3 女彼と子菓洋
眩しさを感じてゆっくりと目を開ける。身体がダルく、頭の芯がズキズキと痛んだ。辺りを見渡すと、見覚えのない部屋が広がる。
高橋の横たわっている黒いソファーは、様々な品に囲まれていた。大きな蝋燭や目盛のないビーカー、背の高い本棚には“呪術理論”や“儀式作法”なる表題が並んでいる。文化祭で使用したであろう蛍光色の看板が目を引いたので、倉庫としての部屋なのかもと検討をつける。
起き上がると、肩や腕に鈍い痛みが走った。それ以上に不快だったのは、服が所々湿っていることで、髪に掌をもっていくと、想像通りベッタリと皮膚に張り付いていた。
時計に目をやると、すでに十二時を回っていた。授業をサボって、こんなところで眠っていたなんてとても信じられない。慌てて自分の鞄を探したが、どこにもなかった。部屋のドアが開く音に驚いて、身体を硬直させた。
「あ、帰ってなかったんだ。大丈夫? 昨日、具合悪そうだったけど」
安藤先輩? どうしてここに?
「もう帰ったほうがいいんじゃない? 先生には僕が言っとくから」
安藤は部屋の時計を確認すると、高橋に微笑みかけて部屋をあとにした。
再び静かになった部屋をもう一度一瞥してから、高橋も部屋を出た。午後の授業が始まるチャイムが鳴っている。鍵をかけなくて大丈夫だろうか、と一瞬考えたが、倉庫のような部屋だし、そもそも自分には関係ないと思い直し、静かな廊下を進んだ。
道に迷うかと思ったが、存外すぐに外に出ることができた。土足で入ることができたことからクラブ棟の一室であることは明白だった。
手ぶらのまま、家路を歩く。体調がすこぶる悪く、冬の寒さとは対照的に身体は熱かった。頭はフラフラとして、靄がかかったように正常に思考できない。水溜まりに何度か足を踏み入れてしまい、靴の中はグショグショだった。
いつもなら家に近づく度に嫌悪する煙にも気付かないまま、無表情で階段を登る。ドアの取手を回転させると、簡単に開いた。鍵が掛かっていない違和感を通り越し、無遠慮に部屋へ進む。頭が痛み、身体は熱かった。リビングの箪笥を開き、着替えを探す手も覚束ない。
部屋を漂う慣れない匂いに顔をしかめて初めて、何か様子がおかしいことを悟った。
――あぁ、そうだ。
着替えを済まし、ゆっくりとリビングを見渡す。畳に赤黒い血痕が沈着していた。
昨日、バイト行ってないんだ。ああしたことがあったから……。
顔をしかめたあと、リビングに背を向け台所で傷口を洗うと、肩や腕に切り傷や火傷の痕が目について、にため息を吐いた。
眠気はなかったが、いかんせん身体がダルいので、少し休むことにした。学校には安藤が連絡を入れているはずなので、問題はない。
リビングから自室へ繋がる襖に手をかけたが、開けたら大変なことが起こるような、嫌な予感がしたのでそれを躊躇った。明らかに、異臭はこの部屋からする。
――頭、痛い。
喉にも違和感がある、風邪なのか、はたまた他の病気なのか、分からないが、恐ろしい倦怠感に襲われて、高橋はその場に座り込んだ。
いいや、部屋で何があるのかはあとで見よう。私が出掛けていたことは安藤先輩が知っている。私は完全に無関係なんだから、大丈夫。
座蒲団を枕にして、目を瞑るが、さすがに起きたばかりでは眠気はやって来ない。耳を澄ますと、近くの工場から一定の機械音がした。
――うるさい。
工場が動く音よりも確実に大きい、そして理解したくない音に、歪めた顔を座蒲団に押し付けた――インターフォンが鳴っている。
頭痛いのに、何回も鳴らすの、止めてくれないかなぁ。まさか居留守がバレてるとか?
