいいじゃないですか。他の人に頼んだら? 万里ちゃんとか」
「お姉ちゃんとお母さんは、疲れちゃったから駄目だって」
服を掴んだ手が強く握られる。小さな手の平は可愛らしいと思うが、だからといって本を読んでやる気分にはならなかった。むしろ彼の発言に、怒りさえ沸いていた。
「本当のお姉さんやお母さんじゃないでしょう」
――だからそういう呼び方をするな。
暗にそんな意思表示をしてみる。付け入る隙は誰にもない。いつか以前のように戻ってくれる。いい子にしていたらきっと、サンタクロースがやって来る。
「お姉ちゃんとはお父さんが違うみたい。でもそんなの関係ないよ」
一瞬思考が止まった。彼の言うことが事実なら、祐子は彼の母親で、自分や万里は彼の兄姉ということになる。
この子はぼくに何が言いたいのだろう? おかあさんにこんな子供がいるなんて話、聞いていない。ぼくの弟? になるの? いやだ、そんなの絶対にいや。
「関係ある!」
「え?」
孝平のほうへ首を動かすと、疑問を浮かべたままの彼の姿が映った。丁寧に箸を置き、今度は身体ごと彼のほうへ向き直る。
「あなたの所為で……!」
右手で、肩の辺りのシャツを掴んで、強く引き寄せる。
おとうさんやぼくは、要らなかったの? 有本さんやこの子のほうが必要なの?
「おかあさんはぼくのおかあさんで、万里ちゃんはぼくの妹じゃないですか! 何で? なんで? ぼくはずっと、昔みたいになれるって思っていたのに!」
孝平の表情に恐怖の色が混じる。戸惑って、掴まれたシャツに目を伏せていた。やがてぽつりと一言、ひどく落ち着いた声を発した。
「高橋さん。手、痛そう」
右手の傷は塞がっていたが、ズボンで擦っただけでは取れなかった血液がまだ残っていた。食事のためにほんの少しだけ捲れた袖口からは、多くの傷痕が残る腕が覗いている。
掴んでいた孝平のシャツから手を離す。彼にコンプレックスを指摘された所為で、かろうじて保っていた平常心が崩された。
「あなたも痛くして差し上げますよ。大丈夫、嫌じゃない。すぐによくなる。ぼくもそうだったもの」
低く、自分でびっくりするくらい冷静な声色でそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、キッチンへ向かった。綺麗に片付いたそこは、普段あまり使われていないことを示していた。 大きなシンクの横の包丁は、新品に近い。それを強く握り締めたまま、リビングに戻る。
「何してるの?」
孝平は、キッチンの隣にあるドアに手を掛けていた。高橋の手にした包丁に、大きく目を見開く。
「逃げるの?」
開いている左手で、孝平によって半分開けられたドアを閉める。孝平は後ずさり、きょろきょろと動く視線は、もう一つの、そして唯一の出口である、玄関に続くドアを捉えていた。
「大丈夫、ですよ」
できるだけ優しく声を掛け、孝平の腕を掴む。
「やだ。こないで」
首を激しく横に振り、強い反発を見せる。大きな瞳は湿っていて、掴んだ腕は細かく震えていた。そんな行動が可笑しく思えてきて、それら全ての抵抗を無視して引き寄せてみる。
「なに? やだこわい。おかあさ――」
叫ぼうとする孝平を、力任せに殴り付けた。怒りで拳が震えていたが、なんとかそれ以上力を振るわないように抑える。数回深呼吸をすると、自然と拳の代わりに唇が動いた。
「だからッ! あなたのお母さんじゃない! 少し黙ってくれます? ぼくには助けてくれる人なんて居なかったのに、どうしてあなたには居るって思うんです? あなたとぼくはどう違うというの? どうしてこんなにも違うの?」
自分でも、何を口走っているか、正確に認識できなかった。ひどい耳鳴りがして、頭は一つの考えに支配されていた。
――おとうさんを戻すためには、手首が必要なんだ。
誰のものでも良いが、右手首でないと効果がないらしいと、書き直され、情報の追加された文化祭の台本にあった。包丁を持ち直し、反対の手で逃げようとする孝平の腕をがっちりと掴む。
「おとうさんを戻すためだから、静かにしていて」
掴んだ腕を引き寄せて接吻で唇を塞ぐ。手首の間接から骨を切り取るのは強い力を要するので、両手を使う必要があったのだ。
いくら高橋が小柄でも、小学生である孝平には逆らう術がない。声を上げることを遮られ、くぐもった唸りだけが洩れる。呼吸方法が分からず、涙を流すような彼の純粋さに、いちいち腹が立った。自分はそうあることが許されなかったのに、目の前の彼は違う。当然のように、自分の欲しかった権利を享受してきたのが、短時間しか関わっていないのに分かり過ぎるほどに分かった。
いつか友人の家で観た、スプラッタービデオが頭をよぎる。ゴムのような皮膚に、厭に鮮やかな色の内臓。手足を切り取るのにトンカチやノコギリを使い、疲れたため息が、安っぽい効果音と同時に流れていた。
包丁で、切れるかな? 関節を上手く外せば、なんとかなりそうな気がするけれど……。
強く刃先を押し付けてみると、ぐったりとしていた孝平の抵抗が激しくなった。爪を立てられた皮膚は裂けているが、高橋は意に介さずに、包丁を動かすことに専念する。
想像以上に堅く、上手く切り取ることができない。やはりビデオのように、ノコギリを使わないと駄目なのだろうか。
額から汗が滴り、力を加え続けていた腕は痺れていた。疲労困憊したので、包丁を置いて、孝平から離れる。
「やっぱり難しいですね。少し休憩です」
孝平は気を失っているのか、返事をしない。肩は動いているから、呼吸はしているのだろう。
立ち上がって、自分を見下ろすと、シャツに返り血がついていた。顔をしかめて、リビングの椅子に戻る。食べかけのカップ麺を口に入れ、咀嚼した。
カレー味のスープを飲み込んだとき、孝平が倒れているキッチンの側のドアが開き、泰史が姿を現した。手にはタオルや着替えやらを持っている。高橋のほうには目をくれず、すぐに足元に倒れている孝平に釘付けになった。
「こう、へい?」
手に持っていたものが音もなく床に落ちる。覚束ない足取りで数歩進み、崩れ落ちるように膝をついた。
「孝平? ……なんで?」
何度も彼の名前を呼んでいるうちに、床の包丁に視線が移る。そして思い出したように高橋のほうを見上げた。
「おまえ、なに……して……――」
泰史の掠れた声。動揺した憎悪を含んだ瞳が可笑しくて、思わずくすりと笑いを洩らす。
「見れば分かるでしょ? 食事です」