「高橋くーん、いるんでしょう? 私、城崎。開けてくださーい」
ドア越しに聞こえる声に、ため息をつきながら立ち上がり、ゆっくりと台所を通過して、玄関へと向かう。鍵を開け、扉を開くと、ケーキの箱を持った恵美の姿があった。
「何ですか」
外の光に目を細める。私立の女子校に通う恵美のセーラー服は、中学時代のものよりも、幾分落ち着いた色合いになっている。
「何って……学校行ったら居なかったから、今日は休みだって言われて」
伏し目がちの、儚い雰囲気に圧倒される。中学の頃から容姿は良いほうだったが、最近になって輪をかけて綺麗になっていく恵美に、高橋は舌を巻くばかりだった。
「それで?」
「心配したから来ただけ」
なぜよりによって今日なんだ。違う日にしてくれたらよかったのに、せめて昨日とか。
恵美の肩まで伸びた髪が揺れた。中学三年生のときから恋人関係になってから、こうして彼女が自宅を訪れるのは珍しいことではなかった。
「ケーキ、食べるでしょ」
「上がり込む気ですか?」
「駄目?」
横目でケーキの箱を見る。高級ではないけれど、自分では決して手に入れることのできない代物。
「いや、いいですけど……」
家の中に入れることに躊躇したが、ケーキの誘惑には勝てなかった。扉を広く開け、恵美が通れる空間をつくる。
「やだ、ツンデレ? ひろみちゃん可愛い」
恵美はリビングへと慣れた様子で進んでいく。高橋は玄関の鍵を閉めたあと、台所でコップに水を注ぎ、食器棚を漁る。
「その呼び方、止めませんか」
リビングへ入ると、卓袱台に食器を置き、座蒲団に座る。恵美が慣れた手つきでケーキを皿に移し替えるのをぼんやりと眺めた。
まるで女の子のような呼び方を、以前は気にしていなかったが、歳を経るごとに嫌うようになっていた。
「そういうところ、面白いから好き。ひろみちゃんって、すっごく大人びたことを言ったと思えば、社交的になったり、気が乗らないふりをしたり、ときたま遠慮がちになったりするじゃない」
ケーキに手をつけない恵美に不審を覚える。まさか部屋を漂う異臭に危機でも感じているのだろうか。
「そう、ですか。気分屋なんですよ多分」
恵美の様子が気になって、思わず水に手が伸びる。口の中が干からびて、冷や汗が背中を伝った。呼び方が変わらないのは昔からだから気にしないことにする。
「肩、怪我してる」
空のコップを卓袱台に戻すと、恵美の手が首筋に伸びてきた。Tシャツの襟元を引っ張って、肩の傷を凝視している。
「転んじゃって」
目を逸らして答えると、突然強く肩を押された。一瞬のことで、何が起こったのか、状況の理解ができない。
「何年付き合ってるか知ってる?」
押さえられた肩が痛い。怪我をしていることを知っているはずなのに、わざと体重を乗せてくる。
見上げると恵美の顔が、想像よりも近くにあった。いつものような涼しげな表情ではなく、哀しげな、どこか切羽詰ったようなそれ。なまじ顔が整っている所為で、まるで映画のスクリーンに映った風景に見えた。泣いてはいないものの、そんな彼女の様子に良心の呵責を覚える。
「二年?」
「疑問形」
咎めるような口調。肩を抑えられた手が、耳に異動した。小さく爪が当たる感触に顔をしかめる。こんなところ、怪我してたっけ?
「二年も付き合ってるの、だから」
恵美は自分に言い聞かせるように呟いた。
「だから、私ずっと……」
――あぁ、この雰囲気、嫌いだ。
嫌いだからこそ、脱出するために何か言わなければならない。
恵美の手が髪を梳くのがわかった。寒気を感じるのはきっと、体調の所為だけではない。
「風邪」
高橋の返答に、恵美は驚いた様子で手を止めた。
「感染りますよ」
彼女を押し退けて起き上がると、頭がズキズキと痛んだので、卓袱台に肘をついた。視界に入る甘味に、ゆっくりと手を伸ばす。
「甘いものは好きです」
箸で食べてもやはりケーキは美味しい。昔を思い出すわけではないが、松戸にいた時代は、よく食べたものだ。
「私のこと、嫌い?」
泣くのは脅迫だ、と思う。どうしようもなくなって、戸惑ってしまうから、脅迫だと思う。
「あなたはもっと、聡明な人だと思っていました。そういうの、望ましくない傾向なのでは? 私がどういう人間か、知っているの?」
できるだけ遠回しに言う。恵美が泣く理由が、全く理解できなかった。
「でも好きなの!」
ばかばかしい。相手にしていられない。この女は精神の衰退を招く。
「ひろみちゃんは、私のこと好きじゃないの?」
「……」
質問には答えられない。ケーキを持ってくる以外の価値を彼女に見出だすことはできなかった。いっそ別れてしまおうか。暫く沈黙の時間が続く。
「……ひろみちゃんの部屋、何かある?」
恵美が沈黙を破る。リビングに漂う匂いの正体に気づいたのか、部屋とリビングを隔てる薄い襖を凝視していた。
「あー、えーと、それは……」
答え方が分からない。自分も見ていないから知らない、と言えばいいのか。見たくないのに恵美は立ち上がり、襖に手をかけてしまっている。
「待って!」
咄嗟に恵美の腕を掴んだが、襖は既に彼女によって開け放たれていた。恵美がゆっくりと後ずさる。掴んだ腕が震えているのが分かった。生物が腐った匂いは冬でも健在だ。
「……ひろみちゃん」
何と返答をしたら良いのか分からない。恵美の掠れた声が、嫌に耳にこびりついた。
「……私じゃない」
そう、私じゃない。私の所為じゃない。




